皇嘉門院別当(生没年不詳)
八十八番 難波江の芦のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき
村上源氏。大納言師忠の曾孫で正五位下太皇太后宮亮源俊隆の娘です。
終生、皇嘉門院に仕え、皇嘉門院の落飾に従って出家したようです。
例によって本名も生年月日も生き様も何もわかりません。
残ったのは数々の歌と当時は有名な歌人であったということのみ。
皇嘉門院というのは崇徳天皇の后の聖子のこと。
崇徳天皇は80番の歌の作者の堀河がお仕えした待賢門院璋子の息子で悲劇の人でした。
その崇徳天皇の妃に仕えていたのですから様々なことを見聞きしたことでしょうね。
しかも、別当というのは家政を司る女官長の役職名ですからかなり内裏では重要な位置にいた人であると想像されます。蜻蛉日記の作者のように日記を残しておいてくれたら貴重な資料になったのにと残念でなりません。
それにしても、百人一首の選者の定家は保元・平治の乱の中を生き抜いてきた人であることを改めて思わされます。
この歌は、摂政右大臣兼実家歌合の折に出されたもので「摂政、右大臣の時の家の歌合わせに、旅宿に逢ふ恋といへる心を詠める 皇嘉門院別当」として『千載集』が初出です。
兼実は聖子の異腹弟ですから、歌垣を愛された崇徳天皇でもあり、多くの歌会に出ていたと思われます。
「難波の海辺の仮寝の芦の一節ほどの短い一夜、そのはかない恋をしたばかりに、この先もずっと身を尽くしてあなたのことを想い続けなければいけないのでしょうか」といった意味の歌ですが、専門家から見るとしらべは美しいが技巧が想いよりも強いとのこと。
定家はしらべの美しさで選んだのかもしれないですね。一度、声に出して詠み上げてみてください。
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