昭和60年4月から61年3月までNHKで放映された「真田太平記」全45回をDVDで一気に観たのである。
45回×45分なので、全部で2025分、約34時間である。
10月18日から26日まで9日間、一日平均4時間弱である。
池波正太郎の「真田太平記」を読んだのは、このテレビ放映のあとだった。
だからいつか見たいなあと思っていたのである。
何年か前だったがNHKの昼間に再放送されていることに気づいたのは相当経ってからであり半ばあきらめていたのであった。
それが、今回レンタルのDVDが出たということで早速借りてみたのである。
真田太平記は、有名な真田幸村の兄・信之が主人公のようなものである。
というのは、彼ら兄弟の父・昌幸が前半では大活躍だし、全編を通して女忍者・お江が真田の草の者として縦横無尽の働きだし、勿論・幸村もやってくれる。
まあ、真田から観た戦国時代から江戸時代という歴史ものにもなっている。
文庫本では12巻の大長編である。
これをテレビドラマ化したのであるので、ある意味「ダイジェスト版」というものなのだが、完成度は高い。
偶然と不条理が概ねを支配するこの世の中にあって「自分」というものを通していくにはどうしたらいいのか、ということが描かれている。
そして、それは非常に困難なのである。
自分の意地や欲を通すため、いろいろな細工をしてみたり、我慢をしたり覚悟をしたりして、なんとか踏ん張ってみるのだが、意地を通したり欲をかなえても、結局人は嬉しさと哀しさが半々なのではないだろうか。
人の心には一時的には100%の満足感があるものの、トータルすると50対50であれば相当の幸せなのではないか。
つまり、自分を知り自分の力の限りを真正直に発揮して生きたとしても、幸せだけではなく、喜怒哀楽があり、それゆえにこそ人生なのである。
なんてことを池波正太郎の小説を読むと感じるのである。
幸せと同じくらいに哀しみを抱えているのが人間なのである。
それを感じられないのは人間ではない、と言い切ってみたくなるのである。
真田太平記に登場する人物たちの中で魅力的なのは、深い哀しみを抱えながら日々を一生懸命生きている人たちである。
それは、真田昌幸・信之・幸村だけではなく、お江や壺谷又五郎をはじめとした真田の草の者たち、敵対する甲賀忍者の猫田与助だってそうなのである。
この物語、大阪夏の陣で真田幸村をはじめとして真田の草の者たちの多くが亡くなった時点で終えてもいいのではないか、なんてはじめは思っていたのである。
しかし、実は、その後つまり江戸幕府が最後の完成を図ろうとする時期のほうが、面白かったのである。
それは、真田で生き残った信之と草の者で生き残ったお江が組むときなのである。
信之は昌幸や幸村のように忍者を使った謀略や戦をしなかった人であり、お江は昌幸や幸村の人柄に魅かれて働いていたのである。
その二人が徳川と豊臣の戦いが済んだ後、ある種の「生きがい」を見失ってしまいそして出会うのである。
この世でわが身を縛っているのは義理と人情そして欲である。
その義理と人情と欲を振り払うでなく、義理と人情と欲を踏まえて物事を解決していくさまは痛快である。
人は同じ時間同じ場所で、同じ方向を見ていても見えるものは違う。
何をどう見るのか、そしてそれをどう解釈するのかで、人生とは違うものになるのである。
この1週間真田太平記のDVDを見ながら、もう一度読み直してみよう、と思ったのである。
追伸
真田太平記の舞台である、沼田、岩櫃、上田、松代を旅した記録が、嘉壽家堂本店のSpeak Visualの「真田一族を訪ねて」にありますので、興味のある方はどうぞご覧ください。
「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
45回×45分なので、全部で2025分、約34時間である。
10月18日から26日まで9日間、一日平均4時間弱である。
池波正太郎の「真田太平記」を読んだのは、このテレビ放映のあとだった。
だからいつか見たいなあと思っていたのである。
何年か前だったがNHKの昼間に再放送されていることに気づいたのは相当経ってからであり半ばあきらめていたのであった。
それが、今回レンタルのDVDが出たということで早速借りてみたのである。
真田太平記は、有名な真田幸村の兄・信之が主人公のようなものである。
というのは、彼ら兄弟の父・昌幸が前半では大活躍だし、全編を通して女忍者・お江が真田の草の者として縦横無尽の働きだし、勿論・幸村もやってくれる。
まあ、真田から観た戦国時代から江戸時代という歴史ものにもなっている。
文庫本では12巻の大長編である。
これをテレビドラマ化したのであるので、ある意味「ダイジェスト版」というものなのだが、完成度は高い。
偶然と不条理が概ねを支配するこの世の中にあって「自分」というものを通していくにはどうしたらいいのか、ということが描かれている。
そして、それは非常に困難なのである。
自分の意地や欲を通すため、いろいろな細工をしてみたり、我慢をしたり覚悟をしたりして、なんとか踏ん張ってみるのだが、意地を通したり欲をかなえても、結局人は嬉しさと哀しさが半々なのではないだろうか。
人の心には一時的には100%の満足感があるものの、トータルすると50対50であれば相当の幸せなのではないか。
つまり、自分を知り自分の力の限りを真正直に発揮して生きたとしても、幸せだけではなく、喜怒哀楽があり、それゆえにこそ人生なのである。
なんてことを池波正太郎の小説を読むと感じるのである。
幸せと同じくらいに哀しみを抱えているのが人間なのである。
それを感じられないのは人間ではない、と言い切ってみたくなるのである。
真田太平記に登場する人物たちの中で魅力的なのは、深い哀しみを抱えながら日々を一生懸命生きている人たちである。
それは、真田昌幸・信之・幸村だけではなく、お江や壺谷又五郎をはじめとした真田の草の者たち、敵対する甲賀忍者の猫田与助だってそうなのである。
この物語、大阪夏の陣で真田幸村をはじめとして真田の草の者たちの多くが亡くなった時点で終えてもいいのではないか、なんてはじめは思っていたのである。
しかし、実は、その後つまり江戸幕府が最後の完成を図ろうとする時期のほうが、面白かったのである。
それは、真田で生き残った信之と草の者で生き残ったお江が組むときなのである。
信之は昌幸や幸村のように忍者を使った謀略や戦をしなかった人であり、お江は昌幸や幸村の人柄に魅かれて働いていたのである。
その二人が徳川と豊臣の戦いが済んだ後、ある種の「生きがい」を見失ってしまいそして出会うのである。
この世でわが身を縛っているのは義理と人情そして欲である。
その義理と人情と欲を振り払うでなく、義理と人情と欲を踏まえて物事を解決していくさまは痛快である。
人は同じ時間同じ場所で、同じ方向を見ていても見えるものは違う。
何をどう見るのか、そしてそれをどう解釈するのかで、人生とは違うものになるのである。
この1週間真田太平記のDVDを見ながら、もう一度読み直してみよう、と思ったのである。
追伸
真田太平記の舞台である、沼田、岩櫃、上田、松代を旅した記録が、嘉壽家堂本店のSpeak Visualの「真田一族を訪ねて」にありますので、興味のある方はどうぞご覧ください。
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