読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

仙台クラシック・フェスティバル<せんくら2006>

2006-10-09 20:48:35 | 観た、聴いた
仙台クラシック・フェスティバルがこの3日間(7・8・9日)開催された。
前の2日間は「市民運動会」の都合でいけないことがわかっていたので、本日の分を聴きに行ってきた。

「せんくら」は4つの施設で最大10会場、そこで101回のコンサートが行われる。
今日はそのうち3つのコンサートを聴いてきた。

ひとつは「高嶋ちさ子」<クラシック名曲コレクション>と題して演奏。
今日の分は追加公演分である。11時45分から始まったが『こんなに朝早くから演奏するのはほとんどない』そうである。
赤いドレスで、妊娠6ヶ月。
ピアノとチェロとの3重奏。

合間のおしゃべりはテレビで見るとおりの面白さ。
そして演奏は、しっとりあり、情熱あり、いい音色であった。

少し休んで、14時15分から「モーツァルト:ピアノソナタ全曲シリーズ9」演奏は下山静香さん。
初日から9回(9ステージ)でモーツァルトのピアノソナタを全部演奏しているらしい。その最後のステージを聴いた。

ピアノソナタ第17番ニ短調K576と第18番ヘ長調K533・K494をゆっくりと、ゆったりと聴いた。
ピアノの音が心地よく響いたので、つい、ウトウトと・・・・

最後は米良美一の歌。本来は文化庁長官の河合隼雄さんの講演だったが河合さんが入院治療のためピンチヒッターに米良さんが出演した。
3日間連続で出演だそうである。

お話もすばらしかったが、やっぱり「もののけ姫」がいいカンジ。
ヨイトマケの唄やオペラの曲を熱唱。

せんくらは1ステージ45分。今回聞いたのはオーケストラではないので、シンプルな構成で、楽器からの音や歌声が直接響いてくるので、なんだかすごく安らいだ気持ちになった。

来年以降も続けてもらいたい音楽祭である。

しかし、ジャズフェスティバルを聴き、つま恋に拓郎とかぐや姫を聴きに行き、そしてクラシックフェスティバル。
ぜいたく・ぜいたく、満足・満足、である。
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第135回芥川賞選評 文芸春秋9月号

2006-10-08 23:50:00 | 読んだ
第135回芥川賞は、伊藤たかみの「八月の路上に捨てる」であった。

芥川賞、というか純文学にはあまり興味がないので、話題になったときぐらいしか読まない。
純文学というのは「ひとりよがり」の読み物、なんて思っているのである。
どちらかといえば文学よりもエンターテイメントな読み物が好きなのである。

で、今回も放っておいたのである。
ところが、週刊朝日の書評のコーナーで齋藤美奈子が「芥川賞の選評がおもしろい」と書いていたのを見た。
というわけで「どうれ」とおもむろに選評だけを読んだのであった。

そして、やっぱり面白かったから紹介することにしたのである。
芥川賞の選者は8名、うち7名出席で選考をした、欠席したのは村上龍だが、選評はちゃんと載っている。
それから、今回の候補作は5つである。(これって5つに決まっているのか?=そんなことも知らないのである)
では、選評を・・・順番は到着順になっているとのこと

「意識の伏流水」高樹のぶ子

<言葉が伏流水のように裏に流れる意識を感じさせるのは才能だろう>
と受賞作をほめている。前後の文章からなんとなくその言わんとしていることがわかるが、これだけではよくわからない、それが芥川賞なのか?レベル高いのね、というカンジがする。
そのほか2作品を取り上げているが、これには<文学としては安易な方法>といっている。

「小説の小ささ、大きさ。」宮本輝

受賞作なし、ということで選考会に臨んだそうである。
受賞作には二人の委員が○で他の委員は全否定をしなかった、としている。
つまり受賞作は△のような小説である、ということらしい。
そして受賞作には<もっと大きな芯が土台として設定できたのではないか>として<不満を感じている>といっている。つまりは<小説の土台が初めから小さい>のだとも言っている。
そして<多くの働く人々が見るもの、感じるもの、味わうもの・・・。それらを超えた何かが小説の芯として沈んでいなければ、その小説になにほどの意味があるのか・・・>として、他の4作品にも同様の不満をもったそうである。
なんだかどういうものがいいのか、具体的にあげてもらいたい、とおもったりして・・・なにせこちとらはそんなこと(小説の芯)なんて考えたこともなかったのだから

「現在と過去」黒井千次

このひとは一応5作品について評している。
受賞作については<紛れもない現代の光景のひとつが捉えられている>としている。
そして<このところ、候補作品のタイトルがやたらに長くなったのは何故なのだろう。>としている。それはテレビ番組のタイトルのせいではないか、つまり具体的に示さないと今は駄目なのではないかとも思うのであるが・・・
これも、現代の光景、だと思う。

「またしても不毛」石原慎太郎

題名でもわかるように、石原知事は候補作に不満である。
<(主題について)普遍的な主題だが、それにしてもその扱いが粗雑というかいかにもありきたりで、現代というかなり歪んだ時代の背景を感じさせない。>としている。つまり現代を描いていないというのである。
<浅く平凡>とか<軽く他愛ない>とか切ってくれている。石原さんは別の作品を推したらしい。
明確な論旨である。ただこの明確さを政治にあらわすのは大変だろうなあ、とべつのところで変な感想をもったのである。

「選評」山田詠美

今回の候補作品に登場するのは<心を病んだ人、物書き志望、あるいは売れない物書き、出版社勤務、がほとんです。私は、やだなー、こんな人々だけで構築されている世界なんてさー、とうんざりしました>としている。
人々の生活があまりにも多様化してきて(というか1億総おたく化なのではないかと私は思っているが)普遍性をどこに求めればよいのかみんなわからなくなってきているのではないか。
だから登場人物が、やだなー、と思う人々が多いのではないだろうか。
とはいえ、今回の選評では一番面白かった。

「他ジャンルからの乱入」池澤夏樹

映画の影響を文学が受けている、として、候補作品は影響を受けているだけで文学になっていないとしている。
つまりは<構造の原理が映画であって文学でない>とか<目前の効果が重視されていて、奥行きがない>ということらしい。なるほどとも思うが、何しろ候補作品を読んでいないのでなんともいえないが・・・ただ、近頃は「映像」をあまりにも意識してなんだか変なカンジになっているものは多い、と思う。
そして最後に
<前回も思ったが、なんでこんなにビョーキの話ばかりなのか?まるで日本全体がビョーキみたい。>といっている。
私は、日本全体はすでにビョーキになっていると思う。だからビョーキの話が多いのである。もしかしたらこれが現代の普遍性になるのか?
ただし、私は現代の普遍性よりも、人や人間社会の面々と続いている普遍性について書かれているほうを好む。

「選評」村上龍

<今回の候補作品はどれもレベルが低く、小説や文学というものを「なぞっている」ような気がした>とのっけから言っている。そして、
<問題は、何を伝えようとしているのかわからないことに尽きる>として、最後には
<「現代における生きにくさ」を描く小説はもううんざりだ>といっている。
きついなあー。とはいえ、骨太の人間の普遍性を扱った小説や読み物が少なくなっているのは「確かに・・」とうなづける。
なんというか「狭い社会」のなかで「俺は、俺は」とヘンに力んで叫んでいる小説が多いのではないか、と・・・


「○ひとつ、△ひとつ」河野多恵子

受賞作について<確実な成長が感じられた>として言葉使いをとりあげて<(たった4文字で)心理や気分の深さを言いえているのには感心する><並みの才能と力量では書けるものではないだろう。>と褒めている。これが「○」らしい。
「△」は島本理生さんの作品だそうである。

というわけで、選評は第1位山田詠美、第2位は村上龍、第3位石原慎太郎の順であった。
それにしてもこれだけ酷評されたら受賞作を読む気がなくなってしまうのではないかと思うのだが・・・
まあ天邪鬼(あまのじゃく)の私は、これで受賞作を読んでみようかと思ってしまったので、それも「あり」か。
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大雨対策

2006-10-07 22:45:19 | 日々雑感
昨日から大雨である。

それで、昨夜、大雨対策の会議があった。
とはいうものの、つまりは日曜日に市民運動会があるのだが、そのことについての地区の役員会なのである。

運動会といっても、選手・応援などの参加者に対して昼食を準備しなければならない。我が地区では「きのこ鍋」を約100人分作るのが恒例である。
しかし、今年はこの雨・・・どうしよう・・・

午前中には各地域から中止の具申が大会本部に会ったらしいが、本部は8日の午前6時の様子を見てからの一点張りだったらしい。

ということで、まあいろいろをもめたのである。

そして本日14時。
会場準備のために各地区の代表が集まった。そこで臨時の運営委員会が開催され、ここでもまあいろいろあったが、明日は中止と決定したのである。

それにしても、県内市町村では大きな被害が出ているところもあるというのに、のんびりとしたというか、バカバカしいというか、そんな大雨対策に、昨夜から振り回されっぱなしであったのである。
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Dr.コトー診療所第20巻DR.コトー、ずっこける 山田貴敏 小学館

2006-10-05 19:20:54 | 読んだ
ドクターコトーもとうとう20巻になってしまった。

凄腕の医者が離れ小島にいて、島民を守るというのはすごい。
そしてその島民が次々と難病や大怪我をするのもすごい。
(決して皮肉ではありません)

そして、そのコトーを見て、いわゆる無医村のようなところへ行く凄腕の医師が増えるのもすごい。

第20巻は、近頃重くなっていたお話に、新しい看護師「ミナちん」が古志木島にやってくるところから始まる。
明るい「ミナちん」だが看護師としての経験が浅く、本人も不安である。
それをどう「コトー」が育てていくか・・・・

それから、コトーのライバル江葉都が自分の診療所(三上医師がいたところ)に連れてきた鳴海の心の病について、どう治療していくのか・・・そしてその結果とは・・・
という「もうひとつのカルテ」も読み応えがある。
というか、結末で不覚にも涙してしまった。

DR.コトーは主人公は冷静沈着だが、物語自体は「熱い」
その「熱さ」が面白いところなのである。
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遠野わらべ唄殺人事件 西村京太郎 オール読物10月号

2006-10-04 21:25:10 | 読んだ
連載が今月号で完結。
おなじみの「十津川警部シリーズ」である、って近頃これ以外の西村作品にはお目にかかっていない。

近頃というか毎度というか十津川警部は犯人にいいようにもてあそばれる。
今回も、犯人にたどり着くのだがそこからが長い。

そして、事件のわりには犯人の動機が「なんだかなあ」と思うのである。
そんなことでこんなことする!?みたいな・・・

今回の犯人は、ちょっとかわいそうな気もするのだが、それにしても殺された人のつまり被害者の娘がそこまで同情するだろうか?
という気持ちも起こるのである。

ともかく、近頃の西村作品というか十津川警部シリーズは、起きる事件のすごさや謎に比べて、最後の解決部分が物足りないのである。

そうわかっていても、なんとなく読んでしまうのが、西村京太郎・十津川警部シリーズなのである。
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ネクタイ

2006-10-03 22:20:36 | 日々雑感
10月に入ったのでクールビズは終了し、久々にネクタイをしている。
なんだか、とってもうっとおしい気分である。

ネクタイなしでもそれなりの格好であれば、それなりに通用するのであれば、それでもいいのではないかとも思うのであるが、こういう文化(のようなもの)はそうそう廃れはしない。

でも、クールビズで「ネクタイなしでもやれるんでないかい?」という気分が出てきたと思う。

ネクタイって毎日変えて選ぶのが大変なんだよね。だからといって、同じものを何本か持っていてそれをひっかえとっかえというのも味気ない。大変なんだけれども選ぶ楽しさがあるというのもネクタイなんだね。

それにしてもクールビズって、ノーネクタイのことのようになってしまったけれど、実は地球温暖化防止のひとつの手段に過ぎないってことをもうみんな忘れてしまっているようだ。わが社では今年の夏も時に寒いくらいだった。

追伸
 嘉壽家堂本店に「吉田拓郎&かぐや姫コンサートinつま恋」のドキュメント?(つまり私のドキュメントなのだが)を掲載しました。本日は9月22日から開演直前までの出来事です。
 お立ち寄りくだされば嬉しいです。
 嘉壽家堂のSPEAKから入れます。
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鶴瓶の家族に乾杯 NHK総合 月曜20時

2006-10-02 23:04:51 | 観た、聴いた
月曜日の夜8時は、この番組「鶴瓶の家族に乾杯」を見ている。
そして「ああ日本っていいなあ」と思うのである。

「田舎に泊まろう」もいいのだが、あれは一般家庭に泊まるという「ミッション」がある。ゆえに応対する人たちが時には冷ややかになる。

しかし、こちらの番組は、みんな暖かいのである。
それは鶴瓶だけでなくゲストも暖かいからである。

さて、今回(先週と今週)は前川清がゲストである。
で、今回前川清は86歳のおじいさんと出会う。このおじいさんは一人暮らしで漁師で、妻に先立たれている。その妻が亡くなるとき「あなたと暮らして幸せだった」と言ったそうだ。

前川清はそのおじいさんになんだか惹かれるのである。
この番組ではそういう例が多い、こちら側では良くわからないのだが、出会った人たちだけが感じる何かがあるんだろう。

で、前川清は一番最初に出会ったおじいさんに最後にまた会いに行くのである。
おじいさんを励ましに行くのである。
しかし、逆に励まされるのである。
そして、一人暮らしでも周りの人が暖かいというのである。
前川清は涙する。(そして見ている我々も涙するのだ)

この場面、高齢化社会を表すどんな番組よりも高齢化社会を表現していたと思う。
狙ってできるようなものではなく、前川清の心とおじいさんの心がつながったことによるものではないかと思うのである。

こういう「期せずして」の場面がでてくるから、こういうドキュメント番組は面白いし好きなのである。
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萩原朔太郎の事件簿 月に吠えろ! 鯨統一郎 徳間文庫

2006-10-01 11:37:58 | 読んだ
近頃「鯨統一郎」が気になるのである。この本を読んだ後も読みたいものがある。

何故気になるのかといえば、サービス精神が旺盛であるということなのである。本書の解説(日下三蔵)も書いている。
「(前略)ミステリ短編集としては原価割れになるんじゃないかと心配になるほど大量のアイデアが投入されているのである」

探偵が詩人の萩原朔太郎であること。
相棒で語り手が室生犀星であること。
仲間として山村暮鳥、そして「ボス」に北原白秋。
ゲストには竹久夢二や菊池寛などが登場する。

大体この探偵小説の「月に吠えろ」というのが萩原朔太郎の詩集の題名になっていることに加えて、ドラマ「太陽にほえろ」のパロディーにもなっていることが、時々文中で示されていておかしい。
北原白秋や山村暮鳥の顔が本人とは別の顔をイメージしたりするのである。

主人公で名探偵である萩原朔太郎は、推理は鋭いが、その言行は「不思議」または「ヘン」である。こんな奴が傍にいると大いに迷惑だろうなあ、と思うのである。
萩原朔太郎をこんなふうにしていいのだろうか?とひとごとながら心配になってしまうのである。
もっともその分小説として読む分には「おかしい」し「面白い」のでいいのだが・・・

この短編集には7つの事件が収められている。
徐々に萩原朔太郎の行動がパターン化されていくところがやたらおかしい。
マンドリンを弾きながら登場してみたり、登場する女性にすぐ惚れてみたり、前言をすぐに翻したりと、やるやると思っているとやってしまうところが、或いは人のことを探るのに敏感な割には自分のことはよくわかっていないところが、バカバカしく面白いのである。

これら7編の事件は、その後朔太郎の詩のイメージの原型になっているというのが、事件解決のあとに更に続く「オチ」である。
朔太郎のファンなら、読んでいくうちにこの事件はどの詩になっているのだろうかという推理ができるという、2重のお楽しみになっているのではないか。

余談だが、私は朔太郎ならずあまり詩というのを覚えていないので、よく詩をソラで言う人がいるのを見たり聞いたりすると驚いてしまう。
更に言えば、私は吉田拓郎の相当のファンであるが、彼の歌をソラで歌えるのは2から3曲ぐらいであるし、仕事柄法律をよく知っていなければならないが「そのことは××法第○条でなんたらかんたら云々」ということもいえない、つまり<暗記>ということについて言えばまったくその能力を欠いているといえるのだ。(と威張ってどうする)

閑話休題(というわけで)
推理小説をよんでいるのに口元が緩んで、そうでなくてもしまりがない顔なのに、にやついている、というのは、なんだか不思議である。

すこし「過ぎている」んではないかという気持ちも時々起きるのではあるが「まあそのあたりは穏便にということで」という声も聞こえるので「まっいいか」と思うのである。

このあたりを面白いということで許せる人と、なんだこれは!と憮然とする人がいると思う物語で、そのあたりを考慮して読んでいただければ、と思うのである。
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