ストックの花
新聞のトップニュースは東京の病床使用率50.7%、感染拡大が止まりません
東京都が平日午後4時45分に発表するコロナ感染者数
2月1日は14,445人、重症者数29人、病床使用率50.7%
2月3日は21,576人、重症者数30人、病床使用率51%
オミクロン株による症状の特徴は?
- 発熱(72%)・咳(58%)・だるさ(50%)・のどの痛み(44%)などの風邪症状が中心である点
- 通常株より潜伏期間が短い:潜伏期間の中央値は3日としています。通常の新型コロナが5日ほどと考えられているので、2日ほど早いということになります
- 若年での発症・入院数が増加: 日本でも2022年1月から成人だけでなく17歳以下の若年者や小児での発症例も急増してきています
- 味覚嗅覚障害が通常株・デルタ株に比べて少ない
いまだピークアウトは見えず、
来週は新型コロナワクチン接種「モデルナ」を受けます(1,2,3回モデルナ)
その紙面半分を石原慎太郎氏の訃報を報じていた
東京都知事を13年半務め、タカ派政治家の代表格として知られた元衆院議員で作家の石原慎太郎さんが2月1日午前、東京・田園調布(大田区)の自宅で死去した。89歳だった。膵臓がんを昨年10月に再発していた。神戸市出身。葬儀・告別式は家族のみで行い、後日お別れの会を開く。 「死後にあるものはやはり虚無でしかあるまい」。2度の脳梗塞や膵臓がんを患い、闘病生活を送っていた石原さんは晩年、死生観に関する発言が多かった。
2013年に軽い脳梗塞を発症した石原さんは翌年、神奈川・逗子の邸宅を売却。書斎や倉庫にあった約3200冊の本を整理し、地元の逗子市立図書館に寄贈。その“終活”ぶりが話題になった。
芥川賞を受賞した「太陽の季節」の初版や弟・裕次郎さんとのヨット上での写真、そして大江健三郎氏や遠藤周作さん、開高健さんら同年代の作家から贈られた本など、マニア垂ぜんのコレクションで、「石原慎太郎文庫」として展示されている。
また14年に出版した「私の海」(幻冬舎)には“遺言”も記していた。 「ことさらに来世なるものを信じている訳でもないが、次に何に生れ変ってこの世に現われたいかといえば、いつか相模湾の外れの三つ石崎の沖合いの潮目で出会ったような巨きな離れ鯨になりたい気がしている」と鯨になって、自由気ままに世界中の大海原を泳ぐ姿を想像すると「心が弾む」と記していた。
そして、「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と遺言状に記したという。
出典:東京スポーツ
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彼の一言で、空気がガラリと一変
考えてみると、「バカ」という一言で面倒くさい質問を交わし、新聞記者に小ネタを提供し、周囲を「石原さんらしい」で納得させてしまえるのだから、こりゃスゴイ。結局、筆者(昼間さん)もまんまとしてやられたわけだ。
都庁記者クラブで開催される定例記者会見でも、石原都知事は自分のペースに引き込むのが得意だった。レジュメもフリップもなし、たいてい手ぶらで現れる。「今日はなにも話すことはありませんので、質問をどうぞ」と、口火を切ったりもする。
ちょっとややこしそうな質問をする記者が手をあげたときなんかにも、
「出たな!新宿新聞」
などと言って、笑いをとろうとしたりする。
そんな風に、とにかく石原都知事は「空気を作る」のが抜群にうまかった。その後の都知事もそれぞれ個性的人物ではあるのだが、石原都知事のように、一言で現場の空気をガラッと変えられる人はいなかったように思う。
ただ、数々の「問題発言」を踏まえると、計算された発言というよりは「インパクトのあるフレーズを自然に思いついてしまう」タイプだったのかもしれない。東日本大震災時の津波「津波をうまく利用して(日本人の)我欲を一回洗い落とす必要がある。これはやっぱり天罰だと思う」という発言など、撤回・謝罪に追い込まれることも多く、良くも悪くも自我のままに生きている人だったように思う。
そんな人物の本質を、的確に言い表した一文といえば、なんといってもノンフィクション作家・沢木耕太郎の『シジフォスの四十日』だろう(『馬車は走る』文藝春秋 1986年に所収)。
これは当時42歳の石原が初めて都知事選に出馬し、三選を目指す美濃部亮吉に挑んだ時の密着ルポである。
沢木は、個人演説会場に到着した石原が、ふと足を止め、窓ガラスにうつった自分を見てネクタイに手を当てて首を動かしたときのことを「ほんの一瞬だが鮮烈なほどナルシスティックなシーンに映った」と振り返る。
そして、沢木はこう続ける。
その時、思ったものだ。彼は間違ったのではないか。政治の世界など本当は不向きの男だったのではないか。彼は小説家であり、小説家でしかなく、小説家こそ天職だったのではあるまいか……。
これはあくまで、都知事選敗北を象徴するシーンの一描写にすぎないが、このとき沢木が描いた石原のイメージはついに、亡くなる瞬間まで変わらなかったように思える。改革派、右翼、差別主義者……など、さまざまに呼ばれた石原慎太郎だが、彼にふさわしい肩書は、やはり「小説家」をおいて他にないだろう。
サイドベンツのダブルブレストで、いつもダンディな昭和の人
良くも悪くも存在感のある人であった
初めて石原慎太郎氏を身近に知ったのは大田区山王の歯科医院に通院中、隣接のビルに石原慎太郎の選挙事務所ができ、ポスターが光輝いていた光景である(wikiで確認すると1968年第8回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補)
その後の活躍は上記の通り、
昨夜慎太郎氏に似た男性が夢に出てきた、よぉ~くよお~く思い出して考えて
現れたのは、今は亡き実の父親だった
「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」は今までのように(小説家の)思い付き、、、
ワタシもそうしたいが、死んだあとは家族がすることなどで、、出来たら樹木葬がいい
どうぞ安らかにお眠り下さい
でも、(政治家ではなく)一都知事としてみれば、言われてる程に悪くはなかったかも。但し、五輪誘致は致命的でしたが・・・
ただ(好みが分かれる所ですが)、小説家としても中途半端だった様な気もします。
結局、”裕次郎の兄”という華やかなイメージが強くて、自分を売り出す事にかけては、とても有利に働いたんじゃないかな。
でも、彼の死生観はやはり典型の小説家ですよね。
ちょっと今は休息中でして、明日から出かけますので良かった(*^^)v
コメントありがとうね。
確か「象が転んだ」のHNは、沢木さんの「「象が空を飛ぶ」から、、でしたよね。
故石原氏は戦中少年時代を過ごし、必然的愛国心に燃え、感性、文才に秀でた昭和の頑固おやじの典型でした。
ワタシは裕次郎の映画は見たことがないのです、「西部警察」だったかしら、西新宿にまだ道と街路樹しかない開発中の場所が、撮影場所だったことは覚えています。(今の京王プラザホテル辺り)
都知事としては「ディーゼル車排ガス規制」はすごい功績です。
初回の五輪誘致では莫大なお金をつぎ込み、利権丸見えの致命傷でした。
花鳥風月を好む小説家には程遠い作家さんでしたね。