小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

☆☆…六十一番  伊勢大輔 …☆☆

2015-04-10 | 百人一首
六十一番.…伊勢大輔…(989?~1060)

いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな

 
 神祇伯正三位大中臣輔親の娘で歌人として高名な能宣は祖父、頼基は曾祖父にあたります。
 つまり、伊勢大輔は大中臣家重代歌人の系譜に連なる歌人であります。大輔は「たいふ」と読み宮仕えの折の役職で、例によって本名はわかりません。
寛弘四年(1007)頃から上東門院彰子に仕えたので、紫式部や和泉式部とも親しい間柄でした。
 61番に選ばれたこの歌は、歌としての評価はそう高いものではありませんが、成り立ちからすっかり有名になったといわれています
 まだ、大輔が彰子中宮の元に出仕して間もない頃のことでした。春爛漫のある日、中宮やその父の道長を囲んで談笑していました。華やかなその場に控えているだけで若い女房たちは晴れがましく誇らしかったことでしょう。そこへ奈良の僧都から立派な八重桜が届きました。
 宮廷の儀式として使者から桜を受け取って主上にお渡しする係の人が決まっていました。この場ではあの紫式部でした。紫式部はその役目を新人の大輔に譲りました。古参の式部は後進を育てなければと思っていたのかもしれません。咄嗟の思いがけないなりゆきに人々は驚いて緊張します。
 一番驚愕したのは名指しされた大輔だったでしょう。なにしろ、桜を中宮に差し出すだけではなく和歌を添えなければならないのです。それも速攻で詠まなければいけません。代々歌人の誉れ高い家の娘として知られていますから座の人々も興味いっぱいで大輔を見ています。祖父や父の名を汚してはいけないというプレッシャーもあったでしょう。
 呼吸を整えると大輔は透き通る声で詠い始めました。その歌がこの「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」だったのです。奏詠が終わると大輔は震える手で八重桜を中宮に差し出しました。中宮もも道長も満足げに微笑まれて、その場の人々も「さすがに血は争えない」と感心していました。
思いがけず、滅多に歌を詠まれない中宮が
九重ににほふを見れば桜狩 重ねてきたる春かとぞ思ふ
と返歌を下さったのも大輔には記念すべき歌人としての華やかなデビューとなりました。
 若手を推薦した紫式部といい励ましの歌を返された彰子中宮といい華やかな内裏でのエピソードには爽やかで心温まるものも少ないのでしょうね。それらは歌集や詞書、随筆、日記などから推量を重ねていって伝わってくるものなのでしょう。

 その後、大輔は彰子の政敵?である中宮定子のいとこの高階成順(なりのぶ)と結婚しました。歴史上でも有名なお二人の中宮とも縁の深い歌人としての生涯をおくったといえます大輔の歌は後拾遺集に27首、新古今集に7首、また、代々の勅撰集に50首ほど入集しています。また、家集に『伊勢大輔集』があります。
 康保三年(1060)頼通主催の志賀僧正明尊の九十賀に歌を詠んだ歌が最後の記録として残っています。1007年に宮廷に10歳くらいから仕え始め最後の歌が1060だとすると六十五、六歳で亡くなったのでしょうか。
勅撰歌人の康資王母、筑前乳母、源兼俊母などの勅撰歌人を産みました。幸せに充実した一生を送ったことでしょう。

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