2013年、NHK大河ドラマ「八重の桜」が放映された
新島八重の幼少時から戊辰戦争時までの舞台が会津若松市
実はこのドラマを私は観ていない
会津若松に来るたびに
出会う人たち大方は会津藩熱の自慢と誇りを語る
会津若松に訪れた日も猛暑でした
大正浪漫の雰囲気のただよう七日町通りは、
細い道ながらもノスタルジックな落ち着いた雰囲気で
長野松本市の中町通りと同じような感じがした
藩政時代には、会津五街道のうち日光、越後、米沢街道の主要道路で
城下の西の玄関口として繁栄していた
阿弥陀寺の道を挟んだ有料駐車場に停める(30分:100円)
阿吽の狛犬
本堂(浄土宗)
鶴ヶ城の遺構
本丸御殿の玄関唐破風も同時に移築
御三階は江戸時代に建てられた古建築物で
外観上は三階ですが、内部が4層になっており密議の場所として使用されていた
ここから~
斎藤一(さいとう はじめ)(参照:Wikipedia)
幕末、新選組最強の剣士の一人
永倉新八は「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と、その腕前を表している(以下はwikiで)
幕末、新選組で副長助勤、三番隊組長、撃剣師範を務めた斎藤一
戊辰戦争では仙台、函館へと転戦する土方歳三とは袂をわかち、最後まで会津藩と運命を共にする
戦後は下北半島・斗南藩領の五戸に移住し、その後は東京に移って警視庁に奉職
西南戦争では豊後口で警視徴募隊二番小隊半隊長として参戦している
警視庁巡査部長、警部補、麻布警察署詰外勤警部を歴任後、
晩年は元会津藩士の斡旋もあり
東京高等師範学校の守衛、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛を務める
↓ フォトは東京高等師範学校(現筑波大)に勤務していた53歳当時の写真
羽織はかま姿で膝の上に帽子を置いて座る斎藤一
後ろには軍服姿の勉(長男)と着物姿の剛(次男)
隣には八重と幼馴染の妻の時尾さん
日清戦争の直後(明治30年)撮影
斎藤一の墓
彼の遺言により、東軍墓地のある阿弥陀寺に埋葬されました
戊辰戦争戦死者を埋葬(東軍墓地)
墓参中、今は亡き 阿弥陀寺の和尚さん(住職)と幼友達だった人から話しかけられた
まさに会津藩士のような方で、会津藩の歴史など尽きることなく話され、、、
(私が勤めていた会社の守衛さん(元警察官)が会津出身で何となく似ている雰囲気)
丸っこくて人懐っこくて穏やかな顔なんですが
「什の掟」の「ならぬことはならぬもの」という理屈ではない強い信念を感じさせる、、
↓ の会津三葵について、
水戸徳川家、尾張徳川家、会津松平家と徳川一門の三つ葵と同じ
会津三葵は、特に会津松平家が用いた
徳川宗家、御三家の三つ葉葵の紋とほぼ同じ図案であるが
3枚の葉はオリジナルの葵(フタバアオイ)の葉の図案ではなく
似た図案の家紋である河骨紋(スイレン科のコウホネ)の葉に似る
ちなみに、河骨紋としては「丸に頭合わせ三つ河骨」といい、会津葵よりやや細身の葉の図案を用いることが多い
それは何故か!
「会津藩は将軍家を守護すべき存在であり、
藩主が裏切るようなことがあれば家臣はこれに従ってはならない」と定め、
これが幕末まで土津公(はにつこう・保科正之の神号)遺訓として残り、
松平容保以下会津藩士はこれに殉じた
藩祖・保科正之は将軍の弟であったにも関わらず、
生涯養父・保科正光の恩を忘れず保科姓を変えることはなく
会津藩3代藩主となった正之の六男・正容(まさかた)がはじめて松平姓を名乗り
三つ葉葵の紋の使用を許され徳川一門の仲間入りを果たしたのです
使用した家紋は当然、葵の御紋ですが
会津松平家では徳川宗家、徳川御三家とは違う、一般には会津三葵と呼ばれる家紋で、
幕末の徳川宗家が葵の葉の芯が13本の図案を使用したのに対して、
会津三葵は21本の図案を使用し、宗家との差別化を図っています
○○の台座
(台座上は、戦争中に金属類を没収されたままらしい)
他にも色々うかがいました、ありがとうございました
次は近藤勇の眠る墓地へ
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