小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

斉明天皇

2014-01-08 | 万葉集
さいめいてんのう 594~661
在位…皇極642~645…斉明655~661
宝皇女・天豊財重日足姫天皇


 この女帝も解釈され方は幾通りもあるようですが、私は、歴史のうねりの中で揉まれながらしなやかに生きた女性のように思います。
父は敏達天皇の孫の茅淳王で母は吉備姫王。用明天皇に嫁いで漢皇子を生んだのですが、何故か、叔父さんである舒明天皇と再婚させられて皇后となりました。しかも、49歳で夫が亡くなったために天皇にされてしまいました。
 背後には大きな勢力を持つ豪族、蘇我蝦夷がいました。蝦夷は反対勢力であり、正当な皇位継承者である聖徳太子の皇子の山背大兄王にどうしても天皇の位を渡したくなかったのです。
 こうして宝皇女は皇極天皇となったのでした。勿論、実際に政治を操っていたのは蘇我氏だったのでしょう。

 宝皇女(ここではこう呼びましょう)は舒明天皇との間に3人の子供をもうけました。天智天皇と間人皇女に天武天皇です。やがて、この子供たちが歴史の表舞台や裏舞台での華やかな主役になるだろうとは、穏やかで幸せだった結婚生活を送っていた頃の宝皇女には全く予想もつかなかったのでしょうね。
一説によれば蝦夷の息子の入鹿と愛人関係にあったといいますから、そのあたりから天皇になることを承諾したのかもしれません。女心を利用されたのでしょうか。男の心をつなぎ止めるためには仕方なかったと言われれば妙に納得もいきますね。

       山の端にあぢ群騒ぎ行くなれど 我はさぶしゑ君にしあらねば

 山の稜線には飛びまわるあぢ(鳥の名前)の群れがいるし、街には行き交う大勢の人々もいるのに、そのどこにもあなたの姿はない。だから、わたしは寂しくてさびしくてたまらない。
こんな意味でしょうか。可愛がっていた孫の建皇子への挽歌だと解説されているむきもあるのですが、私は愛した入鹿への挽歌ではないかと思ってます。

 西暦645年6月12日、入鹿はこともあろうか、息子の中大兄皇子の剣で殺されたのです。三韓からの貢ぎ物を受け取る儀式が飛鳥板葺宮大極殿で行われているさなかのことで、天皇(宝皇女)の横には摂政のように入鹿が控えていました。息子の剣が入鹿を襲った瞬間、宝皇女は声にならない悲鳴をあげて几帳の後ろに駆け込んだそうです。
 これが有名な「大化改新」の幕開けでした。この背後にも権力を巡る陰謀が渦巻いていました。
 天皇までも抱き込んだ実質的な為政者とも言える蘇我一族に対する反対勢力が天智を焚きつけて入鹿暗殺に踏み切ったのです。天智が鎌足の陰謀に乗ったのは、母が入鹿の皇子でも生んだら自分の皇位が危うくなるのではとの思いがあったからではないかという見方をする人もいます。
そうしたことを焚きつけた首謀者は藤原鎌足です。この後、鎌足は長く天智、天武兄弟の知恵袋として己の勢力も強めていきます。
 こんな大事件があったので宝皇女は天皇の位を弟に譲りました。孝徳天皇です。孝徳帝は都を難波に移しました。
 これで宝皇女は月日が穏やかに流れるかのように思われましたが、水面下では様々な陰謀が渦巻いていました。でも、そんなことは宝皇女にはあまり関心のないことではなかったのでしょうか。


       飛鳥河漲ひつつ行く水の 間も無くも思ほゆるかも

 この歌は文字通り飛鳥川は今日も元気に絶え間なく流れているけれど、その水のように私の思いはつきない、という意味でしょう。ここでの「思い」とはなんでしょうね。

 天智にも多くの后がいたのですが、遠智娘との間に生まれた建皇子が聾でした。宝皇女はこの孫が不憫でならず手元で育てていたのです。その一方で、頭を悩ませていたのが天智と間人の関係でした。
この時代は純血主義傾向があったので近親結婚も多く、両親のどちらかが違えばきょうだいでも結婚することが許されていました。でも、両親が同じきょうだいの結婚はさすがにタブーだったのです。間人皇女は可愛い一人娘で今は孝徳天皇の后になっています。でも、子供はいません。間人の心は兄のところにあって形だけの后だったのです。
 ところが突然、おかあさんやおばあちゃんとしての生活が断たれてしまいます。孝徳帝と対立した天智がみんなを引き連れて大和、飛鳥へと行ってしまったのです。難波に一人残された孝徳帝はどんなに悔しかったでしょうか。まもなく亡くなってしまいました。この孝徳帝の忘れ形見があの有馬皇子です。
 さあ、そこで、またまた、天皇になってくれと天智が言ってきました。「いやですよ。もう、天皇になるのはこりごり」と言ったかどうか、二人の息子に頼まれて再度天皇になりました。これを重祚といいます。斉明天皇の誕生です。

 重祚した宝皇女は中大兄の傀儡ではありましたが、皇極時代とは違ってかなり多忙になったようです。国の基礎作りのために励む息子たちへの協力を余儀なくされたのでしょう。658年にはついに建皇子が8歳で亡くなってしまいましたが、その悲しみに浸る間もなく宮殿造営や、唐に攻められている百済の助っ人として戦に参加のため航路をはるばる筑紫(九州)までも同行しなければなりませんでした。そして、その戦いのさなかに急逝してしまうのです。享年68歳でした。
 なんとまあ、多忙で複雑な人生だったことでしょう。飛鳥板葺宮が火災で全焼してからは三つも四つも宮殿造営を敢行し、しなくてもいい戦争に参加などで人民の反感も多く受けていたようです。
でも、この方の本質は良妻賢母だったのではなかったのでしょうか。天皇にされてしまったばかりに息子たちの為政への非難が集中してきたのでしょう。そして、それをすべて老い先短い我が身に受け止めた母性の人というイメージを受けます。


        山越えて海渡るともおもしろき 今城の中は忘らゆまじし

 今城は建皇子の墓所がある場所です。どこに行ってもどんなに景色が美しくてもおまえと居た日々が一番楽しくて、決して片時も忘れることはできない、と歌っています。建皇子は 宝皇女にとってかけがえのない宝だったのですね。本当に、やさしいおばあちゃま。それが斉明天皇だったのでしょう。




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