みすゞの詩には王様、女王様、王女、王国などの単語がよくでてくる。これはシンデレラ的な発想ではなく、統治者への憧れを意味しているのだと思われる。つまり、生まれ落ちた場所に馴染めないという不当感があったように感じられてならない。それは、生まれてきたくはなかったという恨みに繋がっているのではないか。それゆえに、現世においての夢も希望ももてず、少女の心を持ったままあの世へと急いで旅立ってしまったとも言えよう。最初にみすゞの三巻の詩集を読み終わったときに何か違和感を感じていた。
詩集を開く前に矢崎節夫氏の「金子みすゞの生涯」を読んでいたせいであろうか。みすゞという詩人の情報は充分すぎるほど頭に入っていた訳で、それと同時に氏の視点を通してのみすゞ像がインプットされていたからだろうか。
みすゞには「美しい町」「空のかあさま」「さみしい王女」の三冊の詩集がある。
「さみしい王女」が結婚してからの作品集だそうだ。この中に我が子のことを素材にしたもの、我が子へ語りかけているような作品が見当たらないことが違和感を感じた原因だとようやく気づいた。
命と引き替えに守るほど大切な子供であれば当然ながら「ふうちゃん」がらみの詩が幾つもあっていい筈。
確かにふうちゃんという娘のカタコト言葉を集めて「南京玉」とタイトルをつけたノートも残っているというが、これは、夫から詩作を禁じられての後の何かを書かずにはいられない詩人の業のようなものだろう。それを詩に昇華しようとはしていない。
また、カルモチンを飲んだ日に写真屋に行って写真を撮っている。自殺を決意し子供のために残そうと考えたのであれば子供と一緒に撮るのが普通ではないのか?みすゞは子供を連れて知人の家に出かけており(最後の挨拶?)わざわざ、帰宅して母親に子供を預けて写真館に出向いている。もしかしたら、遺影用にとの思いがあったのかもしれないが…。一枚くらいは子供と一緒に撮りたいものなのではなかろうか。
みすゞにとって出産は予定外の出来事だっただろうという人もいる。「この子さえ居なければ」という場面に何度も遭遇していたのではないか。理性では可愛いが感性では疎ましい。みすゞにとって子供はそうした存在ではなかったのかと想像してしまう。
同じように、弟の正祐を素材にした詩も二人の関係からすればずいぶんと少ないように思われる。慕ってくる「坊っちゃん」と呼ばなければならない弟が鬱陶しかったのではないのか。だが、一読者として賛辞を与えてくれる存在としては貴重だったのだろう。
「金子みすゞの生涯」が主に正祐への取材によって書かれているので真実のところは想像で補うしかない。正祐自身の思い違いや思いこみがどの部分なのかが見えてこない辛さが残る。兄の堅助に話が聞けたり、何か書き残しておいてくれていれば、みすゞの生涯も違った本になったのではないかと思う。
それゆえ、この本の中のみすゞ像が定着してしまうことに危惧を感じるのだが、歴史とか著名人の伝記というものはえてしてこういう成り立ちで後生に残されてゆくものかもしれない。
みすゞの詩集の贈り先
みすゞは三冊の手書き・手作りの詩集を二部作ったという。一部は西条八十に送った。もう一部は正祐に送ったとされているが兄の堅助を通して娘のふさえに遺したのではないかという説もある。というのもテルの死後のふさえの親権を巡っての松蔵と啓喜の父親との往復書簡が残されており、そこにはテルの遺志が明確に示されている箇所があるからである。
「さて過去のことはお互いご承知の通り又申上げる必要もこれ無きが、この上は私の考えにては故テル子の意思に基づき仙崎金子堅助方は妻を貰い請けてより八年に相成り候えどもいまだ子供これ無き故同家の養女としてお返しくだされ候えば至極仕合致す御事と察し候…」
これは松蔵の書いた手紙である。ここには「故テル子の意思に基づき」とはっきり書かれている。テルとミチの母娘関係を考えるとテルが母のミチに娘を託したいと思ったとは考えがたかったので、至極、納得がいく。
テルが生きた証はふさえと詩集である。この二つは当然ながらセットになっていなければならないのだ。だから、ふさえに付随した一組の詩集は堅助の手からふさえに渡るようにテルは準備していたと考えるのが妥当だと思う。
参考文献&写真
「金子みすゞ全集」(JULA出版局)
「金子みすゞの生涯」(矢崎節夫著・JULA出版局)
文藝別冊「総特集金子みすゞ」(河出書房新社)
「金子みすゞ」「金子みすゞと女性たち」(江古田文学)
その他
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