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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~死してなお~(75)

2016年10月07日 | 俳人杉田久女(考)

死によって、久女の悲しみ、痛苦、憤怒、その他の抑えがたい感情は消え、魂は天上に還りました。普通なら「棺覆て人定まる」で、その死によってすべてが終わるのですが、久女を襲った悲劇は、死してなおも続きました。

久女の師高浜虚子は、弟子久女の死後、彼女に関する文章をいくつか書いています。それらを書かれた順に並べると、下の様になります。

  ① 「墓に詣り度いと思ってをる」 (『ホトトギス』昭和21年11月号)

  ② 「国子の手紙」」 (『文体』昭和23年12月号)

  ③ 『杉田久女句集』序文 (昭和27年10月)

昭和11年10月に久女を『ホトトギス』から除名した高浜虚子は、彼女の死後も死者に鞭打つように、久女叩きとも受け取れる上の様な文章を発表し、何故これほど久女にこだわり続けたのでしょうか。

私は、虚子は
久女の想い出として上の文章を書いたのではなく、周りに明らかに出来ない、ある明確な目的のもとにこれらの文章を書いたのだと思います。

高浜虚子が書いたこれらの文章をもとに、昭和28年には松本清張が小説『菊枕』を、
昭和39年には吉屋信子が『底の抜けた柄杓(杉田久女)』を出版し、それから孫引きされたと思われる様々なゆがめられた久女に関する文章が発表されました。

誇張された噂や想像は久女像を歪め、いつしか久女=エキセントリックというイメージが出来上がっていき、歪曲された久女像を決定的なものにしたようです。現在でも久女を紹介する一文に高浜虚子が書いたこれらの文章から言葉を抜き出したり、そのイメージをそのまま伝えたりしているものが数多く見られます。

高浜虚子の上の3つの文章は、当時はそのまま人々に受け入れられた様ですが、後に真実が浮かび上がって来て、今日では①と③の文章の一部については高浜虚子の捏造が明らかになっています。

②は創作と虚子は言っていますが、久女が虚子宛に出した昭和9年の手紙で構成されていて、それの幾つかに虚子が短い解説を加えるという形式で、とても創作とはいえない奇妙な作品です(この作品は現在高浜虚子全集第7巻小説集3に納められています)。

では、①の「墓に詣り度いと思ってをる」という文章にはどの様なことが書いてあるのでしょうか。次はこれを見てみましょう。

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俳人杉田久女(考) ~終焉~(74)

2016年10月02日 | 俳人杉田久女(考)

戦局がいよいよ激しさを増し、敗色しのび寄る昭和19年から20年にかけて、物資が次々に消えていき、都市生活者は空襲に怯えて生きるのに精一杯の頃、傷ついて塞ぎ込みながら過ごしていた久女に手を差し伸べる余裕など、周りの誰にもありませんでした。

田辺聖子さんの著書『花衣まつわる...』の中には〈久女は終戦になった8月の少し前あたりから家事を投げやりにして、じっと籠るようになった。宇内が咎めると、支離滅裂な返答をした。〉とある様に、何かが彼女の中で崩れていったのでしょう。

が、すぐそのあとで田辺さんはこうも書いておられます。夫、宇内が問う住所も計算も確かであったと。

終戦になっても久女の行動は収拾のつかないままで、宇内も彼女をどうしたらいいのか、もてあます様になった様です。思いあまって医師の教え子に相談すると、その教え子は筑紫保養院で診察を受け、場合によっては入院させることをすすめたそうです。
筑紫保養院は太宰府にあり、いわゆる精神病院でした。

田辺さんは著書の中で、〈久女はこの時、「私は悪いことは何もしていない。そんなところへやらないで」と宇内に哀願したそうである。宇内はその教え子に頼んで麻酔薬を打ってもらい、眠らせて毛布にくるんで病院へ連れて行った〉と記しています。昭和21年10月29日のことでした。

麻酔から目覚めた時、病院の中にいるわが身を知って久女は愕然としたに違いありません。それから約3か月の入院後、昭和21年1月21日に栄養失調からくる腎臓病悪化により亡くなりました。56歳でした。

臨終には夫、宇内は間に合わず、久女の俳友でもあった合屋武城ただ一人が立ち会ったと伝えられています。宇内が臨終に間に合わなかったことにつき、宇内の悪口を言う人もいるようですが、終戦直後の交通事情を考えると仕方がないことだったと思われます。

その日の夜、宇内と合屋武城と二人で、病院の一室で通夜をしたそうです。二人の男性は何を語り合ったのでしょうか。死者の枕元には梅の花が一輪供えられていました。

久女関連の本を読んでいて最近知りましたが、合屋武城は自身の『垚句集』という句集で、この通夜の時のことを下の様に詠んでいるそうです。

昭和21年1月21日、杉田夫人久女々史死去通夜という前書きがあり

      「 燭光の ゆれて更け行く 夜寒かな 」

      「 枕頭に 梅折り挿して 拝みけり 」

      「 寝棺守り 追憶つきぬ 夜寒哉 」

      「 トボトボと 霜の小径を 火葬場へ 」

合屋武城はもと小倉中学の宇内の同僚で、宇内と家族ぐるみの交際をした人でした。久女もまた温和な合屋の人柄に親しんで、「 童顔の 合屋校長 紀元節 」という俳句を作っているくらいの間柄でした。

「こんなに早く死ぬのなら、家で最後まで看取って死なせてやるのだった」と後に久女の夫、宇内は、長女昌子さんに告白したそうです。

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俳人杉田久女(考) ~最晩年~(73)

2016年09月27日 | 俳人杉田久女(考)

久女年譜によると、大東亜戦争がますます激しさを増していく昭和19(1944)年7月に久女は実母、赤堀さよを亡くしました。90歳だったそうですから天寿をまっとうしたといえるでしょう。

その葬儀の為に上阪。葬儀後に上京し鎌倉に住む、夫が出征中の長女昌子さん宅を訪ねています。

久女は諦め切った境地にあったようで、いつになく焦りも消えて落ち着いていたのは昌子さんにとって意外に感じられる位でした。穏やかで子供と優しく遊んでくれたそうです。

しかし昌子さんは、久女が生きる喜びの俳句を奪われてしまったことを知っているので、俳句への未練を断ち切れず、まだ断末魔の苦しみがあとを引いているとも感じたようです。また久女は整理した句稿をこの時も肌身離さず持って来ていたとも書いておられます。

「何が一番つらい?」と聞いた昌子さんに、久女はお父さん(夫、宇内)が毎日、「貴方のような人は虚子さんでさえ愛想をつかすでしょう」と大声で言いつのるのが、一番つらいと答えたそうです。除名直後からずっと夫にこの様な言葉をあびせられ、ただでさえ生き難い終戦間際のこの時期の久女の日常
を思うと、これを読む私まで胸が苦しくなってきます。

久女は、「俳句より人間です」「私は昌子と光子の母として死んでゆこうと思う」「子供を大切に育てなさい」などとポツポツと話し、「句集も、こんな世になっては出せる望みもないから、仕方ないと思う。だけど私がもし死んでからでも、機会があったら、きっとだしてほしい。いいね、忘れないでね。死んだ後でもいいから」と長女昌子さんに言い残し、この言葉が遺言になりました。

その夜は
何年振りかで母娘が枕を並べて眠りました。このひと時は久女には得難い平安であったであった様に思われます。

そして大島紬のモンペの上下を着て小倉へ帰って行ったのが強く記憶に残っていると昌子さんは記しておられます。この時が母、久女と長女昌子さんとの永遠の別れになりました。

この頃の夫、宇内は空襲警報が出ればその都度夜間でも学校に駆けつけなければならず、久女は一人風呂敷包みの句稿を抱え防空壕へ避難する日々だったようです。句稿はこれまでの久女の生命をかけた確かな証、軌跡と言えるものでした。

終戦直前で明日の命の保証も無い中、久女にとっては、もはや身の回りの品々への執着などはなく、大切なものはただ一つ、自らの腕の中の句稿のみでした。

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俳人杉田久女(考) ~晩年~(72)

2016年09月24日 | 俳人杉田久女(考)

久女が句稿の整理をした翌年の昭和15(1940)年に、彼女は自身を俳句に導いてくれた実兄の赤堀廉行を亡くしました。

そしてその翌年の昭和16年10月には久女の次女光子が結婚し、結婚式に上京、この時鎌倉在住の長女昌子さん方に泊まったようです。『杉田久女句集』の最後には昭和17年光子結婚式に上京 三句 の前書きがあり、次の3句が置かれています。

      「 歌舞伎座は 雨に灯流し 春ゆく夜 」

      「 蒸し寿司の たのしきまどい 始まれり 」

      「 鳥雲に われは明日たつ 筑紫かな 」

この3句は研究者を悩ませているようです。というのは、実際は次女光子の結婚は昭和16年10月なのに句には昭和17年の前書きがあること、句には「春ゆく夜」となっているのに結婚式は10月だったなどです。なので、この3句は次女光子の結婚の折に詠まれた句ではないとしている研究書も多々あるようです。

二人の娘が片付いた昭和16年の秋には久女は母としての務めも終わり、同人除名という痛手を負い、生きる希望もないと言いながらの日々であったとしても、気持ちにホッとしたものもあったでしょう。

除名後の苦しい胸のうちを誰に話すすべもなく、泣き言を言うことも嫌いな久女は、自身の句や身辺の整理をする一方、考え出すと苦しいので、思ったことを吐き捨てる様に書くと、少し気が鎮まると昌子さんに話したそうです。

翌年の昭和17年には夫、杉田宇内の父杉田和夫が亡くなり、その後しばらく夫の郷里松名で過ごしました。

昭和18(1943)年頃から大東亜戦争がますます苛烈になり、空襲警報が鳴ると夫は学校に警備に出かけて行き、久女は大切な句稿を風呂敷に包んで抱え、一人で防空壕でうずくまっていたようです。

配給だけの生活ながら、時折卒業生が野菜などを届けてくれると、この頃の年譜にあります。


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俳人杉田久女(考) ~句稿の整理~(71) 

2016年09月21日 | 俳人杉田久女(考)

年譜によると『俳句研究』の昭和14(1939)年7月号に、久女は「プラタナスと苺」として42句をのせています。これらの句はその前月に上阪して宝塚に住む実母を訪ね、1ヶ月程滞在した時に得た句です。下の句はその42句の中にあるものです。

      「 つゆの葉を かきわけかきわけ 苺摘み 」

      「 朝日濃し 苺は籠に つみみてる 」
 
この42句が久女が発表した最後の句である、としている研究書が多い様ですが、この年(昭和14年)の8月から9月にかけて、久女は集中的に過去の句稿を整理しています。句を清書
しながら、思い浮かんだ事も一緒に書き込んだようです。

同人除名から約3年経ったこの時期に、なぜ句稿の整理をしたかということですが、師の虚子に何度序文懇願をしても序文が貰えないことや、また上京しても虚子に会うことも叶わなかったことから、この頃までに久女は同人復帰の可能性も、虚子の序文も絶望的であると、
 ハッキリ悟ったと考えられます。

研究書によると、整理した句稿の所々に清書した日付けが記されていて、それによると昭和14年8月28日、29日、30日、9月5日、11日、16日、17日とあるそうで、昭和14(1939)年の8月から9月にかけて集中的に清書を進めていたことがわかります。

整理された句稿は116枚あり、巻紙を約30㎝から50㎝位に切って右肩をコヨリで綴じてあり、久女独特の達筆で雄渾な文字の句が並んでいるのだそうです。下は私の手元にある『杉田久女遺墨』の中にある整理された句稿の写真を写しました。
<整理された句稿>

句を清書しながら、思い浮かんだことも書き込んだようですが、病気が治り健康を与えられ、子供が立派に成長したことを神に感謝し、天から授かった作品をまとめておくために、百十六枚の句稿を清書したことが記されていて、句集出版のことには全く触れず、悲運を恨む言葉は一つもなく感謝と久女の満ち足りた思いがつづられているのだそうです。

私は平成23年に北九州市で催された「花衣 俳人杉田久女」展でこの句稿の一部を見ましたが、虚子のいう様に決して〈乱雑に書き散らされたもの〉ではないのは明らかでした。ガラスケース越しでしたので内容を細かに読むことは出来ませんでしたが...。

全句を清書する作業を終えた日に、最後の書き込みとして〈之全く神の御護りと感謝してここに百十六枚の俳句を全部清書し、つつしみて父母の大恩に。まづはここ迄われ自らをすてえざりし二女の為に心から喜びきよらかなゆたかな平和な心でこの稿を終る〉とあるそうです。

この116枚の句稿は、久女の長女石昌子さんがずっと大切に手元で保管されていましたが、現在は北九州市小倉北区にある久女ゆかりの圓通寺に寄贈されています。

句集としての体裁を整えられなかったけれど、自らの俳句をまとめ記録を残しておくという決意表明は、自身の作品の永遠の価値を確信するとともに、久女の俳人としての遺言状ともいえるものだと思います。

そしてこの句稿を清書し終えた時に、久女は『ホトトギス』と俳句から訣別したのではないでしょうか
。この時久女49歳でした。

次第に
戦争が激しさを増していきますが、この時期の久女の唯一の楽しみは、整理をした句稿の原稿をひもとくことだったように思われます。

戦争が苛烈になり空襲に度々見舞われるような時期になった時でも、久女はこの自身の句稿を大切に抱えて防空壕に避難したと言われています。


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