どんなに偉い方でも長所と短所がございます。
自分自身で自分の良いところを見つけられない人は、
他人の良いところを見つけられるはずがありません。
長所も短所もちょっと見方を変えれば、違ってみえるはず。
長所を伸ばせば、短所は(見え)なくなります。
南無大師遍照金剛
どんなに偉い方でも長所と短所がございます。
自分自身で自分の良いところを見つけられない人は、
他人の良いところを見つけられるはずがありません。
長所も短所もちょっと見方を変えれば、違ってみえるはず。
長所を伸ばせば、短所は(見え)なくなります。
南無大師遍照金剛
昨日は、2か月ぶりと思っておりましたが、実は3か月ぶりでした。
本日、11時より3か月ぶりに信者の皆様がお参りいただき
命光秘流不動護摩供が厳修されました。
久しぶりに皆様の気なお顔を拝見し、大変うれしく存じます。
今日は護摩供の前に祥月命日の方の霊界施餓鬼一粒萬福法要がございました。
早朝からのご供養でございましたが、施主様も参加され、
供養を受けられた故人様から施主様に対して
「早く身を固めなさい」と心配されておりました。
お互いのことを心配しあっているのです。
施主様は人のために身銭を切るような高尚な方ですが、そろそろ自分のために
よい伴侶を得られることを命光不動尊一同願っております。
さて、今日の護摩供では立里皇神(荒神)清皇神(荒神)のお札の
御霊鎮めもさせていただきました。
今日は参拝者も多く、護摩を焚く時間も長くなり相当暑い中での護摩供となりました。
参詣者の「一願成就」のお札は、山主と副山主で護摩の火に1枚1枚くぐらせため、
参詣者が「火渡り」をした状態となります。
護摩の浄化された後にご神示を頂くことができます。
本日は数人の信者様の方に「一願成就」札を
炎の中をくぐらすという荒業に挑戦していただきました。
燃え盛る火に一願成就札を持って手を入れると、火傷をしてしまいますが、
山主が不動尊の「水の真言」を唱えているため熱さは感じませんし、
火傷などもいたしません。
※他のお寺でマネをされて大火傷をおった方がおられたそうですので
マネをしないでください。
柴燈護摩の際に行われる「火渡り」をご存知でしょうか。
裸足で火の中を渡っても火傷はしません。
それは行者がこの「水の真言」を唱えているからです。
今日「火渡り」を体験された信者の方も「熱くないです」と
口々におっしゃっていました。
本日、この体験をされた方は護摩の炎により
心身の浄化をしていただいたことになります。
もちろん他の皆様のも
同じように浄化をさせていただきました。
テレビでは相変わらず、新型コロナの話、
不倫の話など不快な気持ちになりがちです。
我々の魂は知らず知らずのうちに
穢れているのです。
浄化を心掛けましょう。
南無大師遍照金剛
信者様の皆様には、大変お待たせいたしました。
明日は、皆様とご一緒に明日の
月次祭・命光秘流不動護摩供を厳修できますことに
関係者一同、喜びを感じております。
皆様のお参りを
楽しみにお待ち申し上げております。
「人を呪わば穴二つ」というコトワザがございますが、
ご存知でしょうか。
若い方は、聞いたことがないかもしれませんね。
まず、穴ってなんですか?と聞かれそうですが、
穴とは、
亡くなった人を埋葬するために掘った穴のことです。
陰陽師の時代は、人を呪うという
呪術をかけるという事がよく行われていたようです。
呪いをかけられた相手が死んで埋葬する穴が、ひとつ。
そして、呪術師が呪い返しにあい、
死んでしまうと仮定してその埋葬する穴がひとつ。
今の時代でも神社やお寺で盛んに祈祷が行われておりますが、
最近は、個人の願望を叶えるためのご祈祷に代わっているのではないでしょうか。
一時の拝み屋さんと言われる方の中には、
呪いを商売にしているところもあるようですが…。
核家族になり、ご先祖様に手を合わすという習慣がなくなると同時に
目上の人(祖父母)と一緒に生活するということもなくなりました。
その結果
大家族では当たり前であった他人を思いやるという習慣は、
いつしかなくなり
個人主義が優先される時代となりました。
いまや、個人主義を利己主義と勘違いする人が多く、
自分の意見と違う人をみれば、
クレームをつける。やめさせる。という
おかしな人間が増えております。
当山にも人間関係で悩んでご相談をよせられる方が多くございますが、
相手が悪くなるという祈祷はお受けしておりません。
当山では、こういう場合、
相手も自分も良くなるという修法をお授けしております。
最近では、ご近所さんのトラブル問題を解決いたしました。
南無大師遍照金剛
今から40年ぐらい前に「Sachiko」というばんばひろふみさんの歌がありました。
いい歌ですね。
知らない人は調べてください。
確か歌い出しが
「幸せを数えたら片手にさえ余る 不幸せ数えたら両手でも足りない」だったでしょうか?
確かに幸せだと思って毎日暮らしている人はどれぐらいいらっしゃるでしょう。
それは今ある幸せに満足せず、
次々と欲がでてしまう、
今流行の「煩悩の塊」のせいなのかも知れませんね。
幸せを数えて暮らしていれば、不幸を数えなくなります。
将来の幸せを信じると、不安にならなくてすみます。
南無大師遍照金剛