世の中、国内外情勢が逼迫、そして緊迫の一途です。
新型コロナウイルスに米中対立激化、政治や経済社会の大波乱と、ある意味で、冷戦激化した1980年代前半の情勢に似てきていると、筆者は感じております。
このような中で、日本や世界の芸能界を見廻せば、国民的、世界的なアーティストやアイドルが出てきても良いのではないでしょうか。
尤も、現在は「初音ミク」をはじめとするボカロ系から、「アイドルマスター」等の育成ゲーム系CG動画まであり、それらがAKB系アイドル等と、相互影響しているという現状ですが。
5月13日にzakzak by 夕刊フジが「松田聖子の「ライバルです」に中森明菜「別に…」発言の真相」の題で、次のように伝えました。
『黄金期だった1980年代のアイドルのなかでも2トップとして並び称されるのが、松田聖子と中森明菜である。切磋琢磨するライバルの存在が、スターをいっそう輝かせたことは間違いない。
聖子を発掘した音楽プロデューサーの若松宗雄氏は、彼女との“出会い”をこう振り返る。
「オーディション出場者のカセットテープを片っ端から聴いていたら、そのなかに桜田淳子の『気まぐれヴィーナス』を歌う聖子のテープがあった。例えて言えば、台風の後に晴れ渡って空気が澄んでいくような、透明感のある伸びやかな歌声でした」
デビュー2枚目の『青い珊瑚礁』が大ヒットし、聖子は一躍トップアイドルの座に。2年後、街に“聖子ちゃんカット”が溢れるなか、まったく別の雰囲気を持って登場したのが明菜だった。
「ブリッ子」と呼ばれた聖子に対し、明菜は『少女A』などの曲のイメージから「ツッパリ少女」路線。中高生のみならず、お茶の間全体が「聖子派」と「明菜派」に二分された。
“後輩”の明菜が聖子を意識していたかと思いきや、実際は全く逆だったという。
「聖子は本当に負けず嫌いで、明菜に“負けたくない”という意識が強かった。明菜のレコードの売り上げや出演番組を知りたがっていたという報道もありましたが、実際にそう言っていたとしても不思議ではありません。同時期に資質の違う明菜というライバルがいたことは、歌唱など芸事の面でも聖子にとって絶対にプラスだったと思います」(同前)
『ザ・ベストテン』に初めて2人揃って出演し、司会の黒柳徹子が「お互いをどう思っているか」と質問したときのことだ。聖子が即座に「ライバルです」と答えたのに対し、明菜はちょっと考え込んだ表情の後に「別に……」とだけ口にした。
もちろん明菜に悪意があったわけではないと、当時、彼女の担当プロモーターを務めていた作家の沢里裕二氏は語る。
「中森が聖子さんを意識したことは一切なく、本人にすれば“なんで比較するんだろう?”という感じだったと思います。完全に“松田聖子”を演じることができるのが聖子さんで、一方、中森は古くさいアイドル像に不満を持ってセルフプロデュースを始めた。大衆が求めるものを本能的に理解できる聖子さんに対して、中森はその大衆を裏切ろうとしていた」
何もかも対照的な2人だからこそ、国民を二分する人気を得られたのだろう。
※週刊ポスト2021年4月30日号』
中々、鋭いご指摘の記事ですね。
松田聖子さんと、中森明菜さん。
二人の共演、是非、今だからこそ、実現して欲しい、と思うのは贅沢でしょうか?
4月17日07時00分にNEWSポストセブンが「若き中森明菜が口にしていた「百恵さんと私は違うでしょう」」の題で次のような、中森明菜さんのエピソードを伝えています。
『昭和の歌姫と聞いて誰を思い浮かべるかは、人により世代により様々だろうが、昭和の最後を飾った歌姫としては、中森明菜を挙げるファンも少なくないだろう。『週刊ポスト』(4月16日発売号)では昭和のライバル史をテーマにした特集で、松田聖子と中森明菜の知られざるエピソードを紹介している。アイドル全盛と言われた1980年代、中森明菜はそれまでの常識を覆す「ツッパリ少女」のイメージで一世を風靡した。その姿は「ぶりっ子」と呼ばれた松田聖子と対照をなしたが、実はそれは本人の性格や意図とは違っていたのだという。当時、ワーナーミュージックで担当プロモーターを務めた田中良明氏(現在は「沢里裕二」名義で作家活動)が、ファンも知らなかった中森明菜の素顔を明かした。
* * *
松田聖子さんは、本能的にプロデューサーやファンが自分に求めるものを理解している「芸能界の住人」でしたが、中森はそこにこだわらない歌手でした。むしろ常にファンを裏切ろうとしていたようにさえ見えました。だから、誰のこともライバルだとは思っていなかったのではないでしょうか。ある意味では無関心。少なくとも他の歌手やタレントの悪口を言うということは一切なかったですね。
聖子さんは、スタジオに入ってきただけで場が華やぎます。それに対して中森は、ピーンと空気が張り詰めます。良くも悪くも緊張感をもたらす歌手でした。共演者のなかにも、ピリピリしている時の中森は嫌だという人がかなりいたのも確かです。先輩歌手やディレクターに挨拶する時にも、機嫌が悪ければ目がつり上がったままですから。それも本当に悪意はなくて、ひとつには自分の緊張を隠す意味合いもあったようです。
全盛期の聖子さんと中森は、テレビ局で顔を合わせても表面上、笑顔で会話するだけという感じだったと思います。のちに大人になってからは互いを認め合い、楽曲をカバーし合ったりしていますが、それは二人が成熟してからの話です。中森はあまり聖子さんを意識していませんでしたし、聖子さんのほうは利口だから、共演すれば笑顔で接していたというところだったと思います。
これは私が目の前で聞いた中森の言葉ですが、中学生の頃から憧れていた山口百恵さんと自分の違いをこんなふうに言っていました。
「百恵さんは横浜生まれの横須賀育ち。もうそれだけで私と違うでしょう。私、大森生まれの清瀬育ちだもんね。雰囲気が違いすぎるでしょう」
見栄を張らない中森の性格が、この言葉に表れている気がします。ですから、憧れの存在だったとしても、衣装や歌唱法を真似るということは一切ありませんでしたね。
本人は、それまでのアイドルとは全く違う世界観を作り上げようとしていたと思います。最先端ブランドだった「アーストンボラージュ」とか、バブル期に流行した「ネオジャパネスク」などの世界観を取り入れたかったんじゃないでしょうか。
しかし、まだまだ芸能界は古い体質だったから、それについていけるスタッフは少なかったと思います。アイドルといえばミニのパラシュートスカートで腰を振って踊る、本人が不満を感じていても周りがなだめればいい、という風潮がありましたから、中森はそれに不信感を募らせていたかもしれません。「ツッパリ路線」も中森の本質とはマッチしていなかった。「禁区」くらいまでは仕方なくやっていたように見えました。「飾りじゃないのよ涙は」あたりから衣装も一気に変わっていきますが、それはようやく本人がセルフプロデュースできるようになったからです。
スタッフに対する厳しい注文も、中森が最初からアイドルではなくアーティストだったからだと思います。』
特にこれからの芸能界で必須、松田聖子と中森明菜の両氏の国民的アイドルの違いを知ろう!!
中森明菜さんのヒット曲、1/2の神話
出典:中森明菜さんのファン ツイッター流布画像
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新型コロナウイルスに米中対立激化、政治や経済社会の大波乱と、ある意味で、冷戦激化した1980年代前半の情勢に似てきていると、筆者は感じております。
このような中で、日本や世界の芸能界を見廻せば、国民的、世界的なアーティストやアイドルが出てきても良いのではないでしょうか。
尤も、現在は「初音ミク」をはじめとするボカロ系から、「アイドルマスター」等の育成ゲーム系CG動画まであり、それらがAKB系アイドル等と、相互影響しているという現状ですが。
5月13日にzakzak by 夕刊フジが「松田聖子の「ライバルです」に中森明菜「別に…」発言の真相」の題で、次のように伝えました。
『黄金期だった1980年代のアイドルのなかでも2トップとして並び称されるのが、松田聖子と中森明菜である。切磋琢磨するライバルの存在が、スターをいっそう輝かせたことは間違いない。
聖子を発掘した音楽プロデューサーの若松宗雄氏は、彼女との“出会い”をこう振り返る。
「オーディション出場者のカセットテープを片っ端から聴いていたら、そのなかに桜田淳子の『気まぐれヴィーナス』を歌う聖子のテープがあった。例えて言えば、台風の後に晴れ渡って空気が澄んでいくような、透明感のある伸びやかな歌声でした」
デビュー2枚目の『青い珊瑚礁』が大ヒットし、聖子は一躍トップアイドルの座に。2年後、街に“聖子ちゃんカット”が溢れるなか、まったく別の雰囲気を持って登場したのが明菜だった。
「ブリッ子」と呼ばれた聖子に対し、明菜は『少女A』などの曲のイメージから「ツッパリ少女」路線。中高生のみならず、お茶の間全体が「聖子派」と「明菜派」に二分された。
“後輩”の明菜が聖子を意識していたかと思いきや、実際は全く逆だったという。
「聖子は本当に負けず嫌いで、明菜に“負けたくない”という意識が強かった。明菜のレコードの売り上げや出演番組を知りたがっていたという報道もありましたが、実際にそう言っていたとしても不思議ではありません。同時期に資質の違う明菜というライバルがいたことは、歌唱など芸事の面でも聖子にとって絶対にプラスだったと思います」(同前)
『ザ・ベストテン』に初めて2人揃って出演し、司会の黒柳徹子が「お互いをどう思っているか」と質問したときのことだ。聖子が即座に「ライバルです」と答えたのに対し、明菜はちょっと考え込んだ表情の後に「別に……」とだけ口にした。
もちろん明菜に悪意があったわけではないと、当時、彼女の担当プロモーターを務めていた作家の沢里裕二氏は語る。
「中森が聖子さんを意識したことは一切なく、本人にすれば“なんで比較するんだろう?”という感じだったと思います。完全に“松田聖子”を演じることができるのが聖子さんで、一方、中森は古くさいアイドル像に不満を持ってセルフプロデュースを始めた。大衆が求めるものを本能的に理解できる聖子さんに対して、中森はその大衆を裏切ろうとしていた」
何もかも対照的な2人だからこそ、国民を二分する人気を得られたのだろう。
※週刊ポスト2021年4月30日号』
中々、鋭いご指摘の記事ですね。
松田聖子さんと、中森明菜さん。
二人の共演、是非、今だからこそ、実現して欲しい、と思うのは贅沢でしょうか?
4月17日07時00分にNEWSポストセブンが「若き中森明菜が口にしていた「百恵さんと私は違うでしょう」」の題で次のような、中森明菜さんのエピソードを伝えています。
『昭和の歌姫と聞いて誰を思い浮かべるかは、人により世代により様々だろうが、昭和の最後を飾った歌姫としては、中森明菜を挙げるファンも少なくないだろう。『週刊ポスト』(4月16日発売号)では昭和のライバル史をテーマにした特集で、松田聖子と中森明菜の知られざるエピソードを紹介している。アイドル全盛と言われた1980年代、中森明菜はそれまでの常識を覆す「ツッパリ少女」のイメージで一世を風靡した。その姿は「ぶりっ子」と呼ばれた松田聖子と対照をなしたが、実はそれは本人の性格や意図とは違っていたのだという。当時、ワーナーミュージックで担当プロモーターを務めた田中良明氏(現在は「沢里裕二」名義で作家活動)が、ファンも知らなかった中森明菜の素顔を明かした。
* * *
松田聖子さんは、本能的にプロデューサーやファンが自分に求めるものを理解している「芸能界の住人」でしたが、中森はそこにこだわらない歌手でした。むしろ常にファンを裏切ろうとしていたようにさえ見えました。だから、誰のこともライバルだとは思っていなかったのではないでしょうか。ある意味では無関心。少なくとも他の歌手やタレントの悪口を言うということは一切なかったですね。
聖子さんは、スタジオに入ってきただけで場が華やぎます。それに対して中森は、ピーンと空気が張り詰めます。良くも悪くも緊張感をもたらす歌手でした。共演者のなかにも、ピリピリしている時の中森は嫌だという人がかなりいたのも確かです。先輩歌手やディレクターに挨拶する時にも、機嫌が悪ければ目がつり上がったままですから。それも本当に悪意はなくて、ひとつには自分の緊張を隠す意味合いもあったようです。
全盛期の聖子さんと中森は、テレビ局で顔を合わせても表面上、笑顔で会話するだけという感じだったと思います。のちに大人になってからは互いを認め合い、楽曲をカバーし合ったりしていますが、それは二人が成熟してからの話です。中森はあまり聖子さんを意識していませんでしたし、聖子さんのほうは利口だから、共演すれば笑顔で接していたというところだったと思います。
これは私が目の前で聞いた中森の言葉ですが、中学生の頃から憧れていた山口百恵さんと自分の違いをこんなふうに言っていました。
「百恵さんは横浜生まれの横須賀育ち。もうそれだけで私と違うでしょう。私、大森生まれの清瀬育ちだもんね。雰囲気が違いすぎるでしょう」
見栄を張らない中森の性格が、この言葉に表れている気がします。ですから、憧れの存在だったとしても、衣装や歌唱法を真似るということは一切ありませんでしたね。
本人は、それまでのアイドルとは全く違う世界観を作り上げようとしていたと思います。最先端ブランドだった「アーストンボラージュ」とか、バブル期に流行した「ネオジャパネスク」などの世界観を取り入れたかったんじゃないでしょうか。
しかし、まだまだ芸能界は古い体質だったから、それについていけるスタッフは少なかったと思います。アイドルといえばミニのパラシュートスカートで腰を振って踊る、本人が不満を感じていても周りがなだめればいい、という風潮がありましたから、中森はそれに不信感を募らせていたかもしれません。「ツッパリ路線」も中森の本質とはマッチしていなかった。「禁区」くらいまでは仕方なくやっていたように見えました。「飾りじゃないのよ涙は」あたりから衣装も一気に変わっていきますが、それはようやく本人がセルフプロデュースできるようになったからです。
スタッフに対する厳しい注文も、中森が最初からアイドルではなくアーティストだったからだと思います。』
特にこれからの芸能界で必須、松田聖子と中森明菜の両氏の国民的アイドルの違いを知ろう!!
中森明菜さんのヒット曲、1/2の神話
出典:中森明菜さんのファン ツイッター流布画像
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