令和元年9月15日 画像追加
平成30年4月29日撮影
東方向を見る 左は二条城
北方向を見る
平成31年1月29日
大学寮は,平安時代の高等教育機関で式部省の管轄下にあり,大学頭以下の事務官,博士以下の教官,学生から成り立っていた。最盛期は菅原・大江氏に代表される平安時代前期で,後期には漸次衰退し,治承元(1177)年の大火で焼失した。
此附近 大学寮址
大正四年十一月建之 京都市教育会
寄附者 柏木亀蔵
関連記事 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所
令和元年9月15日 画像追加
平成30年4月29日撮影
東方向を見る 左は二条城
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平成31年1月29日
大学寮は,平安時代の高等教育機関で式部省の管轄下にあり,大学頭以下の事務官,博士以下の教官,学生から成り立っていた。最盛期は菅原・大江氏に代表される平安時代前期で,後期には漸次衰退し,治承元(1177)年の大火で焼失した。
此附近 大学寮址
大正四年十一月建之 京都市教育会
寄附者 柏木亀蔵
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最勝山 福田寺(ふくでんじ)
最勝山福田寺と号し、浄土宗西山禅林寺派に属するここ高田は「和名抄」にでてくる葛野郡高田郷が村名になったと考えられ日本書紀にもみえる高田首(たかだのおびと)が部民を統率してこの地に移り住んだのが起こりといわれる。中世には荘園となり近世では公家・寺院の荘園領でもあったこの寺の開基とその年代は不詳であるが、正徳年間(1711~1715)乗蓮社運誉上人をもって中興とし以来法灯がつづき300年の歴史がある。その間明治5年の廃仏毀釈により玉伝寺が合祀せられ明治10年には高福寺を合併し今日の福田寺の基礎をなす。寺院建物は本尊阿弥陀如来をまつる本堂と地蔵堂と弁天堂と庫裏とからなる。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0633 妙心寺 大通院 内助の功といわれた千代(マツ)
梅津から 広沢の池 の間に設置されている 北から見たところ
南から見たところ
まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き右1074 畑のネギ
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美濃土岐氏の家臣一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が南化和尚を開山とし、天正14年(1586)に建立されたが、のち山内一豊の男、湘南和尚が中興するに至って山内家の菩提寺となった。境内墓地には山内一豊夫妻の廟(桃山時代)がある。
2006年 大河ドラマ NHK
功名が辻 司馬遼太郎 千代 仲間由紀恵
山内一豊 上川隆也
大通院
開基夫妻御廟
旧土佐國藩主
山内一豊公
慶長10年9月薨去(こうきょ)
仝 マツ公室(千代)
元和3年12月逝去
廟屋は今より375年の建築であるがその様式は桃山時代のそれであって稀に見る特異の建造物に属し両夫妻とも僧形のまま石棺の中に埋葬されたと傳えられる
昭和37年7月 院主敬白
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0632 妙心寺 春光院 重文
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
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平成30年4月27日 撮影
まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き右1073 妙心寺北門前 石柱・街燈
関連記事 ⇒ 寺社検索05 太秦・嵯峨野
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春光院
もとは俊厳院(しゅんがん)と称した。豊臣秀吉の家来で、後に初代松江城主となった堀尾吉晴(ほりおよしはる)が、18歳で戦病死した長男・金助の菩提を弔うため碧潭和尚(へきたん)を開山として、天祥18年(1590)に建立した。堀尾家三代目の忠晴が病死し、間もなくして断絶したが、忠晴の息女が石川家に嫁いでいたことから、石川憲之が代わって壇越となり中興してから寺名も春光院と改めた。本堂には堀尾夫妻と金助の像を安置し、境内墓地には堀尾家一族の墓がある。
方丈西庭の常盤の庭は堀尾吉晴の作庭といわれる。また、さざれ石の庭と呼ばれる方丈前庭は、伊勢神宮を表現した枯山水の庭園で、石川氏の伊勢神宮崇拝の厚さをよく表している。
方丈には5室にわたって金地著色「芦雁図」を中心とする87面の京狩野派の障壁画がある。狩野永岳の筆とつたえる。書院には土方稲嶺(ひじかたとうれい)筆「波図」「松図」等の障壁画がある。
方丈東にある銅鐘(重要文化財)は、表面に1577の西暦とHIS(イエズス会の紋章)が鋳出されたヨーロッパ風の鐘で、寺伝によると、もとは四条姥柳町にあった南蛮寺のものと推定され、当院へは嘉永7年(1854)に移されたという。初期キリスト教を今に伝える貴重な遺産である。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0631 妙心寺 天祥院
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
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天祥院
正保2年(1645)の成立で、松平忠弘が成徳院、実相院を創建した父忠明(1644没)の菩提寺として建立したもの。開祖は乳峯義元(にゅうほうぎげん)で、明治11年に慈性院を合併したが、明治19年(1888)2月に土蔵、門を除いて焼失した。明治22年再建に着手、竣工後今日に至る。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0630 妙心寺 徳雲院
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
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永正3年(1506)に大休宗休(1468~1549)が開基となって成立した塔頭。旧跡は霊雲院に対向する大庫司の地であり、大休から譲与された元梁和尚が現在地に移建した。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0629 妙心寺 寿聖院(じゅしょういん) 石田三成 菩提寺
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
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寿聖院
慶長4年(1599)石田三成が父正継の菩提寺として伯蒲(はくほ)和尚を請じて創建した。関ケ原の合戦後、寺運は急速に衰微した。三成の嫡子重家は大阪城より逃れて当院に入寺し、第三世を継いだといわれ、江戸時代には徳川氏の圧迫をうけ、境内も縮小し、往時の書院を本堂にあてられている。寺宝として伯蒲和尚賛「石田正継像」、石田三成の書状
境内墓地には石田正継、正澄(三成の弟)等、三成一族の墓がある。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0628 妙心寺 金牛院(きんぎゅういん)
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
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金牛院(きんぎゅういん)
慶安3年(1650)環陵が創建した塔頭。谷口村(右京区谷口)にあったが、明治11年(1878)山内万猷院(まんゆういん)に合併されたとつたえる。
近年境内の一隅に印度古代建築様式の聖牛祠堂が建立され、異彩を放っている。
寺説によれば、牛は人間とのかかわりが深く、人を導く宇宙神の使者といい、祈願をすれば福運は招来し、万民至福の道をかなえるといわれる。この祠堂は南印度産の石材を用い、古代印度グプタ式窟院をまねたもので、堂内には青銅製の牛像を安置する。
寺院前回の記事 ⇒ 寺院右0627 妙心寺 天球院 重文
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
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天球院
寛永8年(1631)岡山藩主 池田光政が伯母の天球院殿のため、江山(こうざん)和尚を開山に請じて建立した池田家の菩提寺である。
本堂は禅宗方丈建築の典型として貴重なものである。
方丈内部の襖絵56面、杉戸絵16枚等併せて152面(重文・桃山時代~江戸時代)は狩野山楽・山雪父子の筆とつたえ、表側の花鳥走獣をした金碧画に対し、奥側の部屋は山水人物画に区切られている。有名です。また、寺宝として藤原宣房(のぶふさ)筆の「法華経陀羅尼品」を所蔵している。
寺院前回の記事 ⇒ 寺院右0626 妙心寺 隣華院(りんかいん) 重文 豊臣棄丸座像
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
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隣華院
慶長4年(1599)賤ケ嶽七本槍の一人、脇坂保治が南化和尚を開山として建立した脇坂家の菩提寺で、境内墓地には脇坂安治以下一族の墓がある。
方丈の襖絵紙本墨画「山水図」20面(重文・桃山時代)は長谷川等伯の作といわれている。また、狩野永岳の筆になる障壁画が収められている。
豊臣棄丸座像 重文 がある。
豊臣棄丸(1589~91)は秀吉と淀君との間に生まれた長子で、秀頼の兄にあたる。別名を鶴松といい、天正19年わずか3歳でこの世を去った。葬儀は妙心寺でとりおこなわれ、玉鳳院の廟所に祀られた。秀吉は50歳を過ぎてはじめて得た愛児の死をいたみ、東山の現在の智積院の地に祥雲寺を建て、この棄丸像をつくって祀ったといわれる。徳川家康が天下の権を執るにおよび、豊臣所蔵の祥雲寺は没収され、寺地は真言宗智積院に与えられた。開山の南化和尚歿(1604)後、祥雲寺の経営に当たっていた海山和尚がこの木像を負うて、隣華院に持ち帰ったのである。日本の肖像彫刻史上、このような幼児の像はきわめて珍しい。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0625 妙心寺 寺号標 北門前 他1基
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