いしかわのいらつめ
生没年未詳
◆石川という名前から蘇我氏の傍系の人だろうと推測されています。ですが、系譜や両親のことは不明なので、蘇我氏に連なるものの下の方の出であろうと思われます。しかも、同名の人が7名も萬葉集に見られまして研究者泣かせの人です。ここでは、一人の人物であると想定して進めていきます。いつの日にか定説がうまれるのでしょうか。
◆この郎女は若い頃から天武朝廷に仕え始めて大津皇子の侍女となりました。
大津はご存知の通り天武朝の次期天皇にと期待されている若きホープです。若い二人は恋に落ちたのでしょう。相聞歌が残されています。
足引の山のしづくに妹待つと 吾が立ち濡れぬ山のしづくに
吾を待つと君が濡れけむ足引の山の しづくにならましものを
◆どうでしょう。息がぴったり合ってますね。ところが、これまた、母妃・持統の愛を独り占めしているもう一人の次期天皇候補の草壁皇子が二人の間に入ってきました。でも、大津一筋の石川郎女は草壁が歌を贈っても返歌もしません。草壁は過保護に育って腺病質な青年だったので頭能明晰で明るい大津には魅力の面では太刀打ちできなかったのでしょうが、石川郎女も欲のない素直な女性だったようです。もし、草壁皇子の子供でも生んでいれば人生も変わったと思うのは私だけでしょうか。けれど、数年後の大津の不幸の源をこの振られ事件にあると考える人も少なくないようです。
彼女は非常に行動的でチャーミングな人だったのでしょうね。
梓弓引かばまにまに寄らめども 後の心を知りかてぬかも
こんな誘いかけの歌を久米禅師という人に贈ったりしてます。
◆時が経ち、あの謀反事件が起こって大津は処刑されてしまいます。その時の石川郎女もさぞや悲しみ深く挽歌を作ったのでしょうが残されていません。
お仕えしていた主人が亡くなったあと、何故か、持統の侍女になっています。立ち直りも早く、先の禅師への歌はこの頃のものかもしれません。それにしても、大津の恋人だった侍女を、しかも愛する息子を袖にした女をあの持統さまがご自分の元でお使いになるというのは何か裏があったのでしょうか。あるようにも思いますが深読みはやめておきます。
◆その後、どうやら石川郎女は結婚したらしいのですが、お相手はわかっていません。でも、彼女は再び歴史の中に登場します。人妻となった石川郎女に恋をしたのが大伴安麻呂という人です。この人は、なんと大伴旅人のお父さんなのです。旅人の子供が家持と家系は続きます。しかも、安麻呂は壬申の乱では天武側について活躍し、天武朝でも重臣でありましたし、後の文武天皇の治世では藤原不比等に次ぐ地位にあったといいますから大物だったのでしょうね。
石川郎女にすれば玉の輿ということになりますが、草壁を振るくらいの女性ですからそういうことに目がくらむことはなかったと思われます。
神樹にも手は触るといふをうつたへに 人妻といへば触れぬものかも
◆この歌は安麻呂が作った歌です。結果的には、前の夫とどういう経緯が展開されたのかはわかりませんが、石川郎女は安麻呂と再婚しました。そして、大伴坂上郎女や大伴宿禰稲公を出産して幸せに暮らしたようです。
夫が死去した後は大伴家の大刀自として一家を取り仕切りもし、具合が悪くなれば有馬温泉で療養もしました。その後のことはもう分かりませんが、きっと、子供たちに見守られて天寿を全うしたことでしょう。
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