たじまのひめみこ
?~708
◆天武天皇の皇女で母は氷上娘(中臣鎌足の女)です。高市皇子の元に嫁がされましたが、皇子の心は十市皇女のことでいっぱいです。同じ異母妹という立場でもあり、しかも年上の子供まである女のどこがいいんだろう…但馬としては面白くありません。悲しくも悔しくも思ったことでしょう。そんな憂い顔の新妻である但馬に同情して優しい言葉をかけてくれたのが、夫と同じ父を持つ異母兄である穂積皇子でした。急速に但馬の思いは穂積に傾いていきました。
今朝の朝明雁が音聞きつ春日山 もみちにけらし 我が心痛し
言繁き里に住まずは今朝鳴きし 雁にたぐひて行かましものを
言繁き里に住まずは今朝鳴きし 雁にたぐひて行かましものを
「今朝、明け方に雁の声を聞いた。春日山はもう色づくころだろう…私の心がこんなにも痛むのはなぜなのだろうか」と穂積が謳えば、但馬はさらに激しく「口さがない里になんか住んでいないで、いっそのこと、今朝鳴いていた雁に混じって、どこかに飛んでいってしまいたい」と返歌をしてます。こんな二人の熱愛ぶりは宮廷中に知れ渡り噂の的になっていたのでしょうね。
ひとごとを繁み言痛みおのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る
◆密通がばれた時に但馬が作った歌です。あんまり人がうるさく言うものだから、生まれてからまだ一度も渡ったことのない夜明けの川を越えて私の方から逢いに行くのです、と開き直ってます。
夫の高市はどう思っていたのでしょう。気が楽だったのか、面子を潰されたと思っていたのか、無関心だったのか想像がつきません。ですが、持統は気を揉んでいました。前途ある穂積の身を心配していたのかもしれません。穂積の母は蘇我赤兄の娘でしたから実家がらみの身びいきがあったとも考えられます。
◆穂積は大津の崇福寺という大寺へ勅使として派遣されました。持統の引き離し作戦が実施されたのです。しばらく離れさせて頭を冷やせということでしょうか。こうなれば、燃えさかるのが恋という名の炎です。逢えない切なさとやるせなさが二人の心をより近づけます。
後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が兄
後に残されてしまったけれど、ひとりで恋い焦がれてなどいないでいっそのことあなたの後を追って行きましょう。私が迷わないように道の曲がり角に印をつけておいてくださいね、愛しいあなた。
いじらしく激しい思いが伝わってきます。
◆西暦702年に持統天皇が崩じ、穂積は飛鳥に戻ってきました。二人の恋はまだ続きます。天武の皇子ですから持統が亡くなったこともあってか、高市に次ぐ人材として右大臣に準じる地位まで昇ります。自分の妻の不倫相手であり、異母弟でもある穂積と政策の話をする高市。どんな雰囲気だったのでしょう。
ですが、燃え尽きたのでしょうか、但馬は708年の夏に亡くなってしまいます。多分、病死なのでしょう。その死から半年後の冬に彼女のお墓を遙かに望んで悲しんで作られたという穂積の歌も萬葉集に載っています。
降る雪はあはにな降りそ 吉隠(よなばり)の猪飼の岡の寒くあらまくに
雪よ、そんなに降らないでおくれ。あの人の眠る猪飼の岡が寒いだろうから…。
亡くなってしまった恋人への思いがしみじみと伝わってきますね。
◆穂積はその五、六年後に、石川郎女の娘の大伴坂上郎女と結婚しますが二年後には亡くなってしまいます。大伴坂上郎女はまだ十代の若い妻でした。若いだけに人生のやり直しはできます。この後、華やかに歌人として史書のあちこちに名前を残すのです。
一方、但馬皇女は幸せなマイホーム暮らしこそは手に入らなかったでしょうが、不倫とはいえ、素晴らしい恋を獲得しました。そして、そこから生まれた美しくせつない歌を残すことで永遠に語り継がれていくのです。
恋一筋に生きてあの世に旅立っていた但馬皇女の生き様に羨望を覚えるのは私だけでしょうか。
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