小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

六十五番☆☆… 相 模 …☆☆

2015-06-11 | 百人一首
相模(998?~1068?)

    恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ名こそ惜しけれ

 
 源頼光(よりみつ)の娘、もしくは養女と言われてます。
 相模守の大江公資(きみより)の妻となり任国へ一緒に行ったので、相模と呼ばれるようになりました。
 赤染衛門、紫式部と並ぶ女流歌人として高く評価されています。
 しかし実生活では悩みが多く、公資と別れた後、権中納言藤原定頼(さだより)や源資道(すけみち)と恋愛しましたが上手くいきませんでした。
 歌人としての評価を固めました。
 相模という女性も、結婚生活がうまくいかず悩みぬいた人であるらしく、この歌には実感がこめられています。
 夫と一緒に相模国(現在の神奈川県)に下り、箱根権現に百首歌を奉納しましたが、それらの歌の中には嘆き悲しむ歌が多かったということです。
 また、子を願う歌も多かったそうで、夫との不仲の原因もそこにあるのかもしれません。
 果して同年相模から帰京した後、公資との仲は破綻を迎えたらしく、藤原定頼(さだより)などからたびたび求愛を受けています。
 ところが、のちに公資は遠江守として赴任する際、別の女性を伴って行きました。
 とはいえ、悲しい歌ばかりではなく、非常に艶のある秀歌も数多く詠んでいる名人でもあります。
 百人一首の撰者・藤原定家は相模の恋歌が好きで、定家撰の歌集には彼女の歌が多く採用されています。

 やがて一条天皇の第一皇女である脩子内親王(996-1049)のもとに出仕し、歌人としての名声も高まり、脩子内親王の没後は入道一品宮祐子内親王(1038-1105。後朱雀天皇の第三皇女)の女房として仕えました。
 和泉式部・能因法師・源経信ら歌人との幅広い交流をもちましたが、康平四年の「祐子内親王家名所歌合」への出詠を最後に消息は途絶えています。



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