小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

四日目3 民宿「おおひら」まで

2016-11-06 | 四国遍路

なんとか観音寺駅に着いた。次の札所の大興寺までは歩きで7.5キロ。歩くかタクシーか…バスターミナルのベンチに座って二人で地図を眺める。Sさんが通りかかった人に尋ねる。と、大興寺近くまでのコミュニティバスがこの前から出てるとのこと。これはどのガイドブックにもサイトにも載っていないこと。現地に行ってみないとわからないものだ。
尤も我々がひどく変則的なまわり方をしているからではあるけれど。観音寺から大興寺までの歩きのルートは書かれているのに、はなから歩くことを考えていなかった。駅からも観音寺からも同じくらいの距離なのに。これでは遍路とは言えない。そう思いながらそのバスの発車を待つことにした。かなりの時間があったのでコンビニでおむすびとお茶を買いそのベンチで食べた。コミュニティバスの路線は蜘蛛の巣のように各地に張り巡らされていた。ただ本数が誠に少ない。どこまで乗っても100円なのだ。地域の足としてお年寄りの病院通いなどに使われているのだろう。乗客は老婦人ばかりで好きな場所を運転手さんに告げて降りていく。



大興寺の傍で降ろしてくれるように運転手さんに言うと親切に教えてくれた。乗客のおばあさんも丁寧に説明してくれる。「向井新田」でお礼を言って100円入れて降りた。そこからでも3キロくらいはありそうだ。
大きな交差点を渡ったところまではよかった。直進したが教えて貰った丁石がないのだ。周囲はのどかな田園地帯が広がっていた。しかし、畑に出ている人は一人も居ない。ついにSさんがおかしいと言い出した。わたしは少しでも距離を稼ごうと歩き続ける。遠くなったSさんが戻っておいでと大声を発した。
郵便配達のお兄さんが来たので聞いてみるとこの道で正解だった。Sさんにその旨電話した。が、彼女は交差点まで戻っていた。そしてそこの丁石をみつけていて戻ってこいと言う。これだけ歩いたのだからそれは酷というものだ。彼女は決してこちらに追いついてこようとはしないだろう。


Googlemapを開いてみると目的地までのラインが色変わりで示されていた。歩いてみるとラインが伸びる。確信を持った。で、彼女に電話する。と、彼女は今夜の宿の奥さんが迎えに来てくれるのを待っているという。ふむ。そうきたか。このまま行くと告げて歩き始める。黄金色の麦畑が美しい道だ。ところどころに池もあり、トンボが飛んでくる。Mapに従って左折する。そこへバイクに乗ったおばさんが来て止まった。宿の奥さんだった。心配して見に来てくれたのだ。Sさんのザックが荷台に載っている。奥さんは向こうの青い屋根を差してあそこだと言った。なんだ、もうすぐじゃん!断ったけれど奥さんはわたしのザックを前篭に載せて走り去った。全く、迷惑をかけてしまったことだ。



間もなくおおひらに到着。Sさんはまだだった。奥さんが玄関の鍵を開けて部屋に案内してくれた。
「主人がいれば車で迎えに行けたのだけど、わたし一人なのですみませんねえ」
おお。一人でここを切り盛りしてるのですか。偉いなあと感心するばかり。外に出てSさんを待つがまだ姿が見えない。裏に回ると大きなプールがあった。もう何年も使っていないような水のないプール。かっての賑わう様子が目に浮かぶようだった。
20分ほど待って電話しようとしたときにようやくSさんの姿が見えてほっとした。当然ながら機嫌が悪い。運転手さんが教えてくれた道は遠回りだったそうだ。言いたいことがあったがぐっとこらえる。
次の札所はこの宿から近い。まだ4時半だったので身軽になってその大興寺にお参りすることにした。


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四日目2 69番観音寺、68番神恵院

2016-11-06 | 四国遍路

やっと来たバスに乗って観音寺に近いというバス停で降車。次の札所までは徒歩で30分弱くらい。途中に喫茶店はなかったがソフトクリームを売ってたので買う。美味だ。財田川の土手を歩く。ポピーが揺れていて川風も心地よかった。これなどは歩くからこその風景と空気だろう。遠くに小高い山が見えた。その中腹に目指す札所がある。しかも、同じ敷地に二つある。
橋を渡ると信号の先に札所の駐車場案内があった。仁王門には観音寺と神恵院の二つの看板が掛けられていた。





左に折れまた右を見るとお堂の向こうにコンクリート打ちっぱなしの建造物があり、その中の石段を登ると本堂がある。大師堂は戻って降りた右手にあり、納経所は本堂と反対側の門をくぐり右に進むとある。庭園は観音寺の方であるが、神恵院の本堂に上がった左側から眺めることができる。

69番 七宝山 観音寺
 ご詠歌 観音の大悲の力強ければ おもき罪をも引き上げてたべ

法相宗の高僧だった日証上人が開いた。伝承によれば、日証が琴弾山で修行をしてると琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人は八幡大明神だと知った上人がその琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付け神宮寺として建立さし、神宮寺宝光院と称した。その後、行基が訪れ弘法大師が第七世住職となった。大師が住職時代に奈良の興福寺を模して、中金堂に聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、西金堂、東金堂など七堂伽藍を整備し七つの宝を埋め、名称も観音寺と改め札所のひとつにしたという。七宝山の山号はこれに由来する。







観音寺市の人々から「おかんのんさん」と呼ばれ親しまれているお寺。

68番 七宝山 神恵院
 ご詠歌 笛の音も松吹く風も琴弾くも 歌うも舞うも法の声々

江戸時代は琴弾八幡宮が札所で神恵院はその別当寺だった。別当寺とは神社を管理するために置かれた寺のこと。以来明治初期までは神宮寺として琴弾八幡宮が第68番札所だった。しかし明治政府による神仏分離令により琴弾八幡宮は琴弾神社と神恵院とに分離されることになり、琴弾八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像が西金堂に移された。以来、西金堂を本堂としてきたが平成12年に本堂が建てられ本尊も移った。

観音寺と神恵寺は同じ敷地にあって納経所もひとつなので遍路にはお得感がある。山門を上がって正面に観音寺があり、左の方に行くとコンクリートのトンネルをくぐるような階段を上ると神恵院がある。
山の傾斜を利用して造られた室町時代の回遊式庭園はツツジで有名。
ツアーの遍路さんたちが次々とやってきて賑わっていた。先達さんのリードで読経の合唱が木々を振るわせる。便乗して自分も読経した。




次の札所に行くにはまず観音寺駅まで戻らなければならない。
タクシーでも拾えたらと幅の広い道に出た。空腹だったけれど食堂もタクシーもない。その内にSさんが駅はこっちでいいのかと心配し始めた。Googlemapで確認していたので大丈夫さと言うのだけど不安なSさんはたまに見かける人に聞きまくっていた。

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