先週末にいつものように『レコード芸術』を買いました。今月の特集は、ピアニストのランキングでした。よく指揮者でこの手の記事は見ますが、ピアニストということで新鮮な気持ちで見ました。まあランキングなんかどうでもいいのですが、ペライアとバレンボイムが70位と、かなり低いのが驚いたくらいでした。で、まあほうほうと思いながら中で、注目したのが、ルドルフ・ゼルキンでした。堂々10位でしたが、この人ってあまり聴かないなあ、と。そうだ、この人の演奏を聴いてみようと思い立った次第です。
しかし、聴かないなあ、と言うくらいですから、それほどCDも持っていないのです。まあ、それもベートーヴェンのソナタ全集とか、けっこうまとまった形での録音が残せなかったのか、そんなことにあまり関心を持たなかった人なのかは、よくわかりません。現在入手できるCDもそれほど多くないようでありました。そんな私の所有CDの中から取り出したのが、クラウディオ・アバドと録音した、モーツァルトのピアノ協奏曲集でありました。
このモーツァルトのピアノ協奏曲は、ゼルキンの最晩年の録音です。これは80歳代となったゼルキンが、1981年から88年までに、15曲を録音したものです。全曲の録音にならなかったのは、1991年に亡くなるための高齢ゆえのことでしょうか。まあ、残念といえばそうですが、ちょうどDGから、このシリーズが発売されていたころを知っておりますので、妙に懐かしい気持ちでありました。その15曲の中から、ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466。アバド指揮のロンドン交響楽団。1982年の録音であります。
まず、ゼルキンの唸り声がたいそううるさい。意識しなかったらそうでもないかもしれませんが、これってけっこう聞こえます。最初はなんやらわからんかったのですが、確かに唸り声。最初からさいごまで断続的に聞こえます。そんなことはさておき、まずアバドの指揮なんですが、アバドの演奏、私は好きです。このひとほどオケから美しい音を引き出せる人はいない、もしくは私がアバドの引き出す音が好きだからそう思うのか、それは微妙ですが、ロンドン響から実に美しい音色を引き出しています。アバドの指揮はいいです。これに対して、ゼルキンのピアノ、昔1980年代の録音されたころは、あまり好ましくは思っていませんでした。まず、ゼルキンのルバードがどうも馴染めない。これはルバートどころか指が回っていないのでは、と思うほどでした。加えて強弱が極めて恣意的に聞こえたのです。これらは今改めて聴くと、それほどには思いませんでした。アバドもゼルキンのピアノに合わせるのは大変なんかな、と思ったりしますが、まあアバド頑張れ、ってことで…。
まず、第1楽章、ロンドン響の響きは非常に滑らかで美しい。そしてゼルキンのピアノが登場。私には我が道をいくピアノと思ってしまう。しかし、このピアノはおもしろいし、こんな演奏は今ではできない、と思う。そして全体から思うのは、堂々として威厳に満ちたそびえたつモーツァルトでした。第2楽章でも、優しげや微妙なタッチでの表情などとは無縁で、実に恰幅のいいピアノ。曲が進むにつれてその印象は強くなっていき、これまでのどの演奏にも聴けなかったようなモーツァルトがそこにはありました。この楽章以降、ゼルキンの演奏に対して、大きな共感を持ってきました。そして、第3楽章。先の楽章での演奏に感じていたことが、確信となる。力強くスケールの大きな男性的で堅実な演奏には、うんうんとうなずき、オケとの問題もまったくきにならなくなるのでありました。
しかし、15曲の協奏曲が7枚組で販売されているのですが、このBOXにはゼルキンやアバドとアルファベットで表記さてれています。しかし、この字のちゃらいこと。なんですかこれは、という印象を持ちます。この字にはどんな意味があるのか、私にはわかりませんでした。
(DG 477 5214 collectors edition 2006年 輸入盤)
しかし、聴かないなあ、と言うくらいですから、それほどCDも持っていないのです。まあ、それもベートーヴェンのソナタ全集とか、けっこうまとまった形での録音が残せなかったのか、そんなことにあまり関心を持たなかった人なのかは、よくわかりません。現在入手できるCDもそれほど多くないようでありました。そんな私の所有CDの中から取り出したのが、クラウディオ・アバドと録音した、モーツァルトのピアノ協奏曲集でありました。
このモーツァルトのピアノ協奏曲は、ゼルキンの最晩年の録音です。これは80歳代となったゼルキンが、1981年から88年までに、15曲を録音したものです。全曲の録音にならなかったのは、1991年に亡くなるための高齢ゆえのことでしょうか。まあ、残念といえばそうですが、ちょうどDGから、このシリーズが発売されていたころを知っておりますので、妙に懐かしい気持ちでありました。その15曲の中から、ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466。アバド指揮のロンドン交響楽団。1982年の録音であります。
まず、ゼルキンの唸り声がたいそううるさい。意識しなかったらそうでもないかもしれませんが、これってけっこう聞こえます。最初はなんやらわからんかったのですが、確かに唸り声。最初からさいごまで断続的に聞こえます。そんなことはさておき、まずアバドの指揮なんですが、アバドの演奏、私は好きです。このひとほどオケから美しい音を引き出せる人はいない、もしくは私がアバドの引き出す音が好きだからそう思うのか、それは微妙ですが、ロンドン響から実に美しい音色を引き出しています。アバドの指揮はいいです。これに対して、ゼルキンのピアノ、昔1980年代の録音されたころは、あまり好ましくは思っていませんでした。まず、ゼルキンのルバードがどうも馴染めない。これはルバートどころか指が回っていないのでは、と思うほどでした。加えて強弱が極めて恣意的に聞こえたのです。これらは今改めて聴くと、それほどには思いませんでした。アバドもゼルキンのピアノに合わせるのは大変なんかな、と思ったりしますが、まあアバド頑張れ、ってことで…。
まず、第1楽章、ロンドン響の響きは非常に滑らかで美しい。そしてゼルキンのピアノが登場。私には我が道をいくピアノと思ってしまう。しかし、このピアノはおもしろいし、こんな演奏は今ではできない、と思う。そして全体から思うのは、堂々として威厳に満ちたそびえたつモーツァルトでした。第2楽章でも、優しげや微妙なタッチでの表情などとは無縁で、実に恰幅のいいピアノ。曲が進むにつれてその印象は強くなっていき、これまでのどの演奏にも聴けなかったようなモーツァルトがそこにはありました。この楽章以降、ゼルキンの演奏に対して、大きな共感を持ってきました。そして、第3楽章。先の楽章での演奏に感じていたことが、確信となる。力強くスケールの大きな男性的で堅実な演奏には、うんうんとうなずき、オケとの問題もまったくきにならなくなるのでありました。
しかし、15曲の協奏曲が7枚組で販売されているのですが、このBOXにはゼルキンやアバドとアルファベットで表記さてれています。しかし、この字のちゃらいこと。なんですかこれは、という印象を持ちます。この字にはどんな意味があるのか、私にはわかりませんでした。
(DG 477 5214 collectors edition 2006年 輸入盤)
アバドは以前、佳い演奏はメンデルスゾーンのイタリアぐらいしかないと思っていたのですが、よく聴いていなかったんだと、最近非常に反省しています。おっしゃるように、非常にしなやかで美しい演奏をする指揮者だと思います。
ゼルキンとのモーツァルトは聴いてみたいですね。