著者の鹿島茂さんの書いたものは月刊誌で時々読む。
一言で形容するなら「エロティック」なものを対象に考察する人である。
さて「SとM」であるが、Sというのはサディスム、Mというのはマゾヒスムのことである。
このSとMにかかる歴史をさかのぼり、検証・考証したものが本書である。
Sがサディスムというのは例のサド侯爵(ドナティアン・アルフォンス・ド・サド)から、Mのマゾヒスムはオーストリアの作家ザッヘル・マゾッホが語源となって1886年に名づけられた。
だから、割と新しい用語なのである。
この本を読むと、我々がというか私が今まで思っていたSとMのイメージと、実際のSとMでは違うということが明らかになる。
本当のSとは本来のMとは何か。
SというのはMに奉仕する。
Mは究極のわがまま。
そんなことを宗教、特にキリスト教とのかかわりで検証している。
途中はキリスト教の講義のようである。
つまり、キリスト教によって抑圧されていたものを解放するためにSとMが生まれてきた、というのが語られたりするのである。
西洋のSMと日本のSMの違いは何なのか、何てことも検証している。
SとMとは、たとえば「叩いて喜び叩かれて喜ぶ」という肉体的・性的なものだけではなく、心理的・精神的なものがおおきな要因なのである、というのがこの本を読んでよくわかります。
人間の心理的・精神的・宗教的な歴史のなかでS・Mは成長発展してきたのである。
この本を読むとSMなんて軽々しく取り扱えない、なんて思うのであった。
ちなみに、この本から見ると私はSらしい。
しかし、Mが望むようなSにはなれないので、つまりは普通の人のようである。そちらの面では・・・。
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さて「SとM」であるが、Sというのはサディスム、Mというのはマゾヒスムのことである。
このSとMにかかる歴史をさかのぼり、検証・考証したものが本書である。
Sがサディスムというのは例のサド侯爵(ドナティアン・アルフォンス・ド・サド)から、Mのマゾヒスムはオーストリアの作家ザッヘル・マゾッホが語源となって1886年に名づけられた。
だから、割と新しい用語なのである。
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本当のSとは本来のMとは何か。
SというのはMに奉仕する。
Mは究極のわがまま。
そんなことを宗教、特にキリスト教とのかかわりで検証している。
途中はキリスト教の講義のようである。
つまり、キリスト教によって抑圧されていたものを解放するためにSとMが生まれてきた、というのが語られたりするのである。
西洋のSMと日本のSMの違いは何なのか、何てことも検証している。
SとMとは、たとえば「叩いて喜び叩かれて喜ぶ」という肉体的・性的なものだけではなく、心理的・精神的なものがおおきな要因なのである、というのがこの本を読んでよくわかります。
人間の心理的・精神的・宗教的な歴史のなかでS・Mは成長発展してきたのである。
この本を読むとSMなんて軽々しく取り扱えない、なんて思うのであった。
ちなみに、この本から見ると私はSらしい。
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