小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

一月四日

2018-02-10 | 嘉永六年 癸丑日記
一月四日 

快晴する。
山本から廻状がきた。
委細は会ってから申すのでまずは金森へ礼に行くと良いとのこと。
今年は申し合わせによって殆ど年始客が少ない。門に入ってくる者は十名ばかりだ。
帳面(来客帳)は出してあるが武士は一人もおらず。それゆえに今日は雄輔(岩一郎20才)の誕生日だけど赤飯をたくだけで酒宴はやらなかった。
夜になってから雄輔は梅本に行った。
岡野氏から昨年からの約束で落ち葉の錦を二冊持たせて来た。
これは本居宣長と太平の歌を集めた奉書仕立ての本だ。
野上酒井省安の年賀状につけて、小豆一袋と泥田坊(昔から伝わる妖怪)連中の春興し(新年に俳諧の会を催して一門の作品を印刷し知人間に送った物を二枚を送ってきた。
返事を書き、紙百枚とお茶を一箱送る。



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一月三日

2018-02-08 | 嘉永六年 癸丑日記
一月三日 

くもる。
昼前に森や章七がきた。
小雨が降って傘を貸す。直ぐに持たせて来た。
夕方、田源右衛門から鮎子少々送ってきた。
家出食べるとおいしかったが、松下との約束で持参した。
が、松下は不在で0時頃に帰宅。
鮎の器に五斗味噌少々と干しカレイ入れたのを持ち帰った。


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一月二日

2018-02-05 | 嘉永六年 癸丑日記
一月二日 

夜前から雨が降る。
昨日、敬之進が言った狂歌
「忠の字を忘れた竹のススメ殿 踊りが過ぎて網の乗り物」
昨冬二十八日に楠本や久右衛門の手紙のはしに書いてあった。
「伊達つらが踊り狂いしに庭スズメ 曲がりし竹の他知らずして」
その他もさまざまに言うのだが、あまり聞いていなかった。
科兵衛の娘のおせつがきた。
夜、村井定二郎がきた。略服で酒券2枚持参。
酒を出し、鯨肉少々持ち帰らせた。


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元旦

2018-02-04 | 嘉永六年 癸丑日記
元旦 

大いに晴れる。
豊かな心地がするけれど、今日はいっこうに年始客が少ない。
玄関の帳面に記した人も10人ばかりだ。
塩路嘉一郎がくる。一つ酒を出す。
また、夏目楠蔵がきて一酌。
夏目が帰った後に松下彦右衛門殿が来る。また、一盃。
その内に水島秀敬もきて、一緒に食べて先に帰った。

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嘉永六年(1853)に向けて

2018-02-01 | 嘉永六年 癸丑日記

年頭から嘉永六年に入るつもりでしたがなかなか思い通りにはいかなくて一月遅れとなりました。
日記とは言え、小梅さんにはメモ感覚の覚え書き程度だったようです。
それにしても結婚した16才から82才(明治18年)まで毎日記録し続けるとは大変なことであり、幕末から文明開化までの生きた記録として貴重な資料だといえましょう。
但し、原本が残っているのは三分の一程度だと整理されたお孫さんが書いておられます。
基本的には半紙に小筆で書かれていましたが、反故紙やちり紙など身近にあった紙に書き付けたことも多かったようです。
また、事実の記録が多く感情的心情的なことはあまり書かれていません。
さらに当然ながら登場人物の数が多くその関係も書かれていないので(人に読ませるためではないので当然ですが)前後から推測するしかなく意味不明な点も少なくなくてすまないことです。

徳川御三家の筆頭として維新前後の歴史上、紀州藩も揺れています。
嘉永6年はそれが顕著に現れ始める年。藩も川合家も財政が圧迫されていきます。藩校の教授であり儒学者として著名な婿である夫の豹蔵は禄高からいえば下級武士。
当時の武士一家の暮らしの程度もこの日記から窺われます。

川合家の日常生活は豹蔵と雄輔(岩一郎)の学習館への出勤、出稽古、家塾での稽古、研究会、親戚・知人との交際が殆どです。家塾には住み込みの書生もいたことで主婦としての小梅は多忙。その合間に歌を詠み絵も描きのインテリ女性でした。来客も多くたいてい一杯出して一緒に楽しむ小梅さんのアンテナは世の中の移り変わりをメモして残してくれたのがこの日記だと思います。

「主な登場人物」

川合小梅(嘉永6年当時 50才)
紀州藩校「学習館」の助教を勤める川合鼎を父と母の辰子との間の一人娘。
5歳の時に父が病死し、祖父の川合春川(儒学者)9と辰子によって育てられた。春川から漢学、辰子から和歌を学び、絵を野際白雪に師事。
祖父の意向で16歳で10歳年上の梅本豹蔵を婿に迎え結婚。30歳で一人息子の雄輔(岩一郎)を生んだ。
夫婦仲の良い、しっかり家のことを采配するいわばインテリ専業主婦。

川合豹蔵(後には梅所)
 嘉永6年当時60才。留守居物頭格、30石。
小梅の夫。紀州藩士の梅本五兵衛の長男。幼名は修。豹蔵から梅所と改名。
藩校学習館の教授で後に学長となった。心優しい督学の人。

川合雄輔(幼名 岩一郎)嘉永6年当時は20才。
 小梅の長男。学習館の助教から儒者の道をいく。
維新後は小学校教師。
妻の鹿野との間に五女一男をもうけた。初孫が安政5年(1858)に誕生しているので結婚はその前だろうが、日記の欠損している時期(嘉永6年から安政6年までの5年間)なので詳細は不明。


梅本家(豹蔵の実家)の人々
 梅本藤四郎(豹蔵の弟)支配勘定・作事見回役
   息子 千太郎(良太郎)、万次郎(野口家へ養子)
 梅本浅之助(山本寛蔵・豹蔵の従兄)
   浅助 浅橘(豹蔵の従兄)の息子

弟子や生徒、お城関係の人々、親戚関係、出入りの業者など無数の人たちが登場し、圧倒的に立場や関係がわからないことが殆どでご容赦ください。


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