日々の暮らしに輝きを!

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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

「熟女会」

2016年05月19日 | つれづれ

サークル内の仲良しグループ4人で時々お喋り会をする。

50代から70代までの4人。

世代が少しづつ違うのが又いい。


誰言うともなく「熟女会」という名称に。

家族の話。

地域の情報交換や、少し前の世界卓球テレビ観戦の話。

福原愛選手の話。

自分が住む町の昔話。

古い地名の話。

話題は尽きることなく延々と3時間以上。

お店の外に出ればフッと薔薇の香り。

これからも、みんな元気で『熟女会』を続けたい。


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俳人杉田久女(考) ~昭和9年、10年の久女~(59)

2016年05月17日 | 俳人杉田久女(考)

今まで見て来た様に、昭和9(1934)年の久女は、俳句作家として才能が全開した時期で、句集出版の志を持ち、師の高浜虚子に序文を懇願すれども得られず、心の中に悶々としたものを持ちながらも俳誌『かりたご』などに多くのエッセーを書き、また3度目の『ホトトギス』巻頭を得た時期です。そしてこの年にホトトギス』同人となっています。

昭和21(1946)年1月の久女の死から約2年半後に、高浜虚子は昭和9年に久女から来たという手紙をもとに、『国子の手紙』という不思議な奇々怪々な小説を発表します。この小説の中では国子=久女なのですが、『国子の手紙』の中に見られる久女の姿は、何も知らない人が読むと、常人離れしてただならぬ姿です。

しかし、彼女が同じ頃に書いたエッセーは、「水温む」、「蕗莟む」、「鶴料理る」、「万葉の手古奈とうなひ処女」「甕を掘る」「野鶴飛翔の図」などで、この中の幾つかは『久女文集』や『杉田久女随筆集』で見ることができますが、どれも簡潔、くっきり明晰で文章に乱れは全くありません。
<杉田久女随筆集>


なので、この頃(昭和9年頃)の久女の精神状態に異常があったとはとても思えません。虚子が『国子の手紙』の中でそう匂わせているにすぎません。

次の(60)、(61)の記事
で久女が昭和9年に書いたエッセー「鶴料理る」や 久女句集にある「鶴の句」について簡単にふれてみます。

『国子の手紙』については後で述べることにして、昭和10(1935)年の久女を年譜でみると、この年の記述は非常に少なくなっています。久女の長女、昌子さんの書いたものによると『ホトトギス』雑詠に8月号を境に入選しなくなったとの記述があります。

『ホトトギス』では入選しなくなっていましたが、『俳句研究』には

      「函を出て より添ふ雛の 御契り」

など、「雛十句」を発表しています。

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バイオリンおさらい会

2016年05月15日 | お出かけ

孫達のバイオリンおさらい会。

場所は南区のカフェ。

飲み物を頂きながら、孫達の日頃の成果をじっくりと。



皆で一緒に合わす機会はあまりなかった筈だけれど、

子供達のアンサンブルは、

かたちになっていた。



「カノン」はすばらしかった。

カノンは同じ旋律をパートに別れて、少しづつづらして弾いていく。


パッヘルベルのこの曲、

同じ旋律を繰り返しながら少しづつ響き合うようになって、

癒しの音楽になっていた。



20分のお休みの後も子供達の熱演が続き、

最後は先生の演奏でお開きに。

 透過済ヴァイオリンの画像(プリ画像)




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俳人杉田久女(考) ~高浜虚子について~(58)

2016年05月13日 | 俳人杉田久女(考)

ここで、久女の師高浜虚子について少し書いてみたいと思います。

高浜虚子は明治7(1874)年に四国松山で生まれました。正岡子規の弟子で、子規が友人とともに創刊した俳句雑誌『ホトトギス』を子規から受け継ぎ、東京に移転しました。虚子という号は子規から授けられたものです。
<高浜虚子 1874-1959>

虚子は最初小説を書いていましたが、河東碧梧桐の新傾向俳句運動が起きた頃から、俳句の創作と弟子の育成に力を注ぐようになり、彼の俳句作品と俳句観は多くの俳人の支持を受け、『ホトトギス』は一大俳句雑誌へと成長しました。

(6)で書いた様に久女が大正6(1917)年に東京の実家に里帰り中に、飯島みさ子邸の句会で初めて虚子に会ったのは、彼が俳句の創作と弟子の育成に力を注いでいた丁度この頃で、虚子44歳、久女28
歳の時でした。

その後虚子は、大正から昭和にかけての1920年代~1940年代に『ホトトギス』という巨大な結社を作り上げ、俳壇の最高の権威者として強いニラミをきかせ、又、戦後になっても、俳句界唯一の文化勲章の受賞者として君臨し続けました。

虚子の俳句の理念は、季語を重んじた伝統的な五七五調で、「花鳥諷詠」「客観写生」を旨としました。
 
虚子に関する本などに、彼の人となりとして
必ずと言っていいほど書かれているのは、彼が人一倍子煩悩であったということです。親が子を思うのは当然ですが、虚子の場合それが極端で、度はずれていました。周囲に「子供ほど可愛いものはない」などと公言し、骨肉の情愛がけたはずれで身内偏重であったと表現されています。

〈虚子の身内偏重は目にあまる思いがする。『ホトトギス』主宰者の位置を高弟ではなく、血がつながっているという理由だけで、息子の年尾に与えてしまったのもその証のひとつだろう。正岡子規が生きていたら、何と批判するであろうか〉と、こんな調子の文章がいくつも出てきます。

しかし、当時は誰一人として俳壇の最高権威者である虚子の身内偏重に異を唱える俳人はいなかったようです。

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俳人杉田久女(考) ~『ホトトギス』同人に~(57)

2016年05月12日 | 俳人杉田久女(考)

杉田久女は昭和9(1934)年6月に『ホトトギス』同人になりました。

久女が『ホトトギス』同人になった年月については、昭和7(1932)年1月と昭和9年6月の二説があるようですが、私は久女の長女昌子さん作製の久女年譜にある、昭和9年6月だと考えています。

昭和9年の5月に久女は3度目の『ホトトギス』雑詠巻頭を得ています。それは下の5句ででした。

      「雪颪(おろ)す 帆柱山冥(くら)し 官舎訪ふ」

      「生ひそめし 水草の波の 梳き来たり」

      「逆潮を のりきる船や 瀬戸の春」

      「磯菜摘む 行手いそがむ いざ子ども」

      「くゞり見る 松が根高し 春の雪」

(54)の記事で書いた様に、この年(昭和9年)の4月17日~28日に、久女は虚子に序文を懇願する為に再度の上京をしましたが、虚子は彼女に会うことさえせず、この時も序文を与えることをしなかったのです。この間の流れを書くと下の様になります。

昭和9年4月に虚子の序文を求めての再度の上京、虚子に会えず序文得られず
  ↓
5月に上の5句で3度目の『ホトトギス』雑詠巻頭を得る
  ↓
6月に『ホトトギス』同人になる

序文を書き与えることを絶対にしなかった弟子に、
なぜ虚子は雑詠巻頭を与え、更に同人にまでしたのか、ここのところが私には理解できません。私でもそうですから、久女にしても更に理解できず苦しんだのではと思います。

しかも、これから書いていきますが、わずか2年後の昭和11(1936)年10月に久女は同人を除名されるのです。非常に不思議な気がします。

見方によっては、同人にした時点で既に、虚子の心中に久女を同人除名する心づもりがあった様にも思えます。

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