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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~創作「国子の手紙」~ (80)

2016年11月05日 | 俳人杉田久女(考)

高浜虚子の書いた創作「国子の手紙」は、<こゝに国子という女があった。その女は沢山の手紙を残して死んだ。 (中略)国子はその頃の女子としては、教育を受けていた方であって、よこす手紙などは、所謂水茎の跡が麗しくて達筆であった。それに女流俳人のうちで優れた作家であるばかりでなく、男女を通じても立派な作家の一人であった。が、不幸にして遂にここに掲げる手紙の様な精神状態になって、その手紙も後には全く意味をなさない文字が乱雑に書き散らしてあるようになった>という書き出しで始まります。
<高浜虚子著「国子の手紙」>

この様に最初から<不幸にして遂にこゝに掲げる手紙の様な精神状態になって」や「全く意味をなさない文字が乱雑に書き散らしてあるようになった>などと、読者に先入観を与える書き方をしています。そして手紙の数の多さを繰り返し強調しています。

続けて、<俳句50年の生活の中で、狂人と思われる手紙を受け取ったことは他にもあるが、しかし国子の如く二百三十通に達したというのは珍しい>と書き、はなから国子を狂人だとしています。

この小説の中で、国子とは久女のことです。

次に、長女の昌子さんが
虚子に母、久女の死を伝える手紙と、彼女が久女の手紙の公開を承諾し、末尾に遠慮がちに母の句集出版の願いを申し出ている2通の手紙が続き、その後に久女から昭和9年に来たという19通の手紙が載せられ、それの幾つかに虚子が短い解説をはさむという構成になっています。

虚子は、反復しているところや奔放、放埓なと思われる点は省き、文章も晦渋と思われる部分は平明に書き改めたと書いています。久女の原文が現在ないので、虚子の加筆、修正について今日確認することは不可能です。
<高浜虚子 1874-1959>

虚子のいう久女の15通目の手紙では、<先生のお子様に対する御慈愛深い御文章に接すると、あの冷たい先生にも、かかる暖かい一面がおありかとしみじみ感じます。老獪と評される先生にこの暖かい血がおあり遊ばすことを誠に嬉しく存じ上げました。  (中略)先生ご自由にお突き落とし下さいまし。先生は老獪な王様ではありましょうが、芸術の神ではありませぬ。私は久遠の芸術の神へ額づきます。  (中略)ただせめて句集一巻だけを得たいと存じます。どんなに一心に句を励んでも、一生俳人として存在するさへ許されぬ私です。 句集出版のことはもう後へ引くことは出来ません。先生のご序文を頂戴いたしたく存じます>などと彼女は書いています。

<先生は老獪な王様ではありましょうが、芸術の神ではありませぬ>の様な師への言い方は、狂気とみられても仕方ないかもしれませんが、この時の久女のおかれた状態が、ある程度判っている私から見ると、彼女のぎりぎりの叫びかもしれないと思ったりもします。

今日、久女のこの手紙を読むと、序文を貰いたいばかりの必死さというか、追い詰められたところから来る身もだえする様な久女の絶望感が伝わって来て、彼女の哀れさに胸がつまります。

そして
敬語は完ぺきに使いこなされ、虚子が世間に知らしめようとした久女の「狂気」はそれほど強く伝わって来ません。それは「狂気」とは別のものの様な気がします。

これまでに(60)(61)の記事に書いた様に、「国子の手紙」にある久女の手紙が書かれたとされる昭和9(1934)年に、彼女は「鶴料理る」というエッセーを『かりたご』に載せ、また山口県八代(やしろ)村に行き美しい鶴の句61句を詠んでいます。そのどちらにも乱れはまったくありません。

又、久女は「国子の手紙」の中にある手紙を出したとされている、昭和9年に『ホトトギス』同人になっていますが、「国子の手紙」と同じ内容の手紙を虚子が実際に受け取っていたならば、なぜこの時期に虚子は彼女を『ホトトギス』同人にしたのか、素朴な疑問が湧いてきます。

また、久女は同人に推挙された、お礼の手紙を虚子に出しているはずですが、「国子の手紙」には載っていません。その様な普通の文面の手紙を、虚子は故意に省いたと考えられます。

高浜虚子の創作「国子の手紙」の中の19通の久女の手紙を貫くものは、句集を出版させてほしい、序文を書いてほしいという一念です。虚子がその気持ちを冷ややかに眺め、過激になってゆく手紙を机の中にとりのけておきながら、久女の序文懇願を黙殺し続けたことを、私は非常に不自然に感じます。

「国子の手紙」は虚子の創作であると主張しても、久女の長女昌子さんに久女の手紙公表の許可を得ている以上、国子が久女であることは否定のしようがありません。

ですから、師である高浜虚子が弟子久女の死後に彼女からの私信を、創作「国子の手紙」のようなひどい形で発表したという事実は残るのです。

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このカテゴリー「俳人杉田久女(考)」を「谺して山ほととぎすほしいまゝ(久女ブログ)http://blog.goo.ne.jp/lilas0526」として独立させました。内容は同じですが、よろしければ覗いてみて下さい。     

 
 




 


俳人杉田久女(考) ~「国子の手紙」について~ (79)

2016年10月31日 | 俳人杉田久女(考)

久女の師、高浜虚子は久女の死から2年8ヶ月後に『文体』という雑誌に、久女が昭和9年に虚子に出したとする手紙のうち19通を選んで、創作「国子の手紙」を発表しています。この作品は現在、『高浜虚子全集第7巻小説3』に納められているので、誰でも読むことが出来ます。


虚子は創作と言っていますが、
久女と彼女の長女昌子さんからの手紙に、虚子が短い解説を幾つか付けたもので構成された小説で、とても創作とは言えない不思議な奇妙な作品です。虚子は創作ということにして、周到にあらかじめ逃げ道を作っておいたと言えなくもないでしょう。
<高浜虚子 1874-1959>

虚子が久女からの手紙が不愉快だったとしても、死者に鞭打つ様なこんな大げさな形式をとって、私信を発表する必要が、何故あったのでしょうか。

彼はこの「国子の手紙」の中で、一言も同人除名の理由には触れず、ただ「常軌を逸していた」「狂人」という点のみを強調し、久女が狂っていたという風説を流すのだけが目的であった様に思えます。


普通に読むと、この久女の手紙は尋常な人が書いたものとは思えません。少なくともその頃の俳壇事情について、また当時の杉田久女の置かれた位置や心境について、ある程度知っていなければこの手紙の意味するものは解らないと思います。

久女がこれらの手紙を虚子に出したとされる昭和9年は、久女の才能が全開したといわれている時期ですが、昭和8年、昭和9年と二度の上京をして師の虚子に序文を懇願しても、虚子は序文を与えず、出版広告まで出た句集出版を久女の意志で中止したとされている年です。

久女にすれば、いくら考えてみても敬慕する師、虚子から序文を貰えない理由が判りませんでした
。それで妥協の出来ない一途な性格の久女は、「国子の手紙」にみられるような尋常ではない身もだえする様な凄まじい手紙を、虚子あてに書く様になったのだと思います。

この様な手紙を受け取った虚子は、久女がこんな手紙を書くようになった理由は判っていたはずですが、それでも序文を与えることは決してしませんでした。そればかりか、彼女から来たこれらの手紙を〈これはおかしい、尋常ではない〉とし、散逸させずにとりのけていた様です。

久女の本音が臆面もなく出ている、泣訴、哀願、強訴
のこれらの手紙を〈これはおかしい、尋常ではない〉として、とりのけておくという虚子の心の動きを、私は非常に興味深く思います。なぜ弟子の久女がこの様な手紙を書くようになったのかと考える心というか、そういうものは、虚子の中には全くなかったようです。

田辺聖子さんはその著書『花衣ぬぐやまつわる...』のなかで、〈虚子のある種の「おそろしさ」を、久女は知らずに虚子に憧れ、虚子の愛顧するものを羨んだのである。私は久女の世間知らずというか、ある種の無智を、哀れまずにはいられない〉と書いておられます。私も同感です。

次回は創作「国子の手紙」の内容について少し触れてみようと思います。

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俳人杉田久女(考) ~本当の久女の箱根丸見送り風景~(78)

2016年10月21日 | 俳人杉田久女(考)

久女の箱根丸見送り風景については、北九州市在住の増田連さんが、著書「杉田久女ノート」の中で詳しく検証されています。この本は杉田久女研究書として、久女の長女、石昌子さんの書かれたものとともによくまとまった労作で、足を使って調査研究した本であるとの評価を今日受けています。
<増田連著『杉田久女ノート』>

著者の増田氏は虚子の『渡仏日記』、日原方舟が俳誌『無花果』4月号に載せた「舟・人・梅」という文章、矢上蛍雪の書いた「門司の虚子先生」、久女の弟子で、久女が指導していた俳句サークル小倉白菊会々員の縫野いく代さんを直接取材した話から、この時の久女の行動を追っておられます。


綿密に調べた結果、箱根丸見送り時の久女の行動は(63)の記事にある通りでした(私は(63)の記事を『杉田久女ノート』を参考に書いています)。

◎ 久女一行が小舟で出帆を見送ったという事実はない。出航時間が来たので皆で岸壁から見送ったと、この時一緒だった久女の弟子の縫野いく代さんがそれを証明している。

◎ 帰路は虚子の『渡仏日記』から、門司に寄港していないことを突き止めた。虚子の文章は全くの虚構である。

◎ 虚子が「一字も読めなかった」という色紙については、矢上蛍雪が「虚子たのし 花の巴里へ 膝栗毛」という短冊(虚子は色紙と言っているが)の存在を彼自身の文章の中で認めている。何故虚子だけが一字も読めなかったのか。

と結論付けておられます。この様に虚子が「墓に詣りたいと思ってをる」で述べている内容は、
事実と大きく違っています。なのでこの一文の箱根丸見送り事件に関する部分は、今日、高浜虚子の虚構文であると指摘されています。

私は久女が異常な行動をしたかの如く読者に印象付けるために、虚子は嘘を書いてまで、こんな文章を発表したのだと思います。

その目的は(76)の記事でも書いた様に、虚子自身が勧めて俳誌『玉藻』を主宰させた
愛娘の星野立子が、実力ある俳人杉田久女の影に隠れてしまうのを恐れた為に除名したという、虚子の胸の内だけにある久女除名の本当の理由を、彼は公言できないのは当然でしょう。ですから同人除名処置を、久女の異常性格、狂気にからめて正当化しようとする意図があったのではないでしようか。

この「墓に詣り度いと思ってをる」という文章は、発表された当時は虚子のねらい通り、久女の側に一方的に非があるように思われていましたが、時が経つに従って、それが事実ではないことを示す証言や資料が現れると、逆に高浜虚子側の問題点を浮き彫りにするようになりました。

高浜虚子が久女を同人から除名した理由を最後まで明らかにしていない為、増田連さんの『杉田久女ノート』が出版されるまでは、箱根丸見送り時の久女の行動が、虚子の癇に障り、同人除名という処置になったのだろう、という推測がなされていました。

がしかし、『杉田久女ノート』にあるように、事実が大きく歪められているため、この箱根丸見送りにおける久女の行動が同人除名の真の理由ではないことは明らかです。

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俳人杉田久女(考) ~高浜虚子が書く久女の箱根丸見送り風景~(77)

2016年10月20日 | 俳人杉田久女(考)

前回(76)の記事で書いた様に、久女の師、高浜虚子は彼女の死後10か月後に自身が主宰する俳誌『ホトトギス』に「墓に詣り度いと思ってをる」という不思議な一文を載せました。
<高浜虚子 1874-1959>

この文中で虚子は、久女の
「常軌を逸して手がつけられない振る舞い」や「狂気説」を人々に印象付け、どこが「常軌を逸して手がつけられない」かを、虚子らしい執拗さで描き出しています。

(63)で書いた様に、久女は昭和11年2月にヨーロッパに渡航する虚子を日本での最後の寄港地、門司港で見送りました。虚子は「墓に詣り度いと思ってをる」の文中で、この時の久女のことに触れています。

それは<最後に久女さんに会った時のことを思い出してみよう>で始まり、<
出航時間が来て、虚子の乗った船が門司港を出港する時、「虚子渡仏云々」と書いた旗を立てた一艘の小舟が近づいて来た>と続きます。<その小舟には女性達が満載され、その先頭に立つ久女は、女達とともに千切れるほどに自分に向かって白いハンカチを振った。女性達は久女の弟子達であった>

甲板にいる虚子に船客の視線が向けられるなかで、その小舟は汽船に遅れないでいつまでも付いて来た。<私は初めの間は手をあげて答礼していたが、その気違いじみている行動にいささか興がさめて来たのでそのまま船室に引っ込んだ>と書いています。

これが高浜虚子が書く、久女の箱根丸見送り風景です。

帰国の際も門司港に寄港したが、人々に迎えられて自分が上陸した後に、久女は何度も訪ねて来て、機関長に面会を求め、「何故に私に逢わしてくれぬのか」と泣き叫んで手の付けられぬ様子であったという。その時久女が書いた色紙を機関長が自分にみせた。<乱暴な字が書きなぐってあって一字も読めなかった>と記しています。

久女の箱根丸見送り風景については、北九州市在住の増田連さんが、著書「杉田久女ノート」の中で詳しく検証されています。次の記事でこの本について見てみましょう。

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俳人杉田久女(考) ~「墓に詣り度いと思ってをる」について~(76)

2016年10月15日 | 俳人杉田久女(考)

昭和21年1月の久女の死から10ヶ月程しか経ってない昭和21年11月に、久女の師高浜虚子は自身の主催する俳誌『ホトトギス』に、不思議な一文「墓に詣り度いと思ってをる」という文章を載せています。

この文章は二つの部分から成っていて、前半は久女、後半は尾形余十という俳人の死を悼む形になっています。二人を並べていますが、虚子のねらいは久女にあるのは明らかです。
<高浜虚子 1874-1959>

久女の長女昌子さんには、母、久女から託された、句集を出版するという大きな仕事がありました。母の師、高浜虚子へ母の死を知らせると、折り返し悔やみの手紙が届き、そこには「悼句でも出来たら差し出したいと思っている」との言葉がありました。 その言葉は昌子さんを力づけ、「もしかすると悼句で句集を飾って頂けるかもしれない」という希望が湧き、恭順な手紙を虚子に出させることになったようです。

その昌子さんからの手紙を、虚子は「墓に詣り度いと思ってをる」の冒頭で、<ここに一つの手紙がある。それは杉田久女さんの娘さんからの手紙である>という書き出しで紹介しています。

長くなるのでその手紙は書き写しませんが、昌子さんはその手紙の中で虚子に心を許し、「母は病気でありました」、そして「我儘で手が付けられない」と見ていましたなどと、母の師、高浜虚子を信じればこその打ち明け話を書いています。

もし母が虚子の不快をかったことなどあれば、病気の為と許してほしいとの気持ちを込めてこう書いたのでしょう。

が、高浜虚子はその昌子さんの言葉に言いかぶせたと思われる、次の様な妙なことを書きました。<この手紙にあるように、或る年以来の久女さんの態度には誠に手が付けられぬものがあった。久女さんの俳句は天才的であって、或時代のホトトギスの雑詠欄では特別に光り輝いていた。其れがついには常軌を逸するようになり、いわゆる手がつけられぬ人になってきた>と。

田辺聖子さんは著書「花衣ぬぐやまつわる...」の中で、高浜虚子がこう書いたことで、常軌を逸した久女のイメージが固定化し、久女伝説のあらゆる現象はここに胚胎していると思っていると書いておられます。私も全く同感です。

娘の昌子さんが母を「我儘で手が付けられない」というのと、虚子が「常軌を逸して手がつけられない」というのとでは、まったく意味が違うと思います。

娘が母をかばって身内的謙遜をするのと、高浜虚子が断定するのとでは質がまったく違います。私はそのことを虚子は判っていて、言いかぶせたのだと思います。

上にある様に、この短い文章の中で虚子は、「手がつけられない」という言葉を2回使っています。「常軌を逸して手がつけられない振る舞い」、「狂気説」を人々に印象付け、同人除名の理由を明かさぬまま、人々に久女が狂っていたとの風説が浸透するのをねらった様に感じます。

「墓に詣り度いと思っておる」は前半には上の様なことが書いてあり、その後に虚子らしい執拗さで、最後に久女に会った箱根丸での見送り風景を書いています。この部分は今日、高浜虚子の明らかな虚構文であると指摘されています。

次は虚構文であると指摘されている、箱根丸見送り風景を書いた部分を見ていきましょう。

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