二日市教会主日礼拝説教 2023年12月10日(日)
待降節第2主日
マタイによる福音書1章18~25節
五島のヨセフ
白髭牧師、退院してきましたが肺炎後の体調がまだ戻っていないので今回も昨年度のものを代議員さんに代読していただきました。
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
南米のペルーの12月は夏です。この時期海水温が急上昇することを、土地の漁師はこれをエルニーニョすなわち神の子と呼んできました。なぜなら鰹が大漁となるからで、彼らは御子の誕生のお祝いのプレゼントと考えたからです。
さて、本日の福音はマタイによる福音書1章18節から25節までで、「イエス・キリストの誕生」の物語でした。
ところで、本日の聖書のキーワードはインマヌエルです。23節に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と書かれていたそのインマヌエルです。ところで、本日の聖書ではインマヌエルという言葉が出てくる箇所がもう一つありました。それはイザヤ書です。
すなわち、イザヤ書7章14節にも「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と書かれていたからです。ところで、インマヌエルとはどういう意味かについては、今のマタイ1章の23節に書かれていました。すなわちインマヌエルとは「神は我々と共におられる」なのでした。
さて、本日の私たちは、このイザヤ書とマタイ福音書の双方からインマヌエルを考えると分かりやすくなると思われます。そこでまず、イザヤ書から考えます。預言者イザヤはアハズという王にインマヌエルを訴えました。王は軍事大国である隣国の脅威にさらされ気弱になっていたからです。だからこそインマヌエルだ、ひたすら主なる神を信じなさい。神は必ず救ってくださる。
しかし王はこう言いました。12節です。「私は神を試すようなことはしない」。つまり、苦しい時の神頼みみたいなことは出来ない。いかにももっともな言葉でしたが、イザヤは神の言葉を王に伝達し、王はそれを慇懃無礼(いんぎんぶれい)に断ったのですから、要するにインマヌエル、「神は我らと共に」を拒否していたのです。イザヤはそれを聞いて、「この国を神は捨てる」と預言したのでした。
さて、インマヌエルが聖書に出てくる第二の事例はマタイ福音書でした。その箇所、1章18節以下をもう一度読みます。ヨセフという男に、天使が夢で語りかけた言葉はこうでした。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。ところで、これを聞いた時点ではヨセフとマリアはまだ一緒にはなっていませんでした。ところがそのマリアが身ごもっていたのでした。こう書かれています。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。
ヨセフは考えられる限りの最も優しい配慮を彼女に対してしたのでした。ところが、この話を読んだ後世の人々は大誤解をしてしまいます。なぜなら、その人たちは「ヨセフは少しも腹を立てなかった」と理解したからです。
しかし、考えてみたいことは、ヨセフは本当に腹を立てなかったのかであります。さて、19節には「ヨセフは正しい人であった」とも書かれています。正しい人なら、腹も立てない、怒ったりもしないと人々は考えました。
しかし、それが本当なら、聖書の神は怒ったりもするが、それも正しくないのだろうか。それに、聖書は、人に怒りを禁じているのだろうか。
ところで、アメリカにケネス・ベイリーという聖書学者がいます。彼は、今私たちが見ているマタイ1章20節の「このように考えていると」という言葉を取り上げて、この「考える」と翻訳されたギリシア語の動詞には、たしかに「考える」という意味があるのだが、あともう一つ「腹を立てる」という意味もあると書いていました。つまり、翻訳する人はどちらかを選ぶのですが、これまで殆どの翻訳者が「考える」を選んできたのであると言うのでした。しかし、ここは「腹を立てる」と訳すことも出来るのだ。ベイリーは言います。このような話の文脈であれば、ヨセフが腹を立てたことにするのが妥当なのではないだろうか。
さて、ベイリーの考えは大いに参考になります。なぜなら、ヨセフがマリアの妊娠を知っても平然としていたよりも、ものすごく腹を立てた、激怒したとするほうが、しかし彼はそれを克服したと言う意味のほうが、彼の人間性のスケールを思わせてくれるからです。
ところで最後に、インマヌエルをめぐっての二人の男のことを考えてみると、アハズ王はインマヌエルを拒否したために国ごと滅ぼされたのに対して、ヨセフはインマヌエルを受け入れ、マリアを守り、その結果、神の子の誕生という筋道までつけたのでした。しかし、それにしてもこの男は何と物静かなことか、クリスマス物語でヨセフがしゃべるシーンは一つもないからです。
ところで、話は変わりますが、私はツアーで長崎の五島を旅したことがあります。いくつもの教会をめぐったのですが、びっくりさせられることがありました。五島の教会、今はカトリックですが、カトリック教会の会堂には聖母子像の彫刻が安置されていることは珍しくはありません。ところが、五島の教会では聖母子像に替えて、その聖母が男性のヨセフになっていて、その彼が幼子を抱いている彫刻が珍しくなかったからです。
あとで考えたのですが、それは五島だけの話ではないのか。というのも、五島の教会の建物はすべて明治以降に造られましたが、建築資金は島の信徒たちの手になり、彼ら彼女らはその設計段階で、聖ヨセフの像を会堂に置くことを強く希望した。そのように思ってみたいのであります。
なお、調べて分かったことは、教会のヨセフ像は、中田秀和という郷土の美術家が掘ったのでした。ある時五島を旅した女性がこう書いていました。あのヨセフは海で働く男たちがモデルだったに違いない。
以上、本日はマリアの話ではありませんでしたが、クリスマスには、たまにはヨセフにスポットライトを当ててみてはと思うのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週12月17日 待降節第3主日
説教題:クリスマスツリーの謎
説教者:白髭義 牧師
12月24日はクリスマスイブのコンサートがあります。
開演 12月24日(日)6時30分~
出演 女声合唱団 クール・クール
入場無料 どなたもおいでください
待降節第2主日
マタイによる福音書1章18~25節
五島のヨセフ
白髭牧師、退院してきましたが肺炎後の体調がまだ戻っていないので今回も昨年度のものを代議員さんに代読していただきました。
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
南米のペルーの12月は夏です。この時期海水温が急上昇することを、土地の漁師はこれをエルニーニョすなわち神の子と呼んできました。なぜなら鰹が大漁となるからで、彼らは御子の誕生のお祝いのプレゼントと考えたからです。
さて、本日の福音はマタイによる福音書1章18節から25節までで、「イエス・キリストの誕生」の物語でした。
ところで、本日の聖書のキーワードはインマヌエルです。23節に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と書かれていたそのインマヌエルです。ところで、本日の聖書ではインマヌエルという言葉が出てくる箇所がもう一つありました。それはイザヤ書です。
すなわち、イザヤ書7章14節にも「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と書かれていたからです。ところで、インマヌエルとはどういう意味かについては、今のマタイ1章の23節に書かれていました。すなわちインマヌエルとは「神は我々と共におられる」なのでした。
さて、本日の私たちは、このイザヤ書とマタイ福音書の双方からインマヌエルを考えると分かりやすくなると思われます。そこでまず、イザヤ書から考えます。預言者イザヤはアハズという王にインマヌエルを訴えました。王は軍事大国である隣国の脅威にさらされ気弱になっていたからです。だからこそインマヌエルだ、ひたすら主なる神を信じなさい。神は必ず救ってくださる。
しかし王はこう言いました。12節です。「私は神を試すようなことはしない」。つまり、苦しい時の神頼みみたいなことは出来ない。いかにももっともな言葉でしたが、イザヤは神の言葉を王に伝達し、王はそれを慇懃無礼(いんぎんぶれい)に断ったのですから、要するにインマヌエル、「神は我らと共に」を拒否していたのです。イザヤはそれを聞いて、「この国を神は捨てる」と預言したのでした。
さて、インマヌエルが聖書に出てくる第二の事例はマタイ福音書でした。その箇所、1章18節以下をもう一度読みます。ヨセフという男に、天使が夢で語りかけた言葉はこうでした。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。ところで、これを聞いた時点ではヨセフとマリアはまだ一緒にはなっていませんでした。ところがそのマリアが身ごもっていたのでした。こう書かれています。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。
ヨセフは考えられる限りの最も優しい配慮を彼女に対してしたのでした。ところが、この話を読んだ後世の人々は大誤解をしてしまいます。なぜなら、その人たちは「ヨセフは少しも腹を立てなかった」と理解したからです。
しかし、考えてみたいことは、ヨセフは本当に腹を立てなかったのかであります。さて、19節には「ヨセフは正しい人であった」とも書かれています。正しい人なら、腹も立てない、怒ったりもしないと人々は考えました。
しかし、それが本当なら、聖書の神は怒ったりもするが、それも正しくないのだろうか。それに、聖書は、人に怒りを禁じているのだろうか。
ところで、アメリカにケネス・ベイリーという聖書学者がいます。彼は、今私たちが見ているマタイ1章20節の「このように考えていると」という言葉を取り上げて、この「考える」と翻訳されたギリシア語の動詞には、たしかに「考える」という意味があるのだが、あともう一つ「腹を立てる」という意味もあると書いていました。つまり、翻訳する人はどちらかを選ぶのですが、これまで殆どの翻訳者が「考える」を選んできたのであると言うのでした。しかし、ここは「腹を立てる」と訳すことも出来るのだ。ベイリーは言います。このような話の文脈であれば、ヨセフが腹を立てたことにするのが妥当なのではないだろうか。
さて、ベイリーの考えは大いに参考になります。なぜなら、ヨセフがマリアの妊娠を知っても平然としていたよりも、ものすごく腹を立てた、激怒したとするほうが、しかし彼はそれを克服したと言う意味のほうが、彼の人間性のスケールを思わせてくれるからです。
ところで最後に、インマヌエルをめぐっての二人の男のことを考えてみると、アハズ王はインマヌエルを拒否したために国ごと滅ぼされたのに対して、ヨセフはインマヌエルを受け入れ、マリアを守り、その結果、神の子の誕生という筋道までつけたのでした。しかし、それにしてもこの男は何と物静かなことか、クリスマス物語でヨセフがしゃべるシーンは一つもないからです。
ところで、話は変わりますが、私はツアーで長崎の五島を旅したことがあります。いくつもの教会をめぐったのですが、びっくりさせられることがありました。五島の教会、今はカトリックですが、カトリック教会の会堂には聖母子像の彫刻が安置されていることは珍しくはありません。ところが、五島の教会では聖母子像に替えて、その聖母が男性のヨセフになっていて、その彼が幼子を抱いている彫刻が珍しくなかったからです。
あとで考えたのですが、それは五島だけの話ではないのか。というのも、五島の教会の建物はすべて明治以降に造られましたが、建築資金は島の信徒たちの手になり、彼ら彼女らはその設計段階で、聖ヨセフの像を会堂に置くことを強く希望した。そのように思ってみたいのであります。
なお、調べて分かったことは、教会のヨセフ像は、中田秀和という郷土の美術家が掘ったのでした。ある時五島を旅した女性がこう書いていました。あのヨセフは海で働く男たちがモデルだったに違いない。
以上、本日はマリアの話ではありませんでしたが、クリスマスには、たまにはヨセフにスポットライトを当ててみてはと思うのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週12月17日 待降節第3主日
説教題:クリスマスツリーの謎
説教者:白髭義 牧師
12月24日はクリスマスイブのコンサートがあります。
開演 12月24日(日)6時30分~
出演 女声合唱団 クール・クール
入場無料 どなたもおいでください