電影フリークス ~映画のブログ~

電影とは、映画のこと。その映画を一緒に楽しみましょう。

ジョン・ウー初期作まとめ(その1)

2016-01-11 22:30:32 | ジョン・ウー

先日、Twitterにて展開しましたジョン・ウー監督作品の年末特集。こちらでも整理してまとめてみました。(※一部、加筆してお送りします。)一連の作品を振り返ることにより、ジョン・ウー監督の映画に対する熱意や当時の苦悩から、彼の映画的表現方法、人間性に迫れるのではないかと思います。

1.「(カンフー)ヤング・ドラゴン」(原題:『鐵漢柔情』)

最近になって知ったのですが、ウー監督の映画人生を紹介するテレビ番組があったようですね。出演者のユーヤンや、フー・チンと並んだウー監督が紹介されたようなので(画像参照)、まだ探していて見つかっていませんが、それがどの番組でどんな内容かとても気になっています。

『鐵漢柔情』本編は過去にCS放送されていました。オリジナル『過客』(73)(日本では劇場公開済み)が香港で上映禁止となり、74年にウー監督が追加撮影。この再編集版が75年に香港で公開されたバージョンです。(=DVD版「カラテ愚連隊」がこの75年版)。その際、アクション指導したのは陳全のグループが担当していたようです。追加されたシーンはほぼ特定出来ていますが、これらのシーンを見ているとショウブラ出身のメンバーで構成されており、ジャッキーや元奎らのグループは不参加であったと考えるのが妥当でしょうね。武術指導のクレジットに陳全と陳元龍の2人の名前があるのは、オリジナルは陳元龍、追加シーンが陳全らのグループであったため2人の連名になっていると思われます。(陳全はショウブラ出身の武術指導家で、嘉禾移籍後に「電撃ストーナー」などを武術指導した人物です)


ジャッキー登場シーン。(ここでは劉江に襲い掛かるザコキャラ。)

嘉禾のDVD発売ラッシュも記憶に新しいのですが、BDは残念ながら「片腕ドラゴン」以降ストップ(?)してる模様です。是非「カラテ愚連隊」もいつかBDソフト化して欲しいと思います。

この「カラテ愚連隊」がジョン・ウーの初監督作品とされていますが、本当は「カラテ愚連隊」より前に『除霸』という作品がありました。ウー監督の伝記本、インタビュー本などでも一切触れられていなのですが、公式には監督作としていないため完全に埋もれてしまっています。いつかこの映画についても監督自身の言葉で語って欲しいものですね。

2.「怒りの双龍拳」(別名:「龍を征する者」、原題:『女子跆拳群英會』)

韓国ロケ作品。テコンドー全国チャンピオンに挑戦しに来た中国人の若者(カーター・ワン)が主人公。

ある武術家に弟子入りし、仲間(田俊)と共に悪の組織と対決するストーリー
です。この作品では顔のアップを多用し、表情を重要視してます。セリフなどよりも顔(特に目)で訴えているのが分かります。

ウー監督によれば、この作品は日本のTVドラマ「姿三四郎」をヒントに作ったんだそうです。

日本から参加のPinky Violenceな姐さん(スケバン)達

イケメンさん(ちょっと顔が大きいのはナイショ笑・・・)

本編を見ると、出演者たちの息も白く相当寒かったみたいですね。(冬の韓国は本当に寒そうです。)ウー監督は、韓国を訪れて高齢の現地スタッフに自分の格好がヒッピーぽくて若々しく見られて、本当に映画を撮れる人間なのかと驚かれたといいます。

象徴的な鳩の舞うシーンも

尚、テレビでは英語版で大浴場の露出シーンは全てカットしたショートVerにて放送されました。香港版ではオープニングがスローを多用しており、ランニングタイムも約104分と長くなっています。無駄な露出のない英語版は評価できますね。

練習試合を披露する、田俊VS池漢載
香港ファンはこれだけでも大興奮!!

さらに凄いのがこちら。
李大燁VS金琪珠

ここで、この作品で議論すべき話題を1つだけ紹介します。それは、ジャッキー・チェンが自伝で書いていた「Dragon Tamersでスタント・コーディネーターをしていた」という内容です。私の考えはノーですが、これについていくつかのポイントを解説してみます。

資料:74年所開拍影片

手元の74年度ムービーマーケット資料(74年所開拍影片)によれば、ウー監督は1月に双龍拳を撮影開始し、2月には『鐵漢柔情』(=カラテ愚連隊)着手となっています。

撮影が寒い時期だったのもこれで立証出来ますし、田俊も双龍拳は3ヶ月かかったと言っているので3月末には終わってる計算になりますね。
この映画の殺陣師は陳全(黒い胴着のロン毛男としても登場!)でした。ここでウー監督は既に嘉禾で仕事を始めていた彼らを早速起用しているのですよね。

次の「カラテ愚連隊」(追加撮影版)でも彼らが担当したのは、陳元龍即ちジャッキーが不在だったからに違いないと思います。(ジャッキーやサモハンがウー監督と共に映画を作るのは『少林門』まで待たされます。)この追加撮影が陳全だった事が大きく、双龍拳不参加も一気に真実味を帯びて来る訳です。

そして自伝の記述についてですが、Dragon Tamersについては自伝(98年刊)以前にも記述のある書籍がありました。要するに自伝以前の英文書には既に記事があり、それを丸写ししたに過ぎないという事になるかと思います。
また、この時期は香港を離れ、豪州に行っていた頃であって、結局のところ韓国で双龍拳のアクション指導に関与する事は物理的に不可能という話です。いかがでしょうか。その1、終わり。

 その2へつづく

コメント (4)
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燃えよドラゴン

2016-01-03 15:40:29 | 劇場公開作品研究

ドラゴン映画とは?

これはアンジェラ・マオの「電撃ストーナー」。こんな映画があったのかと小学生だった当時、私は1冊の本を手に何かを思った少年だった。

ふと、懐かしの映画を久々に家でゆっくり見たりしていると、70年代、日本における状況がどの様であったのか少しばかり振り返ってみたくなる。
資料によれば、最初に公開された「燃えよドラゴン」が劇場公開されたのは1973年12月だった という。(劇場公開①)
数えてみれば、今から42年も前。当時はまだ小学校に入る前だ。

その頃、私の記憶には残っていないが、もしかしたら倉田先生の「闘え!ドラゴン」ぐらいはテレビで流れていたのを見ていたのかも知れない。
ブームが起きていた74年頃は、名も知らぬヒーローが活躍していた・・まぁそんな時期であったと思う。

父や兄の影響で燃えドラの名前はもちろん知っていた。中学生になる頃には何度も見ていた。

かなり後になってから、こんなリー先生のシーンの存在を知ることになり、これがつまりジャッキー・チェンとの共演のシーンである。

ジャッキー・チェンの首をへし折るリー先生

そんな映画のより詳しい分析も一般的になったリバイバル上映時には近くの席にいたお客さんが女性にシーンの解説をしている光景を目にしたり、映画の見方も随分変わったと思ったりしていた時期であった。(その昔、シアトルのチャイナタウンで映画を見ながら奥さんにアクション解説していたのがブルース・リーその人!)

私の場合、この「燃えドラ」という映画に出演していた人物に注目せざるを得ない。冒頭のサモ・ハンをはじめとする強者たちである。

ネットでは出演者の情報もすぐ見つけられる。常日頃不満をぶつけてはいるが、簡単に情報を知る手段として、私はウィキを利用している。内容的に怪しい部分を含んでいたり間違いも多いとは思っていても
その容易性(簡単にヒットするシンプルさ。利便性)を考えるとどうしても避けられないのである。

ただ燃えドラのwikipediaには、なぜかトン・ワイの出演シーンについての記述が殆ど無く、またトン・ワイ自身については全く触れられていない。
つまり、これを見てもトン・ワイの日本での知名度はその程度のものかと愕然としてしまったりする。(2016/1/3現在)
スーリンについての議論も姉か妹かという話だが、そもそもどちらでも当てはまるsisterを日本語に訳すことはできないのではないか。

日本語では姉、妹と明確に区別された呼称であるが、米国においては単にsisterと言うだけなので日本のような習慣が無く、単語としては何の区別もない姉妹である。
一般的には妹でまったくOKだと思うのだが、WIKIを読むと姉でなければならない的な印象を受けてしまう。どちらかでなければストーリー上不都合が起きない限り、どちらでも構わないのではないだろうか。

画像:"BLOOD AND STEEL"オリジナル・スクリプト、スーリンの記述

wikiの記述を読んで思うのは、映画には脚本とか原作とかそういった物があるはずなのにそういった資料の紹介なども無く、映像から見た結果に満足してしまい真相に迫らずに終わっているのが非常に残念である。

「ドラゴンへの道」の前、ブルースは羅維が監督し脚本を書いた「チャックノリスin 地獄の刑事」の出演を選択しなかった。これは監督が海外の脚本家を使った映画を作ることを拒否したためだったそうだ。(羅維は代わりに主演には王道を起用することに!)ブルース・リーとしては監督に不満だらけだったのだ。

ここで、オハラ役のボブ・ウォールの談話を紹介する。
「主人公がオハラを倒すところまでというのは、武道の精神に則ったストーリーであり、信頼出来るもの」であったとか。映画作りには共演者からの信頼というものが必要なのである。

シナリオは製作過程でいろいろ変わっていって細かく見ていけば矛盾もあるらしい。映画を作り上げる事。これには相当の苦労が感じられる。

このシナリオはどこから来たものだろうか?
そして、燃えドラはリー先生にとっても、プロデューサーにとっても”賭け”だったという。欧米の観客たちはこの手のアクションを本当に受け入れてくれるのか?
そんな思いで製作された作品であったそうである。

ブルース・リーの映画に対する熱意があったこの「燃えドラ」は、諸々の問題が起こり完成は容易ではなかったにせよ、最高の形で世に現れた。

ラストの鏡の部屋はアイデアの勝利で、映画的な映像美として興奮させられるものだと思う。(古い映画でも使われたそうだが・・)実際私自身もハラハラ、ドキドキ興奮し楽しませてもらったシーンである。

80年代、富山敬による吹き替えでTV初放送された。当時刊行されたMOVIEコミックスはこの富山Verがベースになっているのは明らか。
何と言っても最初に出来た日本語版ですから重宝される訳なのですね。

 いわゆるフィルムコミック

実写取り入れ式のコミックのためタッチはもちろん異なる。今やスマホの時代なので、こういったフィルムコミックの手法を取り入れて積極的に過去の資産を活用してもらいたいのだが。

鍵谷幸信氏の著書に掲載されたアメコミ風燃えドラには、単に本での紹介ということであるのか要約したショートVerが展開された。これは面白かったので是非フルバージョンで見たいものである。

 
「燃えドラ」ザ・アメコミ


英語圏に登場した燃えドラは本当の意味でマーシャルアーツだった。そういった意味では、シフリンが作曲したテーマに乗せて米娯楽映画のように一気にアメリカン・カラーに一変したのである。

 「燃えよドラゴン」....

日本では、これ以前のカンフー映画というのは無かったというのが真実であり、最初の功夫片であることは何物にも代え難い事実である。

香港とアメリカの合作ではあるが、燃えドラが日本での最初のスタートとなり、現在に至るまでドラゴンへの道(Way of the Dragon.)は続いているのです。

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