金蔵寺 2.4㎞ 善峯寺 1.4㎞ ポンポン山 2.0㎞
八町 どこまでのことなのかな
道標 前回の記事 ➡ 道標西0912 西之岡 西国三十三・・・ 第四番 春日観世音
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小塩山 山頂にある
淳和天皇は桓武天皇の第3皇子として延暦5年(786)に降誕された。母は贈皇太后藤原旅子。兵務卿・中務卿などを経て、弘仁元年(810)薬子の変後に嵯峨天皇の皇太弟となり即位された。詩文を好み、在位中、『経国集』や『令義解』等を撰進せしめられた。承和7年(840)5月8日、淳和院にて崩御。
宝算55歳。同月13日、乙訓郡物集女村にて火葬し、遺命によって山陵を築かず、遺骨は粉砕し、大原野の西の山嶺上に散布せしめられたという。
この地は古くから経塚または清塚といわれ、小石を積み重ねた円墳が5つばかりあったが、幕末に至って現陵を考定し、塚の上に土を封じて円墳に修復された。正しくは大原野西嶺上陵と号する。
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陵墓 前回の記事 ➡ 陵墓左027 後嵯峨院天皇中宮 大宮院粟田山陵
ギフチョウは採集禁止です (卵・幼虫も)
京都府天然記念物 西山自然保護ネットワーク
カタクリの入り口
現在 カタクリの養生中です。 観察路以外は立ち入り禁止
カタクリの花 花は開いていない
カタクリは明るい落葉樹林に育ちます。炭焼きは1980年頃に途絶え、炭焼き用だった小塩山のコナラは高齢になりました。老木が倒れても次世代の幼木が育っていません。コナラの幼木は、十分な日照を得なければ育たないのです。
当会は広大な小塩山のカタクリ保護地のコナラ林で、幼木を育てる方法を提案するため2015年秋から「定期的な伐採による若いコナラ林を維持する試験」始めました。
ギフチョウ
カタクリの花を下から 見上げると こんな様に見えるとのこと
花 前回の記事 ➡ 花右029 ノカンゾウ
小塩山と号する天台宗の寺で、境内に桜の木が多いので「花の寺」といわれる。寺伝によると白鳳8年(680)天武天皇の勅により役小角が創建したのが始まりといい、その後伝教大師最澄が比叡山の坤(西南)にあたるこの地に霊威を感じ、薬師如来像を安置し、天台の道場としたとつたえる。
はじめ小塩山大原寺と号したが、仁寿年間(851~54)仏陀上人(千観
僧都)が文徳天皇の帰依を得て伽藍を再興し、名も大原院勝持寺と改め、大原野神社の別当寺とした。それより伽藍が造営され、塔頭子院だけでも49院を擁する大寺になったという。足利尊氏は六波羅攻略にあたって当寺に立ち寄り、ときの住僧から「勝持」としるした旗竿を献じられ、戦勝の吉瑞なりとして嘉納した。
足利氏の庇護を得、寺運は隆盛におもむいた。寺宝に歴代足利将軍の古文書を所蔵するのはこのためである。その後、応仁の乱によって罹災し、境内は荒廃した。天正11年(1583)青蓮院宮尊澄法親王は当寺の再建につとめ、織田・豊臣両氏もまたその保護にあたった。とくに徳川桂昌院は崇仏の念あつく、堂宇の重修につとめた。
寺は東南に開け眺望よく、広い境内には西行手植えの桜をはじめ、幾多の桜の木があり、近江の守護大名佐々木道誉の当寺における花見をはじめ、中世には洛東の花頂山や若王寺とともに花の名所と称せられた。
瑠璃光殿の堂内厨子内に安置する如意輪観音半跏像(国宝・平安)は西山屈指の像・高さ88㎝、右足を垂れ、榧の一木彫りからなっている。
衣文はきわめて複雑で、本像は宝菩提院の本尊であるが客仏として現在当寺に保管中。
細川幽斎も近くの長岡勝竜寺城在城の時、当寺で連歌を興行した。特に元亀2年(1571)2月5日の歌会は世に「大原千句」といわれ、その時の懐紙は、寺宝となっている。
仁王門は3間一戸、寄棟造り、桟瓦葺の八脚門で、正面一間を通路としている。寺伝では仁寿年間(851~54)の建造とつたえ、応仁の兵火に免れた当寺最古の建物であるがその後改築によって旧構を喪っている。左右の安置される金剛力士立像二体(重文・鎌倉)は、弘安8年(1285)法眼慶秀・法橋湛□両仏師によって作られた墨書銘があり、本市最古の仁王像とみられている。
西行桜は鐘楼の近くにある。西行は世を捨ててのち当寺に入り、出家剃髪したといわれ、その折に植えた桜とつたえる。桔梗形の八重桜で、枝は四方に広がっている。
花の寺と西行桜
平安の末期、鳥羽院の北面の武士であった佐藤兵衛義清が、この寺に入って出家し西行法師となる。その折鏡石と姿見池が残されている。武勇で知られた西行がなぜ出家したのかその原因はさだかではないが、石に向かいながら髪をおろしたその気持ちは如何であったのだろう。
西行はここに草庵を結び一株の桜を植えて吟愛していた。世人はその桜を「西行桜」と称し、寺を「花の寺」と呼ぶようになり、古来から有名な花の名所として知られるようになった。南北朝の時代、婆娑羅大名として知られる佐々木道誉が闘茶会を宴すなど数々の花見の宴、茶会で賑わったようである。謡曲「西行桜」は、この隠栖している西行法師と、庵室の庭に咲いている桜をからませて、春宵の閑寂な情緒をえがいたもので、当寺が舞台になっている。謡曲史跡保存会
西行姿見ノ池・鏡石
不動堂の前にある。鏡石は珪石質で光沢があり、西行が剃髪に用いたものといわれ、その傍に「姿見ノ池」と称する小さな池がある。
翁滝は本堂の背後にある。開山仏陀上人が山王権現に出会ったところと伝え、今も岩の間から水がしたたり落ちている。
関連記事 ➡ まとめ036 花の寺・勝持寺
寺院前回の記事 ➡ 寺院西0509 花の寺・勝持寺
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西行桜は鐘楼の近くにある。西行は世を捨ててのち当寺に入り、出家剃髪したといわれ、その折に植えた桜とつたえる。桔梗形の八重桜で、枝は四方に広がっている。
花の寺と西行桜
平安の末期、鳥羽院の北面の武士であった佐藤兵衛義清が、この寺に入って出家し西行法師となる。その折鏡石と姿見池が残されている。武勇で知られた西行がなぜ出家したのかその原因はさだかではないが、石に向かいながら髪をおろしたその気持ちは如何であったのだろう。
西行はここに草庵を結び一株の桜を植えて吟愛していた。世人はその桜を「西行桜」と称し、寺を「花の寺」と呼ぶようになり、古来から有名な花の名所として知られるようになった。南北朝の時代、婆娑羅大名として知られる佐々木道誉が闘茶会を宴すなど数々の花見の宴、茶会で賑わったようである。謡曲「西行桜」は、この隠栖している西行法師と、庵室の庭に咲いている桜をからませて、春宵の閑寂な情緒をえがいたもので、当寺が舞台になっている。謡曲史跡保存会
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前回の記事 ➡ 寺院西0508 花の寺・勝持寺
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愛染明王
お堂の中、右側に安置されております。この方も大日如来のお使いで、多少の差こそあれ人間には誰にでもある、性欲におぼれ、物事をむさぼり愛し、それに執着し染まる心その愛欲の心を去って、清浄な、心の安定した心境に導いて下さる仏様です。煩悩即菩提
不動明王
お堂の奥の岩の中に安置されています。正しくは大聖不動明王とお呼びし、大日如来のお使いです。常に怒った顔をし、炎の中におられ、信心される方の代りにあらゆる難儀なことを焼きつくし、昼夜守り、願いを成就させるためにお働きになる仏様です。よく「厄除」として信仰されます。特に当寺のお不動様は「眼病平癒」の信仰があります。ご祈祷(毎年8月27日)の申し込みとお守りは受付へお願いします。
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寺院前回の記事 ➡ 寺院西0507 花の寺・勝持寺
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本堂
瑠璃光殿(宝物館)
本尊 薬師如来(鎌倉) 重文
胎内仏 薬師如来 (平安 重文)
日光菩薩 (鎌倉)
月光菩薩(鎌倉)
十二神将(鎌倉)
仁王尊(鎌倉 重文
西行法師像(室町)
醍醐天皇勅額 小野道風筆(平安)
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寺院前回の記事 ➡ 寺院西0506 花の寺・勝持寺
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平成29年4月12日 撮影
風景が素晴らしい
曇り空でした
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寺院 前回の記事 ➡ 寺院東0505 頂妙寺
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15 桜上025 京都御苑 里桜 花絨毯 平成28年4月25日
17 桜下023 街なかの桜 東洞院高辻 辺り H28.3.26
27 桜右013 桜守 佐野さん の 桜です H27.4..2
33 桜上007 雨宝院の桜
34 桜上006 立本寺の桜
35 桜上005 本満寺の桜
38 寺院上0020 桜上002 本満寺の桜 つぼみやや膨らむ 日蓮宗
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