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音曲日誌「一日一曲」#362 ザ・バッキンガムズ「Mercy Mercy Mercy」(Columbia)

2024-04-02 08:29:00 | Weblog
2024年4月2日(火)

#362 ザ・バッキンガムズ「Mercy Mercy Mercy」(Columbia)






ザ・バッキンガムズ、1967年のシングル・ヒット曲。ジョー・ザヴィヌルの作品。セカンド・アルバム「Time And Changes」に収録。ジェイムズ・ウィリアム・ガルシオによるプロデュース。

米国のロック・バンド、ザ・バッキンガムズは65年、イリノイ州シカゴにて結成された5人編成のバンド。ギターのカール・ジャンマレーゼ、ベースのニック・フォーチュナーを中心に、ボーカルのデニス・トゥファノ、キーボードのマーティ・グレブ、ドラムスのジョン・ブーロスがブレイク時のメンバーであった。

テレビのバラエティ番組「オールタイム・ヒッツ」のハウスバンドに抜擢された彼らが、番組プロデューサーの勧めもあって当時のブリティッシュ・インベイジョン(英国バンドの米国チャート侵略)を意識した、いかにも英国っぽいバンド名を付けたというのが、そのバンド名の由来である。

地元レーベルのUSAと契約してレコーディング、ドリフターズのカバー「Sweet for My Sweet」などシングルを数枚リリースした後、66年リリースの「Kind of a Drug」が全米1位の大ヒット、一躍有名バンドとなる。デビュー・アルバム「Kind of a Drug」も翌年リリース。

その後大手コロムビアと契約を結び、J・W・ガルシオ(ゲルシオとも)のプロデュースのもと、67年に4枚のシングルをリリース、立て続けにヒットさせた。

これによりバッキンガムズは、67年に全米で最も売れたバンドのひとつとなったのだった。

本日取り上げた「Mercy Mercy Mercy」は、ガルシオのプロデュースによるシングルの第2弾。全米5位のスマッシュ・ヒット。

この曲はもともと、ジャズ・サックス奏者、ジュリアン・キャノンボール・アダレイの作品として世に出たナンバーだ。67年リリースのアルバム「Mercy Mercy Mercy」のタイトル・チューン。先行シングルとして66年12月にリリースされた。

作曲したのは、アダレイのバンドメンバー、キーボードのジョー・ザヴィヌル。後にフュージョン・バンド、ウェザー・リポートをウェイン・ショーターらと共に結成して、成功させた人である。他のメンバーは、アダレイの実弟、コルネットのナット・アダレイ、ベースのヴィクター・ガスキン、ドラムスのロイ・マッカーディ。

この曲が、インストゥルメンタル・ジャズにもかかわらず、異例の大ヒット。全米11位(2週連続)、R&Bチャート2位という輝かしい記録を打ち立てた。

当時の米国はファンキー・ジャズが一大ブームとなっており、アダレイもその波に乗ってこの曲をシングル・リリースしたのだが、見事に一般リスナーのアピールを獲得したのである。

このホットなヒットを、その余韻も冷めやらぬうちにバッキンガムズが手早くカバーしたことで、「Mercy Mercy Mercy」は再び大人気曲となった。

もともと2本のホーンでの演奏用に書かれたメロディに歌詞を付けて、デニスとマーティのツイン・ボーカル体制にしただけあって、その歌は多分にマルチホーン・ジャズのノリがある。

バンド演奏だけでなく、バックにホーン・セクションを配することによって、それはさらに強調されている。

「ん、これってどこかで聴いたことがあるような?」と思った人もいらっしゃるだろう。そう、60年代後半から70年代前半に大流行した、ブラス・ロックのサウンドである。

米国主導のロックンロール時代には普通に加わっていたホーンが、英国主導のロック時代にはほぼカットされ、いわゆるガレージ・サウンドになっていたのだが、再びホーンを復活させたのが、ブラス・ロック。

バッキンガムズは、名前こそ英国風を装っているものの、やはり米国、それもブルースのメッカ、シカゴ出身だけあって、本質的には心底アメリカンなバンドなのだ。

当時出演したテレビ番組では、彼らはビートルズを真似てエピフォンのギター、ヘフナーのベースを持ち、ブリティッシュ・トラッドなスーツ姿で、おまけにユニオン・ジャックを背景に演奏している。これを見て、バンド名も相まって、多くの視聴者は英国のバンドだと勘違いしたのだろうな。もちろん、それはバンド側の戦略に過ぎない(笑)。

一見リバプール・サウンド、ブリティッシュ・バンドの皮を被りながら、その実コテコテなアメリカンなロックを演奏することで、バッキンガムズは見事に全米にアピールした。

このことに気をよくして、プロデューサー、ガルシオはすでに次の一手を考えていた。それは2年後の69年にシカゴ・トランジスタ・オーソリティ、つまり後のシカゴというバンドという形で具現化する。そう、バッキンガムズの成功が、シカゴのデビューの布石となったのである。

ブリティッシュ・インベイジョンを逆手に取った、巧みなイメージ戦略。ブラスの復権による新たなロック・サウンドの創造。バッキンガムズというバンド単体だけでなく、プロデューサー側も含んだ総力戦でブラス・ロックの最初の成功は生まれた。

68年半ばにバッキンガムズはガルシオのプロデュースを離れており、残念ながらその後、67年並みの大成功を再び得ることは出来なかった。全ての栄光は、わずか1年のみに集中したのである。

70年には解散、80年に再結成されて以来、よくある「昔の名前で出ています」的なマイペースな活動を現在に至る続けているバッキンガムズ。

でもその全盛期のサウンドは、今聴いても実にヒップだ。ボーカルふたりの確かな実力を、このテレビ出演の映像を観て、感じてほしい。


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