


さて。シリーズ化してますカテゴリー、パンフレットで振り返るJC。丁度44年前のカラー作品!



少林寺では十二年の修行があり、最後の試験をパスしないと下山は許されない。


最後に。スタッフやキャストの一部を書いてるページ。その中に"ルン・ユァン"という人の記載があります。これは誰なのか?不思議ですよね。ちょっと私には分かりませんでした。どなたか分かる方、教えて欲しいですね。




信州のそばがとにかく美味しい店だったんだけど、水のせいなのかな?


毎週金曜日、こんな楽しい金曜日ないですよね(笑)
今夜は「ヤングマスター」。2014年の新録版での放送の模様です。ゴールデンタイム放送なので見ちゃいましょう♫






クロップされていますけど、おそらく中文英字幕が入ったこれが香港公開バージョンでしょう。

タイトル表示。下が切れちゃってますけど、アレ?VIじゃなくてVみたいに見えますな。はっきり見えないので、もどかしいですが。



こんにちは。醒龍です。
先日、若い頃のテイエンさんを見てましたが
主演映画なんかもいくつかあるんですよね。
来月24日、Eurekaクラシックスで『福建少林拳』が出るってことで、友人の某さんが騒いでおりました(笑)
2000枚限定だそうですよ!
随分と久々のソフト発売になりますね。前回は2007年でしたか!
https://blog.goo.ne.jp/leecoo/e/55e6b07c3eba3bf6e62e50dc7d9ab2de
今回ブックレットも楽しみですが、毎回海外在住の友人が名前だけ載ってて、おかしいな?と思ってるので、今度質問してみよう(笑)
ちなみに監督さんがちょっと怪しいのですよね。誰なんだろう??気になりますね。

さて、昨晩久々に見てました。ジャッキー共演作とかだと悪役が多くなってしまいますけど、一応道場の兄弟子で主演作。(まぁでも拳精のときのルーツァオが好き!これって何かモデルがあるような気がするのですが・・・)
ちなみに田俊さん、ジョンウーとのコラボがかなり少ないです。(2本ぐらいしか無い!)寒い韓国の撮影現場の写真とか見た事ありましたけど、冬の時期は撮影もかなり大変だったんでしょうね。いい機会なので、またいろいろ資料をチェックしてみたいと思います。
あの映画。テレビでもしっかり放送してまして「涙の復讐」(でしたっけ?)のタイトルでしたね。あまりパッとしない印象でしたけど、まぁよくオンエアされましたね!
ジェームスさんは、ハーベスト創業の頃からブルース・リーやジミーさんと共演されてて初期の頃は元気ハツラツで良かったですよね。
で、まだずっと見れてないのが『心魔』。
(いままで全く見る機会がありませんでした。。)
映画館でやってても流石にビデオは出なかったんですかねー?
せんきち様(師匠お元気でしょうか?)のサイトは皆さんご覧にはなっていると思いますのでURLは割愛させていただきますが、あの記事が面白いんですよね〜!
まぁ劇場公開までされた怪、、、なヤツ。またいつか(笑)
さわやか田俊

この映画、メンツは珍しい顔ぶれですけど、目立ってるのが、韓国材。ハチャメチャカンフーが楽しいんですよね。(ずっとこんな感じ)これに少しずつ磨きがかかって「酔馬拳」で完成じゃないかな。

マースもやんちゃなキャラ全開でした!
みんな、こんな感じ(笑)

ボスより貫禄ある敵チーム、主将の父。朱牧さん。あっち行ったり、こっち行ったりでお忙しい役者さんだこと。

ボスはハイ、こちら。全編ほのぼのカンフーでした!



(3)少林倚天拳について
パート2では、映画の内容にはあまり触れられませんでした。最後の3つ目ではまったく別の視点で映画の内容、ジョン・ウー(以下、JW)その人についても書いてみます。
まず、この「少林門」(以下、秘竜拳)の製作前、JWは『女子跆拳群英會』の次回作として本作を考えていたと思われます。
JWは、自分でシナリオを書ける映画人です。自分の書いたシナリオを読み、感動して涙するような人間でもあります。
JWは、子供の頃から映画を見るのが大好きだったそうです。子供の頃にタダで映画をみようと元気な子供たちと一緒に大人に混ざって映画館の中へ潜り込んで映画を観たんだそうですね。いまも昔も子供にとってはお金がなく料金は高いのです。係員に見つかったら、トイレに隠れたり、子供なのでひょこひょこ逃げ回るんだそうです(笑)。
中学生になると、昔ながらの広東語映画をこっそりみるのをやめ、外国映画を観るために毎日貯金をしていたそうです。学校をサボるのも当たり前、勉強より映画館で過ごす方が楽しかったのです。映画好きの母親が厳しかったそうで、帰りが遅くなると鞭で叩かれたりもしてたそうなんですね。学業の方は数学はニガテで美術や文学の成績は良かったらしいですね。それから、JWの母親がヴィヴィアン・リーの『風と共に去りぬ』や『哀愁』が好きなのだそうです。うちの母親にそっくり(笑)。
やがて18歳ぐらいになると、映画を作ってみたくなり、自分でガラスに絵を描いてみたり、演劇で小さなドラマに自ら役者として演技してみたりしたそうです。その時の一部観客がJWの演技に感動して涙したそうで、この時の小さな体験がJWにとっては大きかったようですね。
そんなJWが数々の現場経験を経て立派な映画監督に就任して、なぜ題材としてこのタイミングで少林拳を選んだのか。台湾では75年あたりから郭南宏先生の「少林寺への道(オリジナル75年版)」を皮切りに続く「少林少子」など、台湾から少林寺映画ブームが起きていたかと思います。(この辺りは今後の研究課題です)
その影響かどうかは分かりませんけれども、秘竜拳もその仲間入りした形ですね。
映画の撮影自体は終わっていたと思いますが、75年末にはある作曲家を投入して映画に磨きをかけます。いまから数年前に惜しくも亡くなってしまいましたけど、主題曲や映画で使われた音楽に顧嘉輝(ジョセフ・クー)をこのタイミングで起用したのです。当時の香港でレコードが発売されていたか不明ですけど、映画を盛り上げる音楽として最高でした。この音楽を入れなければ映画は完成にはならなかったんですね。
クーの音楽も好きですので、たまにカーステレオでCDながして世界にひたって例えば『當年情』なんかを聴いたり、カラオケを歌ったりするのもいいですよね。

さて、JWは映画を自分で撮る時に昔からスタントマン起用を嫌がっていた監督と思いますけど、この秘竜拳でも出演者に強く代役を使わないようお願いをしたという事です。
つまり、嘘をつきたくない、可能な限り自分自身で役を演じてリアルな役者をそのまま撮って観客にみせたい、そういう主義でやっている監督だと思います。他の俳優や、ジャッキーにしても迫力のある槍アクション、演技を秘竜拳で十分見せていたと思います。
そういえば以前に香港の俳優でした梁少華さん(現在は梁明華さんに改名)から、JWについて貴重な証言をお聞きする機会がありました。
この記事を書いていて、ふとJWの映画作りに影響を与えたかも知れないという古い映画を明華さんから教えていただいた事を思い出しました。JWがショウブラを抜けてハーベストの映画を撮るようになる前の話です。

以前こちらの記事に少しだけ書きました。
https://blog.goo.ne.jp/leecoo/e/0a33bf2f854333a18e20de6bb305cef8
もうちょっと補足しますと、『除霸』のJW関与についてだけでなく、その映画のタイトルが『扑不滅的火焰』であると教えていただいたのです。うまいこと観られるとよいのですが、まだ未見の映画ですので是非チェックしてみたいと思います。
梁明華さんから私、醒龍へのメッセージ

話を秘竜拳に戻します。香港電影資料館によりますと、秘竜拳は当初『少林倚天拳』という題名でしたが、実際には少林寺に倚天拳という名前の拳法や、倚天拳譜というような書物も存在していないため、後に映画のタイトルを『少林門』に改名したのだそうです。
(少林倚天拳譜という名前は後に、とあるハーベスト作品に登場します)JWは当初どんなシナリオを考えていたのでしょうか。
JWは拳經という書物から功夫の真意を悟り『少林倚天拳』のテーマにしたんだそうです。理論だけでは映画は作れないとは言っていますけど、その精神を映画に反映させているという事です。
ここに最初のシナリオ、『少林倚天拳』(嘉禾電影公司)があります。

『奪命金劍』の薄い20ページのセリフ台本に対して、『少林倚天拳』の方は全65シーン、150ページあります。
まず最初に登場人物の一覧表がありますが、これにまず驚きました。あとから手書きでメモが書いてありましたが、主人公の雲飛、ボスの石少峯(長刀)、江南浪士ことゾロ(剣)、そして譚風(霸王槍)、譚雄、ゾロの愛人・秋月の6名が最初のページに記載されています。当初の設定では、譚風の年齢が50歳、20歳の譚雄がその息子の設定になっているのがポイントです。最初のシナリオはこうだったんですね。



場所: 留置場
時間: 夕暮れ
登場人物: ユンフェイ、タン爺、看守2人
(彼は縛られて吊るされ、服は引き裂かれ、体中傷だらけで、明らかに拷問 を受けていた)
(看守2が緊張しながら答える)
(突然ドアをノックする音が聞こえる)
(看守Aは小さな鉄扉と窓を見る)
(外には看守のふりをするタン爺がいる)
看守A: どうしたんですか?



映画のラストシーンですが、これもしっかりシナリオに書かれた通りのシーンとなっておりました。馬に乗ったユンフェイが現れて、最後に剣と槍を映し出してましたね(涙)。
(2)国内における映画の製作時期の表記について
今回2番目の記事は、日本で言われていた「少林門」製作時期の疑問について。まず問題提起しますと、この映画は日本国内において「74年」に製作と言われ続けていました。これは昔から言われており、誰もが疑うこともなくインプットされた内容なのですよね。
なぜでしょう?と思った方。そう思った方は、この記事をお読みいただくと、何かが分かるかも知れません。



はじめに書いておきますと、74年製作は確かに怪しい情報なのですが、これを解明するには様々な資料、書籍などの国内外の出版物に目を通す必要があります。
また、正解というのは実は無いというか非常に難しい話になります。ですので、ここでは製作年度が74年になっていた経緯などの解説文として、興味がありましたら是非続きをお読みいただければと思います。
さて、私が当時、最初に読みました書籍がこちらでした。

1982年発行になりますが、著者は有名な映画評論家の日野康一氏です。
日野さんはかつて、アジア映画方面ではブルース・リー書籍などで実績のあったお方で、ジャッキーについても同様に多数出版、様々な記事を書かれてましたね。
日野さんと言えば、近代映画社から出てましたコチラ。
「栄光のドラゴン ブルース・リーのすべて」

とにかく読みやすくて中身が濃かったので、醒龍お気に入りの一冊ですね!これは流石でした(拍手)。
そして、上に書いたジャッキー本があります。その後も似たような本が多数出ていた中の1冊で、これは「ジャッキー・チェン大全科」(秋田書店刊)なのですが、"ジャッキー・チェン全出演作を完全公開"と謳っていましたので、ワクワクしながら何度も読んでいましたね。
これの巻末には、こんなページがありました。

スーパースターへの道という節があり、このページから引用しますと、「すでに完成した少林門もオクラになるしまつ(2年後の76年に公開)。」という記述がありました。
更にこんな凄い事も書いてあったんです!

"お蔵入り"に関しては、香港の公的機関からリリースされている外国映画を含む禁映(=上映禁止)リストがありますけど、ここにはJW関連で2つの作品(73年)挙がってしまっていたのですよね。

73年のNo.317には『過客』が、そしてNo.326には例の『満洲人』がリストアップされています。折角、時間と労力を使って映画を作っても上映が許されないなんて哀れですよね。
結果的には、御存知の通り『過客』は追加撮影、再編集されて2年後の75年に香港で劇場公開されましたね。これがお蔵入り(ややこしいですが、あくまで香港での話。。)です。『少林門』はリストにはありませんが、『満洲人』は完全にお蔵入りした映画です。
ちなみにこのリストで面白いのは、やはり73年の『必殺ドラゴン鉄の爪』が一旦禁映になったあと、2回目の審査で通っているんです(75年に香港公開)。検閲で通るか通らないかのギリギリの線にいた訳なのでした。
さて、大全科の話に戻しますと、巻末には出演作①のフィルモがあります。

ただ、76年以降の羅維時代の作品と、それ以前の作品リストでは、後者が年度だけの表記だったりして明らかに質が異なっています。ですので、羅維影業の主演作以外の作品については、まだあまり知られていなかった事が分かります。では、その出演作①のリストにある「少林門」が74年の表記になっていたのはなぜか?
羅維影業作品リストだけはしっかりした資料を入手していたかと思いますが、実はフィルモに関して更にベースとなった書籍がありました。大全科の出版前、81年発行の芳賀書店のヤング功夫マスターと題された日野先生責任編集のシネアルバム(バトルクリークブローの時のジャッキーが表紙の黄色い本と言えばお分かりでしょうか?)の中には、楊明山という人が日本語に訳した台北でのジャッキーのインタビュー記事が載っています。
81年に出版されたこのシネアルバムが日本で最初期の書籍ではないかと思われます。

これがどういう事かと言いますと、まず、ジャッキーはこの時期両親の暮らすオーストラリアへは2回行っていたという話が現在までの通説だと思います。それがあのインタビューを読んだだけだと回数は意識せず、「1年間ずっと渡豪してたのか・・」と思ったりしたのではないでしょうか。要するにまさか2回も行ったとは思ってはいなかったと思うのですよね。






この拳精でジャッキーがトンファーを持ってる表紙の記事がまさにそうでしたね。七小福について書かれた内容で、ジャッキーは学校ではどんな事をしていたか、メンバー構成や厳しかった于先生について、日々の活動の様子などが記事になっていて、それが日本の書籍に翻訳されて掲載されていたのです。

因みに、73年頃の中文記事でJCプロフィール紹介の記事中に『北地胭脂』出演の事が書かれている雑誌もありました。これってショウブラ解禁後にやっと浸透してきた内容と思いますので、当時国内どの文献においても、残念ながらこの情報が採用される事はありませんでした。

このように当時は香港で購入できる嘉禾電影や銀色世界、銀河畫報あたりの大手の映画雑誌、N商事で扱っていた英語、中文雑誌などがあったと思います。大百科の類いでも、これらの雑誌の写真をかなり流用してましたね。当時はジャッキーの出演情報に関しては情報誌がそれほど多くなく貴重だったのです。
出版書物のページには主要なメンバーが並んだ写真が掲載されてましたが、公開日76年が表記されていました。但し注釈は特に無し。ほかの映画で時期のズレがあれば注釈が記載されています。(例えば邵氏の『惡霸』など。73年に撮影が終わって送検後、75年に公開と注釈あり)つまり74年に製作されていた事実はなかったという事だと思います。
また、説明文にはストーリー概略と嘉禾電影46期の抜粋記事などが書かれているのが確認出来ました。映画をよりリアルにするために、杜青役のサモハンと一緒に有名な武術家を訪ねたそうです。先方が誰なのかまでは分かりませんが(苦笑)。

年度を証明する物が他にないかと考えていましたら、前のパート1記事で触れました映像にヒントがありました。少林門の英語版プリントに注目しますと、珍しくローマ数字でMCMLXXVI(1976)と刻印されているように見えます。

私は74年というのは流石におかしいなと以前から思っていましたので、今回こういった記事を書きました。もしかしたら76年というのが実は正解で、かつ無難なデータかも知れませんね。
ちなみに私、醒龍は日本のビデオに記載されたコピーライト、1975年を採用したいですね。
前回、カラテ愚連隊、龍を征する者、と来ましたので、つぎは少林門こと「ジャッキー・チェンの秘竜拳」(以下、秘竜拳とします)を今回その2で書いてみたいと思います。
やや長文になってしまいますが、ご容赦くださいませ。
それから、先日お知らせしました通り、今回3つの構成でお送りしたいと思います。(諸事情により記事はパート1〜3の3つに分かれます 汗。。)
(1)「秘竜拳」との最初の出会いについて
では、まず私が最初に秘竜拳を観た時のお話から。当時まだ中学生でしたけど、映画の情報はもっぱら雑誌「ぴあ」と、「ロードショー」派でした(笑)。友達と映画を観に行くのが楽しい時代でしたね。もちろん大人気のジャッキーはみんな夢中でした。あるとき映画雑誌を見ていたら、「少林門」という映画をTBSで放送すると書いてあったんです。(まだこの時は邦題が決まってなかったんですね)

この辺りの古い作品もまた機会がありましたら、記事を書いてみたいですね。
結局のところ、本放送を観て衝撃をいろいろ受けた醒龍でした。が、ビッグ・スリーの映画であるのに、サモハンやユンピョウをまだ意識もしてないですし、まったく印象なども無いので正直覚えてないですね。ボスのジェームス田俊が強烈だったぐらい。。まぁ中学生だから、こんなもんです。

数年後にビデオデッキでちゃんと録画も出来ました。その頃はHiFiビデオでは無かったので日本語だけテープに入りましたけど、あれは英語の音声だったのかな?
主役の名前も分からないで、放送のたびに見ていた(まして監督なんて・・・)と思います。

とタイトルが出てましたね。

アナログの時代。常時黒い縦線が入るような傷だらけのフィルムが輸入されて、デジタルなんてまだまだ考えられない時代でした。
オープニングはトリミングするとクレジットが切れてしまうため、ここだけTVサイズに横に押しつぶした加工がありました。
昔のカンフー映画にありがちなドリアン・タン(タントゥリャン、譚道良)の顔が長ほそーくなる(笑)

この映画は韓国ロケなので、韓国人俳優が多数出演していましたね。調達し易いからなんでしょうけど、いまだに顔の分からない俳優さんもいらっしゃいました。一応、この映画では韓国側の映画会社が制作費を半分出したりしているんだそうです。
この映画が製作された頃、あるキャストたちが参入して来てましたね。そうなんです、江生をはじめ数年後に五毒拳のメンバーになってゆく俳優たちの顔が見られる(しかもハーベスト作品!)のもこの映画ならでは。これは台湾サイドです。

あと国内では、85年頃にポニーよりビデオが発売されました。



英語音声です。これはいいですね。

顔はレターボックスなのでノーマル(笑)

剣士ゾロ

(ここで、アプリが3000文字までに仕様変更されてしまった。。編集し直して、続きは次の記事にて)