2024年7月2日(火)
#453 ジョニー・オーティス「Willie and the Hand Jive」(Capitol)
#453 ジョニー・オーティス「Willie and the Hand Jive」(Capitol)
ジョニー・オーティス、1958年リリースのシングル・ヒット曲。オーティス自身の作品。トム・ティッピー・モーガンによるプロデュース。
米国のシンガー、ミュージシャンにしてプロデューサー、ジョニー・オーティスことイオニアス・アレクサンドル・ベリオテスは1921年12月、カリフォルニア州ヴァレーオ生まれ。本名が示すように、ギリシャ系移民の両親のもとに生まれている。父親は食料品店の経営者だった。
その食料品店が同州バークレーの、黒人が大多数を占める地域にあったことで、オーティスも幼少期から黒人コミュニティの中で育ち、音楽もR&Bを自然と愛聴するようになる。
10代からドラムを演奏し始め、プロミュージシャンを志して、バークレーの高校を中退。友人のピアニスト、オーティス・マシューズと共に地元のバンド、ウェスト・オークランド・ハウスロッカーズに参加して、地元では人気となる。
1941年5月、19歳で黒人とフィリピン人の血を引く18歳の女性、フィリス・ウォーカーと結婚。母親から反対され、ネバダ州リノで駆け落ち結婚したという。
40年代はセレネーダーズ、ロケッツなどのスウィング・バンドで演奏したのち、45年に自身のビッグ・バンドを結成する。このバンドでレイ・ノーブル楽団のカバー曲「Harlem Nocturne」をリリースしている。テナー・サックス演奏はイリノイ・ジャケーである。
47年、ロサンゼルスのワッツ地区にバレルハウス・クラブというR&Bのナイトクラブを、シンガーのバルドゥ・アリと共に開店して、以後ここでタレント・ショーを開催、何人ものニュー・スターを発掘していくことになる。
先日も本欄で取り上げた女性シンガー、エスター・フィリップス(当時はリトル・エスター)は、まさにその一例である。
彼女のほか、男性シンガーのメル・ウォーカー、ロビンズ(のちのコースターズ)が抜擢されて店のハウス・シンガーとなった。
テナーサックス奏者、ビッグ・ジェイ・マクニーリーもまた、オーティスにより見出され、バレルハウスに出演したミュージシャンのひとりだ。
なお、その店名はネブラスカ州オマハにあった、黒人と白人、両方の客を受け入れた最初のクラブ、バレルハウスにちなんでいる。
オーティスのバンドは47年9月ロサンゼルスで開催された第3回ジャズ・カヴァルケード・コンサートにも出演している。当時、ジャズとR&Bはかなり距離が近かったことが分かる。
49年よりサヴォイレーベルでリトル・エスター、メル・ウォーカーのレコーディングを開始する。先日書いたようにエスターは50年にデビューするやR&Bチャートのナンバーワン・ヒットを連発、ウォーカーもそのうちの一曲「Mistrustin’ Blues」でエスターと共演している。
これらの仕事で、オーティスはプロデューサーとして認められるようになる。
50年にはビルボードでR&Bアーティスト・オブ・ザ・イヤーに選出される。
51年、女性シンガー、エッタ・ジェイムズを見出してデビュー曲「The Wallflower」をプロデュース、大ヒットさせる。これも先日、本欄で書いた通りである。
53年、女性シンガー、ビッグ・ママ・ソーントンの「Hound Dog」のレコーディングに参加、プロデュースとドラムスを担当している。
54年、男性シンガー、ジョニー・エースのシングル曲「Pledging My Love」をプロデュース、ヴィブラホンも演奏している。この曲は全米17位、R&Bチャートで10週1位という特大ヒットとなった。
こうして40〜50年代、さまざまなアーティストの才能を発見してプロデュースして来たオーティスであったが、彼自身のボーカルをフィーチャーした曲が58年、ついに大ヒットする。
それが、本日取り上げた一曲「Willie and the Hand Jive」である。作曲はもちろん、オーティス自身だ。
当時人気を博していたボ・ディドリー風の、躍動感あふれるジャングル・ビートに乗って歌われた本曲は、またたく間にヒット、全米9位、R&Bチャート5位にまで上る。
歌詞中にあるハンドジャイブとは、手を使って踊るダンスのスタイルであり、太ももを叩く、手首を交差させる、拳を叩く、手を叩くといった動作が含まれる。
と、言葉で説明してもあまりピンとこないと思うので、ここはオーティス自身が彼のテレビショーで歌った時の映像を観て、確認していただこう。これが、ハンドジャイブというダンスなのだ。これがまた、R&Bのビートによくフィットしている。
曲の内容は、ハンドジャイブが得意なウィリーという男についてのもの。そのおかげで注目され、モテモテになるという、ある意味、チャック・ベリーの「Johnny B Goode」のギターマン、ジョニーの逸話に通じる歌である。
オーティスは彼のコンサートにおいて、実際にダンサーを参加させて、このハンドジャイブダンスを披露し、観客にも指導して、実践させていたという。
「Willie and the Hand Jive」の当時の影響力は、すさまじかった。50年代後半には生まれたばかりだった筆者にはまるで想像がつかないのだが、本曲の一大ブームが巻き起こったのである。
まずは59年、英国の男性シンガー、クリフ・リチャードがザ・シャドウズと共に本曲をカバーする。
続いて62年には米国のバンド、ザ・クリケッツ(バディ・ホリーがかつていたバンド)がアルバム「Somethig Old, Something New, Something Blue, Somethin’ Else」の中で本曲をカバーしている。
65年には米国のバンド、ザ・ストレンジラヴズがアルバム「I Want Candy」で本曲をカバー。71年、同じくヤングブラッズがアルバム「Good and Dusty」内でカバー。そして男性シンガー、ジョニー・リヴァースも73年のアルバム「Blue Suede Shoes」でカバーしている。
われわれの世代にとって一番有名なカバー・バージョンは、いうまでもなくエリック・クラプトン版であろう。
74年のアルバム「461 Ocean Boulevard」に収録されたことで、この曲を初めて知ったというリスナーが大半なのではないだろうか。筆者も、もちろんそのクチである。
しかし、こうして本曲のカバーの歴史を紐解いてみると、クラプトンが16年も昔の曲を、いきなり持ち出して来たのではないことがよく分かる。
「Willie and the Hand Jive」は、誕生以来ずっと、国を問わず、あるいはジャンルを問わず、多くのアーティストによって強く支持されて来た人気曲であり、クラプトンが取り上げる以前に、すでに立派なスタンダード(それもロックの、と言っていい)であったのだ。
黒人・白人といった人種の壁、米国・英国といった国の垣根を軽く飛び越えて、ジャズ、R&B、ロックンロールなどでクロスオーバーな活躍をしたオールラウンドプレイヤー、ジョニー・オーティス。
生まれて100年余り、2012年1月に90歳で亡くなってはや12年。今ではその名前を知っている世代は、すっかり少数派になってしまったが、彼が70年ほどの間になして来た仕事は、質・量ともにハンパなものではない。
文字通りR&Bの歴史を生きた巨人の、一世一代の人気曲「Willie and the Hand Jive」を、ぜひオリジナル版で堪能してみて。