#253 アレサ・フランクリン「Won't Be Long」(The Great Aretha Franklin-The First 12 Sides/Columbia)
アレサ・フランクリンの初レコーディング集より。72年リリース。
67年以降、45年以上にわたってトップ・シンガーの座をキープしているアリサだが、彼女にも売れない時代はあった。
アトランティックと契約する67年に先立つこと7年。60年の8月に4曲を初めてレコーディングし、翌年にシングルとしてリリースしている。
ときにアレサ18才。なんとまだティーンエージャーだったのである。
バックをつとめたのは、名ジャズ・ピアニスト、レイ・ブライアントが率いるコンボ。
きょうの表題曲は、同年11月に録音されたうちの一曲。バックの編成としては、ブライアントのピアノ・トリオにもう一台、アレサ自身がピアノで加わっている。いわゆる連弾だ。
聴いていただけるとすぐ分かるだろうが、彼女の特徴あるエモーショナルなボーカル・スタイルが、60年時点ですでに確立されているのが分かる。まさに栴檀は双葉より芳し。
しかし、こうやって録音され、おもにジュークボックスの市場に向けてシングルリリースされた12曲は、ほとんど話題にも上らず、ヒットといえるようなヒットにならなかった。
それはなぜだろうと考えてみたが、まず大きいのが、アレサと契約したコロムビアが、彼女を「ソウル・シンガー」としてでなく「ポピュラー・シンガー」として売ろうと考えており、ジャズ・シンガーのような大人っぽいイメージで演出しようとしていたことだ。
たとえていうなら、ロング・ドレスを着て夜の酒場でしっとりと歌う感じ。
ティーンエージャーである彼女の若さよりも、卓越した歌のうまさに目をつけ、大人の女を演じさせようとしたのである。
ゆえに、ジャズ・ミュージシャンをバックにつけられたのであり、そのサウンドはソウルというよりは、明らかにジャズだった。
「Won't Be Long」にしても、アレサのパワフルな歌とバックのジャズィな音との「ちぐはぐ感」は否めない。
他に録音した曲には「Over The Rainbow」「By Myself」などというジャズ系のスタンダード曲もあるが、やはりアレサの歌声とはミスマッチ感が漂う。無難に歌いこなしてはいるのだが「コレジャナイ」とどうしても思わせてしまうのである。
大レコード会社ゆえに、既存のポピュラー・ミュージックのフォーマットでどうしても作ってしまうコロムビア。新時代の音楽である、ソウル・ミュージックへの取組みが、明らかに遅れていたということである。インディーズのソウル専門レーベルと契約しなかった、ということが60年代前半のアレサの、不遇の原因といえるだろう。
その後しばらくして、アレサは新興のレーベル、アトランティックに引き抜かれる。67年のことである。
仕掛人の名は、ユダヤ系白人プロデューサー、ジェリー・ウェクスラー。
彼の功績については音楽評論家、吉岡正晴さんのサイト「ソウル・サーチン」にて詳しく述べられているので、詳しくはそちらに譲るが、その彼の華々しい業績の中でもひときわ輝いているのがこの、アレサ・フランクリンを移籍させ、トップ・ソウル・シンガーに育て上げたことに違いない。
才能あるものを見出し、超一流の人材に育てる名コーチ役のことを、中国の故事になぞらえて「伯楽」とよぶが、ウェクスラーはソウル界随一の 「伯楽」であった。
シンガー/ソングライターとは違って、アレサのようなほぼ専業といえるタイプのシンガーは、ヒットするもしないも、与えられる楽曲次第のところがある。優れたプロデューサーなしでは、世に出て人口に膾炙されることはきわめて難しい。
ウェクスラーとの出会いがもしなかったとしたら、アレサの人生は、まったく違ったものになっていたはずだ。
名馬たりうるかどうかは、伯楽次第。われわれはアレサという稀有のシンガーが登場してきたことを喜ぶとともに、彼女を真のレディ・ソウルに育て上げたウェクスラーの仕事ぶりに、感謝せねばなるまい。
若き日のアレサ・フランクリンの歌声。登場時にして、すでに一級品の風格があります。必聴。
アレサ・フランクリンの初レコーディング集より。72年リリース。
67年以降、45年以上にわたってトップ・シンガーの座をキープしているアリサだが、彼女にも売れない時代はあった。
アトランティックと契約する67年に先立つこと7年。60年の8月に4曲を初めてレコーディングし、翌年にシングルとしてリリースしている。
ときにアレサ18才。なんとまだティーンエージャーだったのである。
バックをつとめたのは、名ジャズ・ピアニスト、レイ・ブライアントが率いるコンボ。
きょうの表題曲は、同年11月に録音されたうちの一曲。バックの編成としては、ブライアントのピアノ・トリオにもう一台、アレサ自身がピアノで加わっている。いわゆる連弾だ。
聴いていただけるとすぐ分かるだろうが、彼女の特徴あるエモーショナルなボーカル・スタイルが、60年時点ですでに確立されているのが分かる。まさに栴檀は双葉より芳し。
しかし、こうやって録音され、おもにジュークボックスの市場に向けてシングルリリースされた12曲は、ほとんど話題にも上らず、ヒットといえるようなヒットにならなかった。
それはなぜだろうと考えてみたが、まず大きいのが、アレサと契約したコロムビアが、彼女を「ソウル・シンガー」としてでなく「ポピュラー・シンガー」として売ろうと考えており、ジャズ・シンガーのような大人っぽいイメージで演出しようとしていたことだ。
たとえていうなら、ロング・ドレスを着て夜の酒場でしっとりと歌う感じ。
ティーンエージャーである彼女の若さよりも、卓越した歌のうまさに目をつけ、大人の女を演じさせようとしたのである。
ゆえに、ジャズ・ミュージシャンをバックにつけられたのであり、そのサウンドはソウルというよりは、明らかにジャズだった。
「Won't Be Long」にしても、アレサのパワフルな歌とバックのジャズィな音との「ちぐはぐ感」は否めない。
他に録音した曲には「Over The Rainbow」「By Myself」などというジャズ系のスタンダード曲もあるが、やはりアレサの歌声とはミスマッチ感が漂う。無難に歌いこなしてはいるのだが「コレジャナイ」とどうしても思わせてしまうのである。
大レコード会社ゆえに、既存のポピュラー・ミュージックのフォーマットでどうしても作ってしまうコロムビア。新時代の音楽である、ソウル・ミュージックへの取組みが、明らかに遅れていたということである。インディーズのソウル専門レーベルと契約しなかった、ということが60年代前半のアレサの、不遇の原因といえるだろう。
その後しばらくして、アレサは新興のレーベル、アトランティックに引き抜かれる。67年のことである。
仕掛人の名は、ユダヤ系白人プロデューサー、ジェリー・ウェクスラー。
彼の功績については音楽評論家、吉岡正晴さんのサイト「ソウル・サーチン」にて詳しく述べられているので、詳しくはそちらに譲るが、その彼の華々しい業績の中でもひときわ輝いているのがこの、アレサ・フランクリンを移籍させ、トップ・ソウル・シンガーに育て上げたことに違いない。
才能あるものを見出し、超一流の人材に育てる名コーチ役のことを、中国の故事になぞらえて「伯楽」とよぶが、ウェクスラーはソウル界随一の 「伯楽」であった。
シンガー/ソングライターとは違って、アレサのようなほぼ専業といえるタイプのシンガーは、ヒットするもしないも、与えられる楽曲次第のところがある。優れたプロデューサーなしでは、世に出て人口に膾炙されることはきわめて難しい。
ウェクスラーとの出会いがもしなかったとしたら、アレサの人生は、まったく違ったものになっていたはずだ。
名馬たりうるかどうかは、伯楽次第。われわれはアレサという稀有のシンガーが登場してきたことを喜ぶとともに、彼女を真のレディ・ソウルに育て上げたウェクスラーの仕事ぶりに、感謝せねばなるまい。
若き日のアレサ・フランクリンの歌声。登場時にして、すでに一級品の風格があります。必聴。
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