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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~高浜虚子再考~ (85)

2016年12月01日 | 俳人杉田久女(考)

(58)の記事で杉田久女の師、高浜虚子について書きましたが、もう一度ここで高浜虚子について考えてみます。
<高浜虚子1874-1959>

『ホトトギス』の弟子達からみた高浜虚子は、柔和な表情で物事に動ぜず宣伝がましい態度がない人、語る言葉は淡々と平明、それでいて冒し難い威厳を備え周りを魅了する人であったなどと描写されています。

久女の師でもあった高浜虚子の中には、他の弟子たちの言う温顔、包容力、達観といったものは、事実ある程度はあったのでしょう。が
しかし、これまで杉田久女の生涯を辿ってきて私が感じることは、それとは全く別の、ある種の恐ろしさ、非情さ、打算、計算高さをも合わせ持つ人であった様に
思います。

田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる...(下)』の中にある記述ですが、〈昭和13年『ホトトギス』4月号は400号記念号であった。290ページの大部なものである。たくさんの人が執筆しているが、「高浜さんと私」という安倍能成の一文がある。その中に「世間ではよく高浜さんの利口と打算とをいう」とある。これは「そういう方面もあるかもしれないが私にはそういう方の接触はない」とつづくのである〉と書かれています。

私はその安倍能成の一文を読んではいませんが、その頃世間では高浜虚子は打算的であると実際に囁かれていたのでしょう。

死者に鞭打つように、「墓に詣り度いと思ってをる」や『杉田久女句集』序文で、事実とは違うこと、嘘を書いてまで、弟子久女が除名前に既に狂っていたという風説を世間に流そうとしたのも、虚子自らが行った久女除名処分を正当化しようとの打算、計算が働いての事だった様に思われます。

高浜虚子はこれらの虚構文を書くことにより、弟子久女が狂っていたので昭和11年に『ホトトギス』同人を除名したと言いたいようですが、これはおかしな論理だと思います。

仮に彼女がそのような状態であれば、それは病気であり一ページに大きく掲げて除名処分するなど常識では考えられません。虚子が除名処分などしなくても、自然と俳句界から消えていくはずです。

では何故、一ページに大きく掲げて同人除名したのでしょうか。それは周りに明らかに出来ないだけで、そうするだけの明確な理由が虚子の胸にあったからと思われます。

これまでも書いていますがその理由とは、自分が勧めて俳誌『玉藻』を主宰させた愛娘の星野立子が、実力ある俳人久女の影に隠れてしまうのを恐れた為だと考えられます。

虚子の胸の内だけにある、この久女除名の本当の理由を、彼は公言できないのは当然でしょう。ですから同人除名処置を、久女の異常性格、狂気にからめて正当化する意図があったのだと思います。

また、久女の死後、虚構文を書いてまで事実を歪めようとしたのも、嘘を書いて白を黒と言いくるめることが平気で出来る人だったからでしょう。

そして、そのような事をしても、恬としてひるまない、この様な所にも弟子たちに普段見せているのとは全く別の、高浜虚子のある種の恐ろしさ、
非情さが見え隠れする様に思います。


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俳人杉田久女(考) ~『杉田久女句集』序文の問題点~ (84)

2016年11月28日 | 俳人杉田久女(考)

前回の(83)で書いた様に、『杉田久女句集』に添えられた高浜虚子の序文を読むと、この文章は不自然で、序文にそぐわないものに思えて仕方ありません。久女生前に序文懇願を無視したのと同じ気持ちが、まだ虚子の中にある様に感じます。

虚子は久女を「女流俳人として輝かしい存在」「群を抜いていた」と書いていて、彼女の才能を認め、その俳句作品に清艶香華という言葉を贈っています。久女俳句を見抜いた虚子ならではの言葉だとは思います。

がしかし、「久女さんの行動にやゝ不可解なものがあり」や「精神分裂の度を早めた」などとも書いていて、弟子の遺句集を世に送り出すはなむけの序文であるとはとても思えません。

虚子は久女の代表句として十句あげていますが、人にはそれぞれ好みがあるといえばそれまでですが、もっとピッタリくるものが何句でもある様な気がするのです。

例えば、楊貴妃桜の句が三句あげられていますが、久女の句を出来るだけ多く紹介するという立場で考えると、十句のうち三句までが楊貴妃桜の句というのは首をかしげたくなります。

同じ場所で詠まれた、この楊貴妃桜の三句をどうしてもあげたいならば、三句をまとめて配列してこそ、作品効果が出るのだと思います。句の順序も1番目が〈風におつ 楊貴妃桜 房のまま〉、2番目が〈むれ落ちて 楊貴妃桜 房のまま>、3番目が〈むれ落ちて楊貴妃桜 尚あせず〉に当然すべきで、なぜ、この三句の間に別の句をはさむという、こんな配列になっているのか、理解に苦しみます。

それに、2番目にあげている句の〈灌浴〉は、正確には〈灌沐〉です(これは誤植かもしれませんが)。

さらにこの序文の重大な問題点は、高浜虚子はここでもまた事実と違うこと、嘘を書いていることです。

久女の句稿の原本について、虚子は「全く句集の体を為さない、ただ乱暴に書き散らしたものであった」と序文で書いています。しかし、久女の長女昌子さんは、これは事実と違っていると述べています。

昌子さんは著書『杉田久女』に、<私は母の句稿の原本がもし紛失することでもあったらという不安と、又、その原本が墨書であり、句を巻紙に抽出したものであった、ということから、母の亡くなった直後に、原稿用紙に清記しておいたものであった。したがって虚子先生は母の句稿に目を触れられてはいないのだった。>と書いておられます。
<石昌子著『杉田久女』>

昌子さんは虚子に見せたのは久女の句稿の原本そのものではない、昌子さんが原稿用紙に清記したものと断言されています。当時は今日の様に簡単にコピーが出来る時代ではないので、万一久女の句稿の原本が紛失したら取り返しがつきません。なので貴重な原本そのものを、虚子に郵送したりしないのは当然でしょう。

なお、この句稿の原本は(71)の記事の写真にあるとおりで、ずっと久女の長女石昌子さんが大切に手元で保管されていましたが、現在は久女ゆかりの小倉北区の圓通寺に寄贈されています。写真を見てもわかる通り、虚子の言うように<全く句集の体を為さない、ただ乱暴に書き散らしたもの>ではないのは明らかです。

高浜虚子は「墓に詣り度いと思ってをる」という一文と同じように、この序文の中でも久女の狂気を強調したいために、この様な嘘を書いたのだと思われます。

しかし、久女の長女昌子さんは<事実と違うといっても、お願いして書いて頂いた序文を事実通り書き直して欲しいと、私には言えなかった>とその著書の中で書いておられます。それはそうでしょうね。

ですから、昭和27年10月出版の『杉田久女句集』には高浜虚子が書いた序文がそのまま載せてありますが、昭和44年7月に同じ角川書店より出版された増補版の『杉田久女句集』にはこの虚子の序文と悼句は、省かれています。この序文は久女に対する偏見を助長すると、昌子さんは考えたのだと思います。

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俳人杉田久女(考) ~高浜虚子の『杉田久女句集』序文~ (83)

2016年11月26日 | 俳人杉田久女(考)

久女の長女昌子さんは、生前の母から託された句集出版を何としても果たしたく、苦労の末かろうじて、高浜虚子から序文を貰い、昭和27年10月、角川書店からの『杉田久女句集』出版にこぎつけました。

私は角川書店発行の久女の句集を持っていませんので、虚子が書いたその序文を北九州市立文学館発行の『杉田久女句集』から、全文
引用してみます。

 「 序 」
杉田久女さんは大正昭和にかけて女流俳人として輝かしい存在であった。ホトトギス雑詠の投句家のうちでも群を抜いていた。生前一時その句集を刊行したいと言って私に序文を書けという要請があった。喜んでその需めに応ずべきであったが、その時分の久女さんの行動にやゝ不可解なものがあり、私はたやすくそれには応じなかった。此の事は久女さんの心を焦立たせてその精神分裂の度を早めたかと思われる節も無いではなかったが、併しながら、私はその需めに応ずることをしなかった。

久女さんの没後、その長女の石昌子さんから、母の遺稿を出版したいのだが、一応目を通して呉れないか、という依頼を受けた。私は喜んでお引き受けするという返事を出した。送って来たその遺稿というものを見ると、全く句集の体を為さない、ただ乱暴に書き散らしたものであった。それを整正し且つ清書する事を昌子さんに話した。昌子さんは丹念にそれを清書して再びその草稿を送って来た。私は句になっていると思われるものに〇を付して、それを返した。その面白いと思われる句は、曾てホトトギスの雑詠欄その他で一通り私の目に触れたものである様に思えた。他に遺珠と思われるものはそう沢山は無かった。試しにその句、数句を挙げてみようならば、

    「 無憂華の 樹かげはいづこ 仏生会 」

    「 灌浴の 浄法身を 拝しける 」

    「 花衣 ぬぐやまつはる 紐いろいろ 」

    「 むれ落ちて 楊貴妃桜 尚あせず 」 

    「 咲き移る 外山の花を めで住めリ 」

    「 桜咲く 宇佐の呉橋 うちわたり 」

    「 風に落つ 楊貴妃桜 房のまま 」

    「 むれ落ちて 楊貴妃桜 房のまま 」

    「 菊干すや 東籬の菊も つみそえて 」

    「 摘み競ひ 企救の嫁菜は 籠にみてり 」

これらの句は清艶香華であって、久女独特のものである。尚この種の句は他に多い。生前の序文を書けといふその委嘱に応ずる事が出来なかった私は、昌子さんの求める儘に丹念にその句を克験してこれを返した。

   昭和二十六年八月十六日             
                                                                      鎌倉草庵  高浜虚子


以上が高浜虚子が遺句集『杉田久女句集』に書いた序文ですが、これを読むと、どこか不自然で弟子久女の遺句集出版を寿ぎ、多くの人々からこの句集が受け入れられることを願って書いたとは思えない文章だと感じます。

それともう一つ、これは北九州市立文学館の学芸員の方から直接聞いた話ですが、高浜虚子は、
(80
)の記事にある自身が書いた創作「国子の手紙」を、『杉田久女句集』巻末に採録しようとしていたのだそうです。

「国子の手紙」は虚子が久女の狂気を世間に知らしめるために書いたものだといわれていますが、その創作を『杉田久女句集』巻末に載せるという行為には、死者に鞭打つことが出来る執拗さや、
人間として師としての思いやり慈しみに欠ける、彼の非情な人格がかいま見える様に思います。

しかし、結果的に虚子の創作「国子の手紙」は、中央公論社の方に載ることになった為、『杉田久女句集』に載せることはなかった、との学芸員の方のお話しでした。

次の記事でこの序文について、私が感じることを書いてみようと思います。

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俳人杉田久女(考) ~『杉田久女句集』出版までのいきさつ~(82)

2016年11月19日 | 俳人杉田久女(考)

前回(81)の記事では、『杉田久女句集』出版までのいきさつについて、詳しく触れていませんので、この遺句集は比較的スムーズに出版された様に感じられるかもしれませんが、実際はそうではありませんでした。

久女の生前はいくら懇願されても久女の句集に序文を与えなかった高浜虚子でしたが、彼女の死後もそんなにすんなりとは運びませんでした。

今まで述べた様に、高浜虚子は久女の死後、『ホトトギス』やその他の雑誌に、死者に鞭打つ様な、久女叩きとも受け取れる文章を次々に発表していました。

それらの文章には、虚子が久女を同人除名した処置を正当化しようとする意図があったと思われますが、その内容は「常軌を逸していた」、あるいは「狂人」という点のみを強調し、久女が除名前から狂っていたという風説を流すものでした。

久女の長女昌子さんにとって、この様な時期の虚子に、母の遺句集に序文を書いてほしいとお願いするのは、相当大変だったと思います。

昌子さんの書かれた文章によると、出版社を決めようとすると「久女さんのものを出版すると、虚子先生からの出版物がいただけなくなる。久女さんのものは虚子先生から差し止めがあって...」という理由で断られたこともあったようです。つまり虚子は久女が彼の序文なしでの句集を出版出来ない様に、妨害工作までしていたのですね。これには驚くとともに何もそこまでしなくてもと思わずにはいられません。

色々思案した末、昌子さんのご主人、石一郎氏の師である川端康成(『伊豆の踊子』『雪国』の作者)を煩わせ、川端康成と石一郎氏が、句稿を持参して、鎌倉の虚子宅へお願いに行ったようです。

その様ないきさつがあり、久女の長女昌子さんは、苦労の末やっとの思いで、かろうじて高浜虚子から序文を貰い、昭和27年10月、角川書店からの『杉田久女句集』出版にこぎつけたのでした。


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俳人杉田久女(考) ~悲願の『杉田久女句集』出版~(81)

2016年11月13日 | 俳人杉田久女(考)

久女の死後、昭和27(1952)年に角川書店から高浜虚子の序文とともに『杉田久女句集』が出版されました。この句集こそ、久女生前の悲願が結実したものでした。
<『杉田久女句集』>

文庫本サイズの小さな句集で、収録句は1401句、最後に長女石昌子さんの「母久女の思い出」と年譜が載せられています。全部で175ページ、1ページに10句掲載され、装幀は池上浩山人でした(上の写真は久女展の図録を写しました)。


私はこの句集をH.23年の「花衣 俳人杉田久女」展で見ました。ネット古書店でみるとこの本は値段が高く、又、手に入れにくいらしく、私が現在持っているのは、北九州市立文学館が発行している下の『杉田久女句集』です。内容は上の角川書店発行のものと同じで
す。


虚子は序文とともに、悼久女と前書きがある下の悼句を寄せています。

       「 思い出し 悼む心や 露滋し      虚子 」


最初のページに、上の虚子の自筆悼句が印刷されています。
<最初のページに載っている虚子の悼句>

そして目次があり、その次のページに久女が熱望してやまなかった虚子の序文が載っています。しかし今日、この序文も何かと問題の多い文章だと久女研究者達に言われているようです。この序文については後の記事でふれましょう。


久女の長女石昌子さんは、久女の没後すぐに母から託された句集出版を決心しました。

昌子さんは、久女の師高浜虚子に母の死を知らせる手紙を書き、小倉からの荷物の中にあった墨書の遺句稿を原稿用紙に清書することから始めました。墨書のままでは印刷に廻しにくいのと句稿の散逸を恐れてのことだと思います。句稿は巻紙に美しい筆跡で墨書してありました((71)の記事の写真)。その後、
虚子から返事が来て7か月後に悼句をおくられました。

久女存命中は幾度懇願しても句集出版を許さなかった高浜虚子でしたが、受け取った句稿に目を通し、選句をして序文を与えました。

この様に久女の死後、彼女の長女昌子さんの懇請と尽力が実り、また関わりのある多くの人々の力添えで、
ようやく句集出版の運びとなりました。久女の死後六年余のことでした。

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