小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

四日目2 69番観音寺、68番神恵院

2016-11-06 | 四国遍路

やっと来たバスに乗って観音寺に近いというバス停で降車。次の札所までは徒歩で30分弱くらい。途中に喫茶店はなかったがソフトクリームを売ってたので買う。美味だ。財田川の土手を歩く。ポピーが揺れていて川風も心地よかった。これなどは歩くからこその風景と空気だろう。遠くに小高い山が見えた。その中腹に目指す札所がある。しかも、同じ敷地に二つある。
橋を渡ると信号の先に札所の駐車場案内があった。仁王門には観音寺と神恵院の二つの看板が掛けられていた。





左に折れまた右を見るとお堂の向こうにコンクリート打ちっぱなしの建造物があり、その中の石段を登ると本堂がある。大師堂は戻って降りた右手にあり、納経所は本堂と反対側の門をくぐり右に進むとある。庭園は観音寺の方であるが、神恵院の本堂に上がった左側から眺めることができる。

69番 七宝山 観音寺
 ご詠歌 観音の大悲の力強ければ おもき罪をも引き上げてたべ

法相宗の高僧だった日証上人が開いた。伝承によれば、日証が琴弾山で修行をしてると琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人は八幡大明神だと知った上人がその琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付け神宮寺として建立さし、神宮寺宝光院と称した。その後、行基が訪れ弘法大師が第七世住職となった。大師が住職時代に奈良の興福寺を模して、中金堂に聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、西金堂、東金堂など七堂伽藍を整備し七つの宝を埋め、名称も観音寺と改め札所のひとつにしたという。七宝山の山号はこれに由来する。







観音寺市の人々から「おかんのんさん」と呼ばれ親しまれているお寺。

68番 七宝山 神恵院
 ご詠歌 笛の音も松吹く風も琴弾くも 歌うも舞うも法の声々

江戸時代は琴弾八幡宮が札所で神恵院はその別当寺だった。別当寺とは神社を管理するために置かれた寺のこと。以来明治初期までは神宮寺として琴弾八幡宮が第68番札所だった。しかし明治政府による神仏分離令により琴弾八幡宮は琴弾神社と神恵院とに分離されることになり、琴弾八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像が西金堂に移された。以来、西金堂を本堂としてきたが平成12年に本堂が建てられ本尊も移った。

観音寺と神恵寺は同じ敷地にあって納経所もひとつなので遍路にはお得感がある。山門を上がって正面に観音寺があり、左の方に行くとコンクリートのトンネルをくぐるような階段を上ると神恵院がある。
山の傾斜を利用して造られた室町時代の回遊式庭園はツツジで有名。
ツアーの遍路さんたちが次々とやってきて賑わっていた。先達さんのリードで読経の合唱が木々を振るわせる。便乗して自分も読経した。




次の札所に行くにはまず観音寺駅まで戻らなければならない。
タクシーでも拾えたらと幅の広い道に出た。空腹だったけれど食堂もタクシーもない。その内にSさんが駅はこっちでいいのかと心配し始めた。Googlemapで確認していたので大丈夫さと言うのだけど不安なSさんはたまに見かける人に聞きまくっていた。

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4日目1 71番弥谷寺、70番本山寺、

2016-11-03 | 四国遍路

4時半起床。5時半から朝の勤行に参加。
大勢のの僧侶が並ぶ中で説話?をされた。これは当番制なのだろうか。最大200名収容施設なので満杯の時はぎっしりになるのだろう。お話の趣旨はストレスとスポーツの関連とトイレの変遷についてだった。写真を撮ったら叱られた。
それから朝食を戴き、タクシーを呼んでもらった。
7時半に出発して15分ほどで弥谷山入口に到着。JRで廻れば数時間かかるところが15分で着くとは!
しかし、そこからが大変だった。
この札所は本堂まで540段ある難所で中腹(378段・大師堂)までの送迎バスが運行されていた。マイクロバスの折り返し運行だ。往復750円。拡幅工事が行われていたが峻険な細い道で乗っていても恐ろしかった。運転手さんってすごい。
山の中のバス乗り場はおしゃれな建物で売店もあって休憩所にもなっていた。
ここにザックを置かせて貰ったので嬉しかった。

71番 剣五山 弥谷寺
 ご詠歌 悪人と行き連れなんも弥谷寺 ただかりそめも良き友ぞよき

標高382メートルの弥谷山の中腹にある。恐山、臼杵磨崖仏とともに日本三大霊場の一つだ。
 はじまりは1300年前、蔓延した天然痘降伏の為に行基が堂宇を建立し、聖武天皇の勅願により、皇后光明子書写の大方広仏華厳経を奉納し蓮華院八国寺を創建したもの。その後、唐から帰国した大師が獅子窟にて護摩を修し、蔵王権現のお告げにより、五柄の剣と唐で師の恵果和尚より授かった金銅の五鈷鈴を納め、山号を剣五山、寺名を弥谷寺(「仏教では仏の住む山を弥山(みせん)と呼び、弥谷は仏の谷という意味とされる」)に改めた。

   
      

 
古来より人々は山々に仏や神が宿ると信じ、その山を霊山と呼び信仰の対象としたとされ、この信仰は、お遍路の元となったともいわれ、弥谷山では、『水場の洞窟が仏の住む世界への入口とされ特別強く信仰された』とされ霊山信仰を持った修験者により刻まれた摩崖仏が今も多く点在している。
 首から上の病にご利益があるといわれている。獅子之岩屋に向かう途中の大師堂内から参拝でき、座って岩壁の10㍍上方を見上げないと姿を見る事ができない石仏のお地蔵様。かっては洞ノ薬師と洞ノ地蔵もあったが、現在は洞地蔵のみ参拝する事ができる。

バスを降りると道なりに石段や坂道が続いていて本堂へは分かりやすいが、少々きつかった。途中におおきな宿があったがここも廃業していて勿体ない。なにしろ深い木々に囲まれてどこからか水音が聞こえてくるような所である。
紅葉の頃はさぞかしと思われた。









珍しく靴を脱いで本堂にあがる。洞窟の中に入る感じ。
大師は7歳から12歳の頃にもここで修行に励んだということで、そこは大師堂奥の洞窟で獅子が咆哮しているように見えるので「獅子之岩屋」と呼ばれている。淡い照明に浮かび上がったそれは永遠の時の流れを感じさせられる美しさ。
また、本堂の下の水場の横の洞窟の大師が彫ったという「阿弥陀三尊」の磨崖仏は疲れを癒やしてくれる素晴らしさだった。
お線香を買ったらミサンガがついてきた。また行きたい札所。
マイクロバスで降りて、さて。結局タクシーに来て貰ってJRの「みの駅」まで行った。目指す本山寺は三つ
目の駅から歩ける距離にある。

予讃線「みの駅」は無人駅だった。9:28発で三つ目の本山寺駅着が9:48。単線の上特急通過待ちのためこんなに時間がかかるのだ。おまけに本数も少ない。車が普及したからか電車が不便だからか公共の乗り物は廃れるばかりだ。寂しく哀しい。この駅のトイレは最低で我慢して歩き出すしかなかった。
数軒の閉まった店から住宅街の一本道を行く。突き当たって右折し更に行く。平坦でまっすぐな道もしんどいものだ。
地図では徒歩15分とあり実際は17分ほどで到着したのに実感は30分ほど。目印の五重塔が見えないまま山門に着いた。観光バスが止まっていた。

70番 七宝山 本山寺
 ご詠歌 本山に誰か植えける花なれや 春こそ手折れたむけにぞなる
本山は標高390メートルの山でこの周辺の地名になっている。この札所も創建時には長福寺だったが後に改名された。四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4ヶ所だけという五重塔が目印。
平城天皇の勅願によって弘法大師が創建した。四国札所では唯一の馬頭観世音が本尊で境内には二頭の馬の銅像がある。馬が盛んに草を食べるように人間の喜怒哀楽をなくしてくれるという。阿弥陀如来と薬師如来が脇侍。
長宗我部軍が押し入ってきた折、住職が斬られた時に本堂の阿弥陀如来の右手から血がしたたり落ちたのを見て驚いた兵達が撤退したので本山は兵火に見舞われなかったという。この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれている。
目印の五重塔は修復工事中で覆いがかかっていた。塔の九輪や金具などが境内に展示されている。工事が終わるときに使用されるのだろうがさすがに歴史を感じさせられた。馬の像も躍動感があって素晴らしかった。

    


さて、ここからが問題。本山駅まで戻ってJRで次を目指す予定だったのだが同行のSさんが誰かに聞いて次の札所までのコミュニティバスで行こうと言い出した。バス停までがかなりあった。一休みしたくてもそれらしき店もなく大きなスーパーはあったけどかなり遠い。やっとその豊中庁舎前(市役所の支所)というバス停に着いたが50分も待たなければならなかった。屋根もなく暑い。
お隣が福祉関係の建物らしくなにかイベントがあったのだろう。大きな風呂敷包み(豪華弁当)とペットボトルのお茶を持ったお年寄りが次々と出てきて迎えに来てくれた家族の車に乗って去って行った。ちょっと恨めしかった。

      


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三日目4 75番善通寺・いろは会館

2016-11-03 | 四国遍路

車はほんとに速い。バスと歩きでは三日くらいかかるところを一日で廻ることができた。10札所を廻って4時半に善光寺に着いた。
善通寺は弘法大師が生まれた所と言われているが本当は少し離れた場所だと運転手さんの説明。35000円のところをお礼の気持ちを載せて40000万円渡した。一人、2万が高いのか安いのか妥当なのか。でも、本当に有難かったのだ。

善通寺は夕方の光に包まれていた。納経が5時までなのでまずはそちらに行って御朱印をいただく。今夜はこの境内にある宿坊のいろは会館に泊まるのでお参りはチェックインをすませてからゆっくりすることに。

いろは会館は宿坊とはいえ温泉ホテルに近い感じ。大浴場は温泉で広々しておりひさびさに浴槽の中で手足が伸ばせたような気がした。働いている人たちは修行中のお坊さんたちかもしれない。全体的に事務的。一泊二食付きで6100円。朝の勤行に参加しなければならない。昨日と明日は満杯で予約は取れなかったのもラッキーだった。夕飯まで時間があったのでゆっくりとお参りした。

75番 五岳山 善通寺
 ご詠歌 我すまば世も消えはてじ善通寺 深きちかいの法のともしび
真言宗善通寺派の総本山であり、和歌山の高野山と京都の東寺とともに弘法大師の三大霊跡といわれている。生誕の地に大師自らが建立した寺院だ。
現在は道路を挟んで東院と西院がある。
本堂、五重塔や伽藍が並ぶ方が東院で大師堂、納経所などは西院にある。
唐から帰国した大師が先祖の菩提を弔うために長安の青龍時を模して父が寄進した地に6年の月日を要して建てたとされている。その折に七堂伽藍を整えた。
善通寺という寺号は父の諱の善通からとった由。
国の重要文化財である吉祥天立像や地蔵菩薩立像などを納めた宝物館がある。
仁王門から本堂までまっすぐに回廊が設えられている。また、江戸時代に建てられたらしい中門の電灯が昭和を想起させられるレトロな明かりを放っているのが印象的。しかし、老朽化のために立て直すべく寄進の募集中。





夕食後、境内の散策に出かけた。
東院の境内の周りを囲むように石の五百羅漢が並んでいた。一周して数字を確かめてみると1から500までちゃんとあった。すべて寄進によるものだろう、名前も彫られている。
薄暮から夜へ移るひととき。43メートルの五重塔のそばにお月さまが現れた。人影もなく静謐で荘厳な雰囲気に満たされていた。







部屋に戻ると明日の予定を立てなければならない。逆打ちとはいえ順番に廻っていないので、善通寺から弥谷寺までは大変そうなのだ。JR土讃線で多度津をこえてぐるりと時間がかかる。最寄りの駅からはコミュニティバスがありそうなのだが発車時刻がわからない。今回の遍路で最後の雲辺寺までお参りするにはどうすればいいのか?
結局タクシーを頼もうということになった。最短距離で行けるから時間も大幅に縮小できる。お大師さま、申し訳ありません。
9時消灯という決まりを守って「おやすみなさい」
明かりを消した寝床で少しだけスマホの「ツムツム」をプレイした。




  

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三日目3 76番金倉寺、74番甲山寺、73番出釈迦寺、72番曼荼羅寺

2016-11-02 | 四国遍路

76番 鷄足山 金倉寺
 ご詠歌 まことにも神仏僧をひらくれば 真言加持の不思議なりけり
天台寺開宗の祖である智証大師が誕生したお寺。智証大師とは弘法大師の従兄で大師が産まれた年に智証の祖父の和気道善で当時は「道善寺」という名称だった。その後、唐で学んで帰国した智証が伽藍を作り薬師如来を彫って納めた。後に醍醐天皇によって「金倉寺」と改名された。この地は善通寺から北へ二キロほどの平地で近くに金倉川が流れている。金倉川は大師が修築した満濃池から琴平町を抜け瀬戸内海へと流れ込んでいく。そしてこのあたりは金倉郷と呼ばれていたのだ。
明治時代には乃木希典が第11師団長として赴任した際にこの寺に住んでいた話も有名。





本堂前には大きな数珠がかけられていてたぐるように一周させつ。ほかのお寺での大きな鈴を振るわせるのと同じ意味があるのだろう。敷地が広くお砂場道場もあった。
僧侶と有志が四国巡礼を行い、すべての霊場の砂を頂いてきます。 それを9月の法要にあわせ、お砂場道場の各本尊の画軸の下に敷くつめます。 参詣者は、その道場内の八十八ヶ所を巡ることによって、四国八十八ヶ所を巡ったこととなり、同じ功徳が頂けるのです。

 

が、先を急いだ。近くに四つの札所がある。


74番 医王山 甲山寺
 ご詠歌 十二神味方に持てる戦には 己と心兜山かな
讃岐有数の穀倉地帯の丸亀平野にポツンと標高87メートルの甲山がある。
寺院を建てる場所を探して弘法大師がこの地を歩いていると甲山山麓の岩窟の陰から老聖者が現れてじょじょが聖地だと告げた。そこで大師は毘沙門天像を岩で彫って岩窟に安置した。
弘法大師は農業発展のために川の少ない香川の各地に満濃池(灌漑用の溜池)をたくさん作った。ここでも工事を始めるに当たって成功を祈って薬師如来像を安置した。すると大師を慕う人たちが三万人も集まってわずか三ヶ月で完成したという。この功績によって朝廷から賜った報奨金で大師が建立したのが甲山寺である。この付近は幼い大師がよく遊んだ場所だそうだ。








車に乗って一息つく間もないままに次の札所に着いた。歩いても10分ほどだという。


73番 我拝師山 出釈迦寺
 ご詠歌 迷いぬる六道衆生救わんと 尊き山に出る釈迦寺

寺は弘法大師が仏道に入るきっかけとなった伝説の場所に建っている。七歳の真魚と呼ばれていた大師が仏門に入って多くの人を救いたいと思った。「わが願いが叶うなら初夏如来よ、姿を現し給え。もし叶わぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と我拝師山の断崖絶壁から谷底へ身を投じた。すると釈迦如来と天女が現れて大師を抱きとめ「一生生仏」と告げた。願いが叶った大師は後に釈迦如来を彫って本尊として建立した寺に納めた。それが出釈迦寺と命名。
大師が身を投げた断崖は捨身ケ獄と呼ばれ今は奥の院になっている。







捨身ケ獄は遠くに望まれる。境内から40分ほど登った所にあり更に進むと大師が飛び降りたとされる絶壁があるという。そこには石の護摩壇が築かれて稚児大師像が安置されている。
勿論、そこまで登る元気がないのでそんな人たちの為の捨身ケ獄遙拝所からお参りした。
寺の直ぐ傍に大きな民宿があったが数年前に廃業したようで当時の賑わいが思われて寂しい気分になった。もし、営業していたらここに泊まって奥の院まで行ったかもしれない。行った人のブログに寄れば何とも素晴らしい眺望だったらしいし、大きな達成感が得られたかもしれない。車でも車道整備志納金600円を払えば奥の院まで行けるそうだけど、さすがにちょっと罰当たり名気がして遙拝所からのお参り。次に行った時は…多分、ないなぁ。



もう、ここは善通寺市。次の札所までは徒歩5分。76番札所から75、74、73、72の5札所は全部善通寺市にある。75番の善通寺は弘法大師が生まれた所だから宜なるかなだ。

72番 我拝師山 曼荼羅寺
 ご詠歌 わずかにも曼荼羅拝む人はただ 再び三度帰らざましを
73番札所の出釈迦寺と同じ「我拝師山」という山号を持つ。
弘法大師の祖先と言われている領主の佐伯氏の氏寺として創建され「世坂寺」と称していた。創建は推古4年ともっとも古い。



         

    
それから210年後に大師が母の菩提を弔うために訪れて伽藍を建立した。この時、本尊とともに金剛界の曼荼羅(仏の世界を視覚的に表現したもの)を奉納した。そこでこの寺が曼荼羅寺という名前になったといわれている。また、同時に大師が植えた松の木は「不老の松」と言われて境内にあったが2002年に松食い虫のために枯れてしまった。その跡地には笠松大師が立っている。これは枯死した不老の松の幹で彫られたものだ。
西行もやってきて近くに庵を結んで2年ほど滞在していたという。







笠はありその身はいかになりぬらん あわれはかなきあめが下かな
松の木にかけられた笠を見て西行が詠った歌だが、その松の木がもうない。
そこに時の流れを感じ、漂白の歌人西行の芯の寂しさに共感させられたお寺だった。

タクシーは今日の最後の札所の善通寺に向かった。


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三日目2 79番天皇寺、78番郷照寺、77番道隆寺 

2016-11-01 | 四国遍路

79番 金華山 天皇寺
 ご詠歌 十楽の浮世の中をたずねべし 天皇さえもさすらいぞある

こちらも元は崇徳上皇を悼みお慰めする神社だった。坂出市の金山山麓にある。
行基によってひらかれが、後年この地を訪れた弘法大師が荒廃してたのを再興したと伝わる。その時に金山権現から宝珠を授かったので「摩尼珠院」とした。
300年後。崇徳上皇が流されてきてこの寺の末寺の長命寺を仮宮とした。都に帰りたいと何度も宮廷に訴えたが叶えられないまま崩御した。都に不穏なことがしばしば起こるのは上皇の怨念のせいではないか。鎮魂の願いを込めて二条天皇が崇徳天皇社を建立。寺は神宮司ととなり天皇寺と呼ばれるようになった。
明治の神仏分離で摩尼珠院は廃寺となり天皇社は白峰宮となる。筆頭末寺の高照院が天皇寺と名前を改めた。現在は金華山高照院天王寺である。





ガイドブックでは「高照院」と「天皇寺」と二つの表記があるのでちょっと混乱する。神仏分離国策はいきすぎた罪なものだと遍路をしていると感じられる。
この札所には山門がなくて大きな朱色の鳥居がある。境内を進んでいくと奥に白峰宮がある。お寺と神社が同じ敷地内にあるにしてはあまり広くない。やはり、崇徳上皇は白峯寺に眠っておられるのだろうと思う。

  啼けばきくきけば都の恋しさに この里過ぎよ山ほととぎす
上皇のこの歌を聞いたほととぎすが声を出さなくなったという。

        



天皇寺を打ち終わると11時半になっていた。早めのお昼を食べようとTさんのお薦めの讃岐饂飩店へ向かった。が、定休日。そこで次に行ったのがセルフ饂飩の店。
まるで社員食堂のようなシンプルで広い店だった。流れ作業みたい。お盆を持ってうどん玉の大きさに従って丼にうどんが入れられ、並べられたさまざまなトッピングをうどんの上に置きだし汁を入れて貰い、最後がそれを見てお会計という仕組みだ。
無愛想なテーブルの上には刻み葱や天かすが置かれている。素うどんだけでも食べられそう。12時近くになってどんどんとお客がやってきて満員近くなる。
こしがあっておいしい。ゆうべのうどんとは度か違う。店によって特色があるのだろう。
30分足らずで次のお寺に廻るために車に乗った。

        



78番 仏光山 郷照寺
 ご詠歌 踊り跳ね念仏唄う道場寺 拍子を揃えて鐘を打つなり
宇多津の町並みも奥まった高台にある。昔から「厄除けうたづ大師」として厄除祈願で多くの参詣者が訪れるお寺。
行基が「道場寺」の名で開いた。後に弘法大師がやってきて自らの像を彫って厄除けの祈願をした。
京都の醍醐寺を開山した理源大師が修行したり恵心僧都が釈迦如来の絵を奉納し釈迦堂を建てたり、一遍僧正が踊り念仏の道場を開いたなどいろいろと由緒のある寺だ。
兵火で消失した伽藍を江戸時代の初代の松平藩主が再興した。その折に真言宗とともに時宗も取り入れ郷照寺と改めた。



高台にあるので宇多津の町と海が一望できる。瀬戸大橋も見えた。駐車場や納経所が新しい。庭のきれいなお寺。空気が澄んでいて心地よかった。
本堂も大師堂も天井絵―さまざまな草花の浮彫画―が素晴らしい。
また「万躰観音洞」という3万体もの小さな観音像が祀られた地下回廊もあった。








77番 桑多山 道隆寺(どうりゅうじ)
 ご詠歌 ねがいをば仏道隆に入りはてて 菩提の月を見まくほしさに

寺を開いたのはこの地の領主だった和気道隆公。大きな桑の木があり夜になると光るので怪しんだ道隆公が矢を放つとそれに当たった乳母が死んでしまった。嘆き悲しんだ道隆がその桑の木で薬師如来を彫って、建てた草庵に祀ったのが寺の始まりだという。その後、息子の朝祐が伽藍を建立して父の名前から「道隆寺」とした。弘法大師は朝祐の願いによって薬師如来像を彫り、その胎内に道隆が作った像を納めた。
境内を囲むように255体の観音像が建ち並んでいる。また、境内左奥にある潜徳院殿堂は「目なおし薬師」としても有名。眼病平癒祈願に多くの人が「目」と書いた札を納めに来る。
多度津町に位置している。多度津町は昔からの交通の要所で今もどんな列車も停車する。近くに金比羅宮もあって栄えてきた町。







門前におおきな土産店がある。地下水によって浮いて動いている球形の珠があって宇宙の中の地球を思わされた。この店の特産はメグスリの木を原料とした「眼蘇茶」で「めいきるちゃ」と読む。眼病に関して総体的に効果があるそうだ。荷物になるのでこの旅では各寺のオリジナルな手ぬぐい以外は一切買わないことにしているのでこのお茶もパス。タクシーに荷物を置いて手ぶらでのお詣りには目が欲しがるのを拒絶するのが肝要だ。









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