”ばっきん”のブログ

日常生活中心のブログです。
平成28年9月から妻と息子、母の4人で暮らしています。

初めて交響曲を生で聴いたのは・・・

2010年08月25日 23時13分15秒 | 想い出
ボクが初めて,生のシンフォニー・オーケストラを聴いたのは,昭和46年9月14日,函館市民会館においてで,中学校2年生の時である。
当時,同じく音楽好きのF君に誘われて行ったのだが,演奏者は,小澤征爾指揮の日本フィルハーモニー交響楽団。
この公演は,札幌の北海道厚生年金会館落成記念の一連であり,STVの主催。
演奏曲目は,前半はモーツァルトの「フィガロの結恨」序曲,小澤自身のナレーションでプロコフィエフの「ピーターと狼」,そして後半はベルリオーズの「幻想交響曲」であった。
日本フィルは,この後新日本フィルと分裂をするのだが,このときの演奏は分裂前の充実した時期で,聴けたことがラッキーだなと今もって思っている。
さて,今でこそマエストロとして確固たる地位を築いている小澤だが,当時はサンフランシスコ交響楽団の音楽監督にありながら,必ずしも正当な評価は日本国内において得られていなかったと思う。
いわゆるあるべき峻厳な相貌とは無縁で,保守的クラシックファンには受け容れられなかったのであろう。
舞台袖から急ぎ足で登場し,指揮台に飛び乗る仕草や,指揮そのものも自由奔放な姿に映り,かえって気むずかしさからは衆愚の存在だったのだろう。
曲の出来そのものの良し悪しは中学生のボクには到底理解できなかったが,第4楽章,第5楽章は大変興奮したことを覚えている。
生きた音楽がここにある。・・・とその時は感じた。曲そのものも好きになり,直後にクリュイタンス指揮のフィルハーモニア管弦楽団のLPレコードを購入したものの,実演の感動とはかなりかけ離れたものだった。
以来,幻想交響曲はボクのお気に入りの曲で現在CDも14種くらいあります。
でも,今のお気に入りは,小澤とは正反対の演奏と思えるピエール・ブーレーズ指揮ロンドン交響楽団のもの。
普通は,ベートーヴェンの「運命」あたりから入るところが,ベルリオーズというところがボクの偏屈趣味に拍車をかけることになる。
ちなみに,この曲の主人公とされる若き芸術家は,まさにボク自身の投影である。

1杯の月見そば

2010年08月23日 23時10分47秒 | 想い出
昨日はそばを話題にしたが,ついでに思い出話を披瀝したい。
一昔前,「一杯のかけそば」という美談が一世を風靡したことがあった。
人には誰にでも,節目節目に思い出の食事があることが多い。
で,僕の場合は「かけそば」ならぬ「月見そば」。
母方の祖母が脳梗塞で倒れ入院したのはおよそ40年前だったと思うが,入院したところが中島町の共愛会病院,そこに確かひとりで見舞いにいったことがある。
その日は,祖父(正しくは養祖父なのだが,血がつながっていなかったことはそのころは知らなかった)も見舞っており,帰りは一緒に病院を出て,堀川町電停まで歩いてきたのだが,その時電停近くの長寿庵に入って,初めて二人きりで食べたのが月見そばだった。
祖父とは後にも先にもその1回だけの食事だったが,妙に忘れられない。
実は,月見そばは生玉子が崩れると,汁を全部飲まないともったいない気がする。(実に卑しい話だ)
しかし,まだ子供だった僕には飲み干すことができずに残してしまったことが,祖父に申し訳ないという悔いとなって今日に至っているのだろう。
その後,成長して月見そばを食べる時は汁を全部飲み干すことへの義務感に支配されてしょうがない。
さらに,歳を重ね現在に至るのであるが,今度は高血圧のせいで,あまり汁を飲めないようになるとやはり月見そばはなかなかチョイスできない代物となった。
別に美談でも何でもない・・・・・函館弁でいわゆる「ほいど」の話,一杯の月見そばでした。

僕の本籍地は,函館市松風町・・・でも,一度も住んだことはない

2010年08月21日 23時06分26秒 | 想い出
北島三郎の代表的なヒット曲はもちろん函館の女(ひと),その2番の歌詞には,「灯りさざめく 松風町は・・・」とある。
この曲が発売されたのは1965年,僕が小学校2年生の時だ。
高度経済成長まっただ中の活気のある時代で,およそ,健全なものも不健全なものも全てを包含して,日用品,グルメ,酒,女,歌すべての娯楽が一杯詰まった街だった。
実は,僕の本籍地はこの松風町であるのだが,いろいろ諸事情があって,一度も暮らしたことのない,住んだことのない町である。
大体僕ぐらいの年代だと,函館の中心は紛れもなく,大門・松風町だったと誰もが思うところのだ。
しかし,いまやシャッター通りを通り越して,建物すら無くなってしまい,空き地が目立つ。
「灯りさざめく」どころか,「暗闇にご用心」といったところだ。
今年は,やや観光が盛り返しているが,観光客の方々が思い描いてくる函館のイメージとはちょっと違和感があるかもしれない。
もちろん,今や観光の中心は西部・ウォーターフロント地区だから,夜の函館なんてどうでもいいだろうし,活性化なんて地元の人間だって懐疑的だ。
その原因のひとつが,僕の本籍地が松風町だということに関係がある。
松風町の興隆がピークに達した当時,店舗はあるが,居住空間はなく,郊外に家をもつ経営者が多かったこと。
仮に建物が自分のものであっても,借地が多いこと。
そうしたことが,常にスクラップ・アンド・ビルドの障害になってきたことだ。
それでも,大門・松風町での商売から離れることに抵抗を持っている人がいるから,細々でもかろうじて続いてる商業地区なのだ。
しかし,そうしたこの地にこだわりのない世代の消滅とともに,消え去るうんめいなのかもしれない。
新幹線開通後は函館駅だってどうなるかわからない。
その時を見据えて,「灯りの消えた松風町は・・・・」というフレーズを入れて,函館の男(ひと)という詩を創ろうかと密かに考えている。・・・・・・・・もちろん冗談。

函館にも映画館の栄華な時代があった

2010年08月16日 22時59分49秒 | 想い出
現在,函館市には2つの映画館しかない。松風町の「シネマ太陽函館」と本町の「シネマアイリス」である。
私の小学校時代、住んでいた湯川町に、「湯川公楽」という二番館があった。
新川町昭和通りにあった「文化劇場」との姉妹館で同じプログラムでした。
母が映画好きだったせいもあり、市内の映画館にはよく連れて行ってもらったものでした。
ただし、「湯川公楽」に来るのは大体、日活や東映、松竹、大映といった日本ものが多かったです。
子ども向けの「怪獣物」には熱狂しました。
われわれの世代で言えば、「ゴジラ」,「モスラ」,「大魔神」や「ガメラ」でしょう。
とにかく、住んでいたところから約100メートル、今の北洋銀行の1軒おいて終点側、現在のグルメシティがそうであります。
もちろん、洋画もあったのですが、何せ字幕が読めない。
子ども向けの「ディズニー物」なんかは、大森町の巴座でなければやっていませんでした。
今思うと、昔の映画館には郷愁がありました。
特に、白黒のニュース映画、あれ結構気に入っていたんです。
それと幕間の市内の商店等のCMスライド、これも懐かしい。
そして、映写機のあのまわる音、、、あれこそが映画の醍醐味、ビデオ映画では絶対に味わえない寂寥感にも似た空気がありました。
そして、大事なのは、そこで飲むジュースとポップコーンが重要なアイテムです。
昔は、映画は2本か3本立てが当たり前、それを少なくても2回は見てましたからねぇ。
テレビの普及とともに,つまり私自身の成長過程で逆転していった現象が,映画館の衰退です。
しかし,それは何もハード的なものだけではなかったような気がします。
同じ場所に一堂に集まり,同じ楽しみを共有する・・・つまり,価値観の共有の時代から,家族単位・個人単位の価値観の獲得への変化がそれでした。
1 映画は家族・あるいは友達や恋人と観るもの,
2 映画は一人で楽しむもの と2つの意見がありますが,
現在の私は明らかに後者にならざるを得ない,映画でなくても,テレビでも同じなのですが,楽しみを共有する連帯感の不足が,不安定な現在の社会の精神構造の歪みとなっているのではないでしょうか?

私の記憶している市内の映画館は下記のとおり,もちろんこれ以前には,もっとあったようですが,函館市内にお住みの皆さん,どれだけ覚えていますか?

「東宝公楽」,「大映」,「巴座」,「日活」,「東映」,「帝国館」,「有楽座」,「大門座」,「映劇」,「近代テアトル」,「名画座」,「ロマン座」,「セントラル」,「フランス座」(当時は映画もやっていたみたい,もちろん私は観ていない)・・・以上大門・駅前地区
「銀映座」・・・十字街,「文化劇場」,「中央座」・・・昭和通り,「東劇」・・・本町,そして「湯川公楽」・・・湯川町の19館が新聞の映画館情報に搭載されていたのです。

ホームシアターも夢のような特別のものでなく,現実のものとなりましたが,やはり家庭では味わえない大スクリーンと大音響こそ映画の醍醐味でしょう。

おまけに・・・かつて大門地区にサウナメトスがあったころ,同店内に寝ながら観ることができるシアターがありました。就職してからはもっぱらそれに頼っていましたが,それすらも今はない。

映画館が栄華な時代は,函館も栄華な時代だったのかもしれません。