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音曲日誌「一日一曲」#456 ザ・プリティ・シングス「Rosalyn」(Fontana)

2024-07-05 07:59:00 | Weblog
2024年7月5日(金)

#456 ザ・プリティ・シングス「Rosalyn」(Fontana)




ザ・プリティ・シングス、1964年5月リリースのシングル・ヒット曲。ジミー・ダンカン、ビル・ファーリーの作品。

英国のロックバンド、ザ・プリティ・シングスは63年ケント州シドカップにて結成された5人組だ。

当初のメンバーはリードボーカル、ハープのフィル・メイ、リードギターのディック・テイラー、リズムギターのブライアン・ペンドルトン、ベースのジョン・スタックス、ドラムスのピート・キトリー。ドラムスはその後ヴィヴ・アンドリュースに代わるなど、わりと流動的であった。

そのバンド名は、米国のシンガー、ボ・ディドリーの1955年のヒット曲「Pretty Thing」(ウィリー・ディクスンとの共作)からとっている。初期は純粋なR&Bバンドで、ボ・ディドリー、チャック・ベリー、ジミー・リード、タンパ・レッドらのカバーのほか、彼らのオリジナルR&B曲をレパートリーとしていた。

バンド結成以前の歴史を紐解くと、なかなか興味深いものがある。その前身は62年結成のリトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルーボーイズで、メンバーにはテイラー(1943年1月生まれ)やシドカップ・アート・カレッジの同級生、キース・リチャーズ、ミック・ジャガーらがいたのだ。

その後62年6月、ブライアン・ジョーンズがバンドメンバーを募集していた時、上記の3人が参加してローリング・ストーンズが結成された。ギタリストが多かったのでテイラーはベースに転向したが、結局脱退することになる。

ロンドンのデザイン学校に入ったテイラーは、シドカップ時代の同級生、メイに新バンドの結成をするようアドバイスされ、冒頭に書いた5人のメンバーを集めて、プリティ・シングスがスタートした。

つまり、プリティ・シングスは、ローリング・ストーンズのメンバーたちと日常的に交流のあった、言わば仲間であり、良きライバルであったのだ。

ロンドンのライブハウスで演奏活動を開始、64年初頭にはフォンタナレーベルと契約を結ぶ。この時点でドラムスはさらにプロ経験のあるヴィヴ・プリンスに交代する。

そして初レコーディング、5月にシングルリリースされたのが、本日取り上げた一曲「Rosalyn」というわけである。

本曲は、彼らの同級生だったブライアン・モリスンと共にバンドの共同マネージャーを務めていたソングライターのジミー・ダンカン、そしてバンドがレコーディングしていたスタジオのオーナー、ビル・ファーリーの共作である。

曲調は、聴くとすぐお分かりいただけると思うが、明らかに彼らが大きく影響を受けてそのバンド名にもしたボ・ディドリーのサウンドそのまんまである。

いわゆるボ・ディドリー・ビートに乗って、トレモロを効かせたリズムギター、そしてうねるようなスライド・ギターに、エッジィで攻撃的なシャウトが絡む。デビュー期のストーンズも連想させるような、ワイルドな音である。これを彼らはライブハウスで、当時としてはとんでもない大音量で演奏していたという。

ストーンズのレコードデビュー(63年6月)に遅れること約1年。遂に彼らも世に登場して、その存在をアピールしたのだった。

本曲は7月には全英チャートで41位にランクイン。無名のバンドとしては、まずまずの成績を収めた。

その後、英国のバンド、ザ・フェアリーズのロードマネージャー、ジョニー・ディーが書いた曲である「Don’t Bring Me Down」をセカンド・シングルとしてリリース、これが見事全英10位のスマッシュ・ヒットとなった。この曲もまた、典型的なR&Bチューンである。

この2曲連続ヒットにより、プリティ・シングスは英国内での知名度を大いに上げて、後の長いバンド活動(第1期のみに絞っても約13年、復活後も含めると50年以上)への道を開いたのである。

翌65年3月には、テイラー作曲によるサード・シングル「Honey, I Need」をリリース、全英13位となる。

また同月ファースト・アルバム「The Pretty Things」をリリースして、全英6位に輝く。

このアルバムは米国でもリリースされたが、その内容は英国とはかなり異なり、「Roadrunner」を含むシングル曲4曲は全て収録、カバー曲を減らして、彼らのオリジナル曲を増やしている。

米国においてはまだブレイクしていなかったことも考慮して、ヒット性を高めるための戦略だったのだろう。まぁ、それでも米国ではなかなか火が付かなかったのだが。

その後プリティ・シングスは年代によって、さまざまなサウンドへと変化を遂げるようになる。当初のブルース、R&B路線から、サイケデリック・ロック、プログレッシブ・ロックへと進化・変容を遂げていき、76年でいったん解散する。

しかし、初期の彼らのサウンドは、他のミュージシャンたちに意外と大きな影響を与えていた。その好例のひとつが、70年代グラム・ロックの巨星、デイヴィッド・ボウイが73年10月リリースした、全編カバー曲というアルバム「Pin Ups」である。

この中でボウイは、「Rosalyn」と「Don’t Bring Me Down」の2曲をカバーしているのだ。レコーディングメンバーはボウイのほか、ギターのミック・ロンスン、ベースのトレバー・ホルダー、ドラムスのエインズレー・ダンパー。

それら2曲は、少し70年代風なアレンジを施しているものの、オリジナルのラフでストレートなサウンドをなるべく残すように演奏されている。

これはまさに、ボウイの原点回帰ともいうべき、自らのルーツを探る試みなのであった。

同アルバムではほかにゼム、ザ・ヤードバーズ、ザ・フー、ピンク・フロイド、ザ・キンクスの初期ナンバーが取り上げられており、66年デビューのボウイが、いかに同時代のミュージシャンたちに触発されて自分自身のサウンドを作り上げてきたかが、よく分かる。

ボウイに代表されるグラム・ロックというスタイルは、70年代に入って突如沸き起こって来たかのように思われがちであるが、実は10年近く前からさまざまなビート・バンドが試みて来た、ロック・サウンド実験の延長線上にあるのだ。

ベースはあくまでもシンプルなR&Bやロックンロール。それに時代の変化に応じた装いをまとうことによって、70年代のビート、すなわちグラム・ロックが誕生した。

デビュー当初のプリティ・シングスの荒々しいパフォーマンスに、その後大きく発展する、ブリティッシュ・ロックの芽生えを感じとってくれ。









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