小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

みすゞと母

2014-02-23 | 金子みすゞ
 テルには母が二人居る。現実の母と空想の中の母だ。
 みすゞ=テルの作品には「母」が登場するものが非常に多い。「我が子」の登場するものを探せないことを考えると、彼女が母親になりきれずに娘のままで生涯を終えてしまったのではないかとさえ思わされる。…生まれ落ちた場所に馴染めないという不当感があったように感じられてならない…と先に書いたが空想の中の母恋しもこの延長線、いや、むしろ、それが原典だったのかもしれない。

『冬の雨』

「母さま、母さま、ちょいと見て、
雪がまじって降っててよ。」
「ああ、降るのね。」とお母さま、
―氷雨の街をときどき行くは、 みんな似たよな傘ばかり。

「母さま、それでも七つ寝りゃ、
やっぱり正月来るでしょか。」
「ああ、来るのよ。」とお母さま、

―このぬかるみが河ならいいな、
ひろい海なら、なほいいな。
「母さま、お舟がとほるのよ、
ぎいちら、ぎいちら、櫓をおして。」
「まあ、馬鹿だね。」とお母さま、
こちらを向かないお母さま。
―さみしくあてる、左の頬に、
つめたいつめたい硝子です。


『天人』(この詩は空想の中の母だろう…)

ひとり日暮れの草山で、
夕やけ雲をみてゐれば、
いつか参った寺の中、
暗い欄間の彩雲に、
笛を吹いてた天人の、
やさしい眉をおもひ出す。

きっと、私の母さんも
あんなきれいな雲のうへ、
うすい衣着て舞ひながら、
いま、笛吹いてゐるのだろ。


『舟のお家』(この詩はテル=みすゞの生涯の出発点ではないのかと思う)

お父さんにお母さん、
それから私と、兄さんと。
舟のお家はたのしいな。

荷役がすんで、日がくれて、
となりの舟の帆柱に、
宵の明星のかかるころ、
あかいたき火に、父さんの、
おはなしきいて、ねんねして。

あけの明星のしらむころ、
朝風小風に帆をあげて、
港を出ればひろい海、
靄がはれれば、島がみえ、
波が光れば、魚が飛ぶ。

おひるすぎから風が出て、
波はむくむくたちあがる、
とほいはるかな海の果、
金の入日がしづむとき、
海は花よりうつくしい。

汐で炊いだ飯たべて、
舟いっぱいに陽をうけて、
ひろい大海旅をする、
舟のお家はうれしいな


 少なくとも、この頃のみすゞに空想の母は必要なかった。家族四人で自然と闘い睦みながら感性を磨き, 幸せを満喫しているように感じられる。ここにも弟が出てきていないのは注目に値するのかもしれない。だが、この幸せは長く続かなかった。父の死に始まる人生行路の強制航路変更を余儀なくさせられたのだ。略歴ほかで詳細を書いたので、ここでは省略するが父親の死から本人の自殺に至るまで背後には松蔵の影を感じてしまうのは私だけだろうか。
 決して松蔵が悪いのではない。多分、運命というものなのだろう。そうは思うものの正祐が松蔵に貰われていったあたりから、或いは、書店経営に母を取られたあたりからみすゞは不条理というものに染まっていったのだろうと考える。現実の母は自分を見てくれない。だから、理想の母を創造する。誰にでもあることだろう。それが詩として残された。それだけ…。
 みすゞのさみしさはこの頃から少しずつ積み重ねられていったのだろう。更に、母が弟の養子先へと嫁いでいったのだから、思いはさらに複雑になっていった。母の気持ちがわからない。もっと、自分を見て欲しい。
 母は、娘の詩が雑誌に掲載されたことは喜ぶが、どうやら松蔵に気兼ねばかりして娘への想いを押さえる姿勢を見せていたのだろう。なぜなら正祐がみすゞに恋心を抱いてしまったからだ。母は松蔵と正祐のものであった。みすゞは母を求めていた。現実の母を欲していた。そして、それを与えられなかったためにみすゞは母親になることが出来なかった。私にはそんな風に思われてならない。
 亡父の代わりのように自分を大切にしてくれた兄が守っていてくれた内はまだ心の安定を保つことができたのだろうが結婚してしまわれると自分だけの兄ではなくなり、その幸せを考えると同じ家には暮らせない。いや、同じ家の中に居るのも苦痛だったのだ。兄に決別したみすゞは母の元に行く。そこには、やはり、母を恋う思いや期待があったに違いない。
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