
やはり温泉では6時から入れる朝風呂にも浸かって、曇って霞む景色を眺めてこれもいいもんだとご満悦。月曜日は義妹は仕事があるから全くの別行動ということにして、我々は朝食も取らずに8時前の早めの出発で、平城京遷都1300年のイベントが終了したばかりの奈良に向かう。この日は生憎の雨模様だという天気予報、そうなると自転車を使えないからまだ行ったことがない奈良町あたりを中心に観光しようというつもりで。
有馬六彩の北側の眺め
有馬温泉からだと中国自動車道から吹田で近畿自動車道に、そして東大阪で第二阪奈有料道路で奈良市街に直通という、古い我がナビには出ていない道は標識を頼りに約1時間半で到着、まずは中心部にと向かって走っていたら、左折する車が何台かあってその先に新装なった朱雀門が見えるではないか。ちょうどいい具合に通り掛かったなと入ったら、つい最近まで有料駐車場だったという場所はイベントが終わって無料開放となっている。しかし月曜日は休みで大極殿などの建物の中には入れず、外から見物するしかないという。まぁ新しく復元されたものだから外観だけ見られば十分かと、しかし朱雀門と大極殿以外には外周の塀に展示館と遣唐使船があるだけの只々だだっ広い何もない野っ原の空間で結構歩かされることに、発掘調査のために一帯の畑を買収したんだろうけど、このあとの活用はどうするのか心配になってしまうぞ。まさか全体を復元するようなことはないだろうからね。ここからは若草山は靄がかかってうっすらと、奈良は高い建物が無いのがいいねぇ。
朱雀門
こんなだだっ広い空地の中に極楽殿が建つ 遣唐使船が資料館の前に見えた
そのあとはナビで奈良町付近を目的地にして中心部に向かって走ったら、変な一方通行の商店が並ぶ賑やかな道に入ってしまった。ナビの地図には、ここを抜けると猿沢の池の先に駐車場マークがあったのでそちらまでノロノロと。平日だからすぐに駐車でき、さらにその近くの案内地図で奈良町の全体図を見つけて、まずは近い元興寺方面に向かう。幸いに雨は降っても小雨で暫くで止むという天気で、用心に傘だけは持参して、歩き始めてほどなく元興寺の入口にやってくる。
ここは今年熊野などを廻ったツアーで立ち寄った蘇我氏による日本最初の寺である飛鳥寺(法興寺、現在は安居院)を移した寺でこれも何かの縁と、名前も場所が変わって改められ、最古の元の寺を受継ぐからと名付けられたのでしょう。女房はこのお寺は初めてというのと、飛鳥寺も見たからこちらもやはり見ておこうということで中に入る。境内はそんなには広くはない、まず入館した宝物殿も小さい建物で特に目につくものもない感じ、ところが作務衣姿で寺の縁起を説明している人がいてその話を聞いていたら、この寺の敷地はこの奈良町の町家がある全体だったんだそうで、平城京に移転しても元々は強大な格式のある寺院だったのだと。滅ぼされた曽我氏縁の寺だから、明日香に残しておいても不思議はないのに敢えて移されて、それも大寺扱いだったという理由は不明なんだそうだ。
元は大寺の僧坊の一つだったものを二つの建物にしたという、現在の本堂である極楽坊と後ろの禅室が今の主要な建物で、どちらも国宝だそうだが、これらに使われている木材を年輪年代法による時代判定をしたら、飛鳥時代の創建時のものを移築したものもあることが分かったという。また瓦もその時代のものがあるとか、それらはあとでそちらの建物を見物して実物をみることとなったし、昔の礎石も見物できるようになっていた。また宝物館の中央にミニチュア模型で置いてあると思っていた五重塔が奈良時代のものとは、なぜ当時こんな縮小版を造ったのかとこれにはビックリ、本体を造る前にまず模型で確認したということか。
飛鳥時代の木材や瓦の説明が
極楽坊本堂由来
手前に極楽坊、後方に禅室
さらにおまけの話があって、この寺がここに建てられた当時の平城京の様子の説明で、当時は猿沢池は無かったんだそうだ。あれはその後次々に建てられた寺院の瓦を焼くための粘土材料として、どんどん掘られて出来たというのは驚きだね。
とにかくこの寺は平城京の幕開けを告げた直後のもので、さらに今の奈良町の町家の元になっているんだと。それと極楽坊と呼ばれるようになったのも、奈良時代末期にこの僧坊に住持した智光という僧侶が感得した浄土曼荼羅が遺されたからで、平安時代以前からの浄土信仰を伝えて、その後の平安後期の熱烈な信仰の源流となったということも知り、大した由来がある寺だと。
それが明治の廃仏毀釈で住持もいなくなって荒れてしまい、昭和になってからやっと復興したという話には、この周囲の皆さんもそのために頑張ったわけだ。飛鳥寺も小さかったけれど、こちらもやっと生きながらえて、よくぞ最古の寺が残っていてくれたものだと、もっと有難がらなくちゃいけないね。いやー、いいお話を聞かせてもらいましたよ。