待賢門院堀河(生没年不詳)
村上源氏。右大臣顕房の孫で、父は神祇伯をつとめ歌人としても名高い顕仲です。
神祇伯というのは神官たちを統率する役所の長官なので名家のお嬢様といえましょう。
姉妹の顕仲女(重通妾)・大夫典侍・上西門院兵衛はいずれも勅撰歌人ですが、この堀河は当時、有数の女流歌人で西行とも親しい仲だったそうです。
はじめは前斎院令子内親王(白河第三皇女。鳥羽院皇后)に仕えて六条と称されていましたが、やがて、待賢門院藤原璋子(鳥羽院中宮。崇徳院の母)に仕えて堀河と呼ばれるようになりました。
この間に結婚をして子供が生まれましたが、まもなく夫が亡くなってしまいました。
まだ幼い子供は父の顕仲の養子となり、堀河は宮仕えを続けました。
康治元年(1142)には主の待賢門院璋子が落飾されたのでそれに従って出家し璋子と仁和寺に住んだそうです。
待賢門院璋子という方は鳥羽天皇の中宮で崇徳天皇・後白河天皇の母君です。
幼い頃に白河法皇の猶子となり、院御所で育てられました。白河法皇に寵愛されますが、法皇の孫の鳥羽天皇の皇后にさせられました。
が、入内以降も白河法皇との関係は続き、第1皇子(崇徳天皇)は法皇の子であり、鳥羽天皇は「叔父子」と呼んで冷遇し、それが保元の乱の遠因となったのでした。
白河法皇が亡くなると鳥羽天皇は寵愛していた得子の生んだ皇子を天皇にして崇徳を遠島に幽閉し、まもなく崇徳は死亡。
それを悲しんで璋子は落飾したのです。
崇徳院は歌檀を愛した方で、この当時の歌人達との交流が盛んでした。
西行などは配流先へ崇徳院を訪ねていったほどでした。
崇徳院が催された数多い歌会で堀河の歌才が花開いていったともいえましょう。
八十番のこの歌は「百首歌奉りけり時恋の心をよめる」として『千載集』に出ています。
「あなたはずっと変わらないでいてくださるのでしょうか。私にはそれがわからなくてとても不安なんです。ゆうべは信じていました。でも、お帰りになってしまった今朝は、この乱れた黒髪のようにあれこれと心が乱れてなりません」
恋する不安な気持ちがいじらしいほどに伝わってきますね。素敵な恋だったのでしょう。
この当時の、女性の例通り生年月日や名前さえ不明ですが、堀河の場合は多くの歌が残されていますのでおぼろげながら足跡を辿ることができました。
久安六年(1150)に奏覧された『久安百首』の作者に家集に『待賢門院堀河集』があり、勅撰集に六十七首も採られています。
出家して、黒髪はなくなってしまいましたが歌は残って今も愛されているのですね。
付記
「待賢門院璋子の生涯」(角田文衛著 朝日選書)を読んで興味を覚え璋子が再建したという法金剛院へ行きました。数年前の梅雨の時期でした。蓮が咲き始めていました。ほかに参拝者もなく静寂そのもので尼寺らしい「花の寺」にふさわしい優美さに包まれていました。堀河も尼になってお仕えしたのでしょう。平安末期の浄土式庭園の遺構が1968年に発掘・復元されています。
八十番 長からむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ
村上源氏。右大臣顕房の孫で、父は神祇伯をつとめ歌人としても名高い顕仲です。
神祇伯というのは神官たちを統率する役所の長官なので名家のお嬢様といえましょう。
姉妹の顕仲女(重通妾)・大夫典侍・上西門院兵衛はいずれも勅撰歌人ですが、この堀河は当時、有数の女流歌人で西行とも親しい仲だったそうです。
はじめは前斎院令子内親王(白河第三皇女。鳥羽院皇后)に仕えて六条と称されていましたが、やがて、待賢門院藤原璋子(鳥羽院中宮。崇徳院の母)に仕えて堀河と呼ばれるようになりました。
この間に結婚をして子供が生まれましたが、まもなく夫が亡くなってしまいました。
まだ幼い子供は父の顕仲の養子となり、堀河は宮仕えを続けました。
康治元年(1142)には主の待賢門院璋子が落飾されたのでそれに従って出家し璋子と仁和寺に住んだそうです。
待賢門院璋子という方は鳥羽天皇の中宮で崇徳天皇・後白河天皇の母君です。
幼い頃に白河法皇の猶子となり、院御所で育てられました。白河法皇に寵愛されますが、法皇の孫の鳥羽天皇の皇后にさせられました。
が、入内以降も白河法皇との関係は続き、第1皇子(崇徳天皇)は法皇の子であり、鳥羽天皇は「叔父子」と呼んで冷遇し、それが保元の乱の遠因となったのでした。
白河法皇が亡くなると鳥羽天皇は寵愛していた得子の生んだ皇子を天皇にして崇徳を遠島に幽閉し、まもなく崇徳は死亡。
それを悲しんで璋子は落飾したのです。
崇徳院は歌檀を愛した方で、この当時の歌人達との交流が盛んでした。
西行などは配流先へ崇徳院を訪ねていったほどでした。
崇徳院が催された数多い歌会で堀河の歌才が花開いていったともいえましょう。
八十番のこの歌は「百首歌奉りけり時恋の心をよめる」として『千載集』に出ています。
「あなたはずっと変わらないでいてくださるのでしょうか。私にはそれがわからなくてとても不安なんです。ゆうべは信じていました。でも、お帰りになってしまった今朝は、この乱れた黒髪のようにあれこれと心が乱れてなりません」
恋する不安な気持ちがいじらしいほどに伝わってきますね。素敵な恋だったのでしょう。
この当時の、女性の例通り生年月日や名前さえ不明ですが、堀河の場合は多くの歌が残されていますのでおぼろげながら足跡を辿ることができました。
久安六年(1150)に奏覧された『久安百首』の作者に家集に『待賢門院堀河集』があり、勅撰集に六十七首も採られています。
出家して、黒髪はなくなってしまいましたが歌は残って今も愛されているのですね。
付記
「待賢門院璋子の生涯」(角田文衛著 朝日選書)を読んで興味を覚え璋子が再建したという法金剛院へ行きました。数年前の梅雨の時期でした。蓮が咲き始めていました。ほかに参拝者もなく静寂そのもので尼寺らしい「花の寺」にふさわしい優美さに包まれていました。堀河も尼になってお仕えしたのでしょう。平安末期の浄土式庭園の遺構が1968年に発掘・復元されています。
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