今日はちょこっとだけ書きます
ものすごーく前に書いた記事も、時々読んで下さる方がある様で、ありがとうございます
さて、8年ほど前に書いた「良い音ってどんな音」というタイトル。
難しいことを書いたものです
今もう少し、端的な言葉で言えるのかな…と思うので、書き直しと言いますか追加と言いますか…すこーしだけ書いてみます。
数年前にも書いたのですが…“耳が良い”という事には、3段階ある。。
ずい分はっきりした言い方ですが、洋の東西を問わず、言われていることがあります。
中国の言葉・・
「汝、人籟を聴くも地頼を聴かず、地籟を聴くも天籟を聴かず」
というそうですが、「人籟(じんらい)」「地籟(ちらい)」「天籟(てんらい)」を、少し勝手な解釈ですが、私たちの分かり易い表現に変えてみると…
①ソルフェージュの力としてのドレミが分かる耳(絶対音感など)
②音の質、響きが分かり判断できる耳(多くの楽器の演奏や声などをよく聴き、判断できること)
③心あるいは魂で聴くことが出来る(人生の経験を積み、深い人間理解が必要)
③まで聴き取ることが出来るには、心の勉強をたくさんしなくてはならないこと。
皆さんのおじいちゃんおばあちゃんもそういう方かも知れません。
耳が良い、には3段階ある。ドレミが分かるだけでは本当に耳が良いとは言えない。。という事だと思います
ソルフェージュとしてやたらドレミだけ分かる耳であることで、本当の音楽的なものから遠ざかってしまうこともあるかも知れません。
しかしまた、ドレミがしっかり分かる(単音ばかりではなく和声も)という事が出来なければ、複雑な演奏は出来ません。
ほんの微細な違いも判断できる耳は、演奏技術として必要なものです。
とても勝手な解釈なので参考程度に思って下さい。
少なくとも、ドレミが聴き取れた段階でだけで、音楽は語れない。
ソルフェージュは大変重要で、これなしでは難しいのですが、音楽はこの向こうの世界にあります。
「入口」のようなものだと思って下さい。
中国の“六芸”…礼・楽・射・御・書・数について書かれていることがあります。
(略)
「楽」は音楽です。何故、音楽が上位に来るのか。
孔子は音楽を愛した。政敵に追われて放浪しているときも、琴を弾じるのを止めなかった。
「楽」は時間意識を涵養(かんよう・徐々に養い育てること)するものです。豊かな時間意識を持っていない人間には音楽は鑑賞できません。
楽器の演奏も曲の鑑賞も出来ない。というのは、音楽とは「もう消えてしまった音」が未だ聴こえて「まだ聞こえない音」がもう聴こえているという、過去と未来への拡がりの中に身を置かないと経験できないものだからです。
単音の音楽というものはありえません。リズムもメロディーも、その楽音に「先行する楽音」と「後続する楽音」の織り成す関係の中でしか把持(はじ)されません。そして「先行する楽音」と「後続する楽音」も、論理的に言えば、今ここでは聴こえていない。今、ここには存在しないのです。今ここには存在しないものとの関係を維持していなければ、音楽というものは演奏することも聴き取ることも出来ないのです。(略)
音楽を愉悦するためには、できるだけ長い時間の中にいる必要がある。
(略)音楽については、過去と未来に時間意識の翼を大きく広げられれば広げられるほど大きな快楽が約束されている。
だから、音楽は時間意識の涵養の為に極めて重要な科目とされるのだと私は思います。(内田樹)
また、“音楽”についての、河合隼雄先生の言葉は、分かり易くしかも非常に奥深いものがあります。
人間は『目の動物』と言われたりするほど、生活を目に頼っている。
この傾向が強くなると、目に見えないものは存在しないと考えたり、信頼しないということになったりする。
心が知らぬ間に固く、狭くなっている。そして固く狭い心ほど傷つきやすいのだ。
音楽というものは、雑音と異なって、何らかの『構造』を持っている。
言うならば、相当な形を持っているのだが、目に見えない形である。
その目に見えない形が、目に見えるものによって形作られている構造に対して作用を及ぼしてくる、というのが音楽を聴くということではないだろうか?『より道 わき道 散歩道』河合隼雄著より
河合隼雄先生や内田樹先生の言葉や深い思想は、ゆっくりと何年もかけて味わいたいですね
紀元前に当たるような大変昔の記録をひも解いてみても、近年発達してきた心理学や脳科学の説明と、殆ど食い違うことない深い洞察だという事が分かります。
たくさんの情報に惑わされるより、自分の聴覚や視覚を始めとする「人としての感性・直観力」を磨き、心の目や耳をよーく働かせることが大切なのではないかと思います
*今日の内容は、昨年、一昨年にブログに書いた内容も転用しています。ご参考までに(ちょっと長い文章になって面倒ですが…)
ものすごーく前に書いた記事も、時々読んで下さる方がある様で、ありがとうございます
さて、8年ほど前に書いた「良い音ってどんな音」というタイトル。
難しいことを書いたものです
今もう少し、端的な言葉で言えるのかな…と思うので、書き直しと言いますか追加と言いますか…すこーしだけ書いてみます。
数年前にも書いたのですが…“耳が良い”という事には、3段階ある。。
ずい分はっきりした言い方ですが、洋の東西を問わず、言われていることがあります。
中国の言葉・・
「汝、人籟を聴くも地頼を聴かず、地籟を聴くも天籟を聴かず」
というそうですが、「人籟(じんらい)」「地籟(ちらい)」「天籟(てんらい)」を、少し勝手な解釈ですが、私たちの分かり易い表現に変えてみると…
①ソルフェージュの力としてのドレミが分かる耳(絶対音感など)
②音の質、響きが分かり判断できる耳(多くの楽器の演奏や声などをよく聴き、判断できること)
③心あるいは魂で聴くことが出来る(人生の経験を積み、深い人間理解が必要)
③まで聴き取ることが出来るには、心の勉強をたくさんしなくてはならないこと。
皆さんのおじいちゃんおばあちゃんもそういう方かも知れません。
耳が良い、には3段階ある。ドレミが分かるだけでは本当に耳が良いとは言えない。。という事だと思います
ソルフェージュとしてやたらドレミだけ分かる耳であることで、本当の音楽的なものから遠ざかってしまうこともあるかも知れません。
しかしまた、ドレミがしっかり分かる(単音ばかりではなく和声も)という事が出来なければ、複雑な演奏は出来ません。
ほんの微細な違いも判断できる耳は、演奏技術として必要なものです。
とても勝手な解釈なので参考程度に思って下さい。
少なくとも、ドレミが聴き取れた段階でだけで、音楽は語れない。
ソルフェージュは大変重要で、これなしでは難しいのですが、音楽はこの向こうの世界にあります。
「入口」のようなものだと思って下さい。
中国の“六芸”…礼・楽・射・御・書・数について書かれていることがあります。
(略)
「楽」は音楽です。何故、音楽が上位に来るのか。
孔子は音楽を愛した。政敵に追われて放浪しているときも、琴を弾じるのを止めなかった。
「楽」は時間意識を涵養(かんよう・徐々に養い育てること)するものです。豊かな時間意識を持っていない人間には音楽は鑑賞できません。
楽器の演奏も曲の鑑賞も出来ない。というのは、音楽とは「もう消えてしまった音」が未だ聴こえて「まだ聞こえない音」がもう聴こえているという、過去と未来への拡がりの中に身を置かないと経験できないものだからです。
単音の音楽というものはありえません。リズムもメロディーも、その楽音に「先行する楽音」と「後続する楽音」の織り成す関係の中でしか把持(はじ)されません。そして「先行する楽音」と「後続する楽音」も、論理的に言えば、今ここでは聴こえていない。今、ここには存在しないのです。今ここには存在しないものとの関係を維持していなければ、音楽というものは演奏することも聴き取ることも出来ないのです。(略)
音楽を愉悦するためには、できるだけ長い時間の中にいる必要がある。
(略)音楽については、過去と未来に時間意識の翼を大きく広げられれば広げられるほど大きな快楽が約束されている。
だから、音楽は時間意識の涵養の為に極めて重要な科目とされるのだと私は思います。(内田樹)
また、“音楽”についての、河合隼雄先生の言葉は、分かり易くしかも非常に奥深いものがあります。
人間は『目の動物』と言われたりするほど、生活を目に頼っている。
この傾向が強くなると、目に見えないものは存在しないと考えたり、信頼しないということになったりする。
心が知らぬ間に固く、狭くなっている。そして固く狭い心ほど傷つきやすいのだ。
音楽というものは、雑音と異なって、何らかの『構造』を持っている。
言うならば、相当な形を持っているのだが、目に見えない形である。
その目に見えない形が、目に見えるものによって形作られている構造に対して作用を及ぼしてくる、というのが音楽を聴くということではないだろうか?『より道 わき道 散歩道』河合隼雄著より
河合隼雄先生や内田樹先生の言葉や深い思想は、ゆっくりと何年もかけて味わいたいですね
紀元前に当たるような大変昔の記録をひも解いてみても、近年発達してきた心理学や脳科学の説明と、殆ど食い違うことない深い洞察だという事が分かります。
たくさんの情報に惑わされるより、自分の聴覚や視覚を始めとする「人としての感性・直観力」を磨き、心の目や耳をよーく働かせることが大切なのではないかと思います
*今日の内容は、昨年、一昨年にブログに書いた内容も転用しています。ご参考までに(ちょっと長い文章になって面倒ですが…)
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