久女年譜を見ると、昭和3(1928)年頃から数多くの句が生まれ、女性俳句の研究に意欲的に取り組み、数々の句会、俳句大会などに出席と、時間の多くを俳句関係のことに使っていることから、この頃から低迷時代を抜け出て、久女に以前とは違った俳句に対する境地が生まれて来たのではないかと思います。
「如月の 海をわたりし 句会かな」
「春襟や ホ句会つづく この夜ごろ」
昭和4年4月には自身を俳句に導いてくれた次兄月蟾を亡くしました。3年前には姉、静子を亡くしているので、俳句は久女にとって命とも兄弟とも言えるものになっていたのでしょう。
この頃から、久女が句会、俳句大会などに度々出席し家を空けることが多くなったことについて、夫、宇内は以前の様に干渉したり、反対したりはしなかったのでしょうか。
作家の田辺聖子さんは、著書『花衣ぬぐやまつわる.....』(上)の中で、〈私の想像では、宇内という男性は、ともに棲む相棒が(女に限らないと思う)何かに打ち込んで昂揚しているときは、ひるんで慴伏し、委縮して矛をおさめ、もし相棒が気落ちして悄然としている時は猛然と攻撃に転じるというタイプではなかったかと思う。久女がこの時期、気力充溢しているので、宇内は口をつぐんでいたのであろう〉と書いておられます。
その通りかもしれませんが、二人の娘さんが成長し家事も少し手助け出来る様になるなどの環境の変化で、以前よりは出掛けやすくなったと言えるかもしれません。
それに加えて、久女が中央でも名が通るようになり、俳句に対する周りの評価などが、宇内の口をつぐませていたのかもしれないと思ったりもします。
又、同じ著書のなかで、田辺さんは〈久女俗説では彼女は家事をかえりみない悪妻ということになっているが、宇内は彼女の作る食事をこの上なく好んだふしがある。およそ享楽気分のない男で、教条が服を着たような、硬直した人生観の持ち主であったが、宇内の楽しみの一つは若い時から久女の手料理だった〉と書いておられます。
私も何かで読んだ記事ですが、宇内は久女が作るタンシチューを好んだと書いてあったのを思い出しました。明治の終わりから昭和の始め頃の話ですから、それは彼女がお茶の水高女で教わった、お洒落な洋風料理の一つだったのかもしれませんね。
この頃の久女は俳句に意欲がみなぎり、普段は煩わしい家事も手短にこなし、時々は宇内の好きな料理もつくり、外出が多い割に破調をきたさずに、日常をやりこなしていたのでしょう。
この頃の久女年譜を見ると、彼女の俳句に割く時間の多さに驚きます。久女は女中もなしにと度々書いていますが、それで健康は保てたのか心配になる反面、「よくやってくれた」と拍手をおくりたい気持ちにもなります。
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