先週から風邪気味で、ほぼ一週間走れておりません。喉の痛みや倦怠感くらいしか症状はないのですが、それなりに不快です。それでも週末には京都へ。京博の『法然と極楽浄土』展をみて、百万遍知恩寺、極楽真正寺、金戒光明寺などの浄土宗寺院をまわってきました。あたりまえですが、京都のこれらの寺院には、信者の方がたくさん来られており、京都の寺院へ信仰の篤さを再認識しました。加えて、京都の浄土宗の寺院の多さも実感しました。今頃何を、ですが…。
何とか風邪を治さねば、とおもいつつ、今回はマーラーであります。交響曲第6番イ短調ということです。先週、西宮芸文の定演でこの曲が取り上げられていたのを聞き、久しぶりに聴きました。マーラーの曲って、なんだかわけわからないな、と思う曲がそれなりにありますね。3番もそうですし、5番、7番も曲全体を聴くにつけ、私に取っては難解。でもそれほど深く考えないし、考えなくてもあまり影響がないのが、マーラーのいいところかも知れません。
この第6番は、それなりに4つの楽章の起承転結的にその有機的関連を理解しやすいですね。簡単に言うと、第1楽章で提示されたことが、第2楽章でより深化される。第3楽章でしばしの平安や苦悩が現れ、第4楽章ではそれが解決または昇華されていく、ってまあよくある理解ができますね。これまでもそんな感じで聴き、それなりに理解していました。4楽章からなる音楽の定番的な理解ですかねえ。
しかし、近年この6番については、第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテが、逆になる演奏が増えているんですね。出版されたときは、従来型だったのがウィーン初演では逆になり、メンゲルベルクがマーラーの妻アルマに尋ねるとやはり従来型という答が帰ってきたことから、1963年に国際マーラー教会は、従来型が正しいとしました。その後、2003年には、ウィーン初演は、実は逆であったとし、アンダンテ、スケルツォの順が正しいとされました。
そんなことで、近年の演奏はこの型が多いようですね。でも、ベートーヴェンの合唱や、ブルックナーの8番、9番のように従来型が耳に馴染んで来たことも加えて、どうも従来型の方が私的にはしっくりくるように思うのでありました。しかし、今回取り上げるクラウディオ・アバド指揮BPOの演奏は、逆の形であります。これは2004年6月のベルリンのフィルハーモニーでのライブ録音。アバドのこの曲は、1979年シカゴ響との演奏、2006年のルツェルン音楽祭でのライブ映像なども残っています。
アバドは、その壮年期がいわゆるマーラー・ブームの時期であったこともあるんでしょうか、かなり積極的にマーラーを演奏してきたように思います。そして、その演奏はBPO、VPO、シカゴ響などを駆使してのものであることからも、非常に緻密で完成度の高いものという印象があります。反面、いろんな意味で、すべてが「ほどほどの」なんですね。マーラーの情念の深さやドロドロしたところ、諧謔性など、それほどの深い表現ではなく、といって表面的でもなく、どれも「ほどほど」なんですね。それがもの足りないというわけではなく、そういう演奏なんですね。それゆえ、マーラーが非常に素直に受け入れられる。加えてBPOの優れた合奏力も余分な贅肉を削ぎ落として、とてもスタイリッシュ。難なく素直に受け入れられるマーラーなのであります。もうドロドロのマーラーの時代ではないのでしょうかねえ。
第1楽章、非常に透明感のある演奏。やはり所々にBPOの優れた力が垣間見える。たいそう各楽器が生き生きと存在感をもっての演奏は、やはり凄い。そんなマーラーに普遍的な良さを感じますね。第2楽章アンダンテ。この楽章は、マーラーの書いた最も美しい音楽。これをアバドがBPOの磨き上げた演奏で歌い上げる。非常に美しく、抒情的であります。弦と木管が美しいのでありました。私的には、ここではスケルツォであってほしいのですがね。そして、第3楽章ここでスケルツォ。もっとドタバタもあり、と思うのですが、アバドは中庸かな。でも、この楽章の演奏にこそ、BPOの巧さを感じますねえ。そして、終楽章。約30分近くになる長丁場。アバド
の演奏、緊張感を持続させ、とても心の籠もったものですね。聴くたびに、この充実ぶりに納得させられます。二度にわたるハンマーの強打も効果的であります。なんとなく終曲の後は、爽快感をも感じるのでありました。
今日は、兵庫県知事選挙でした。誹謗中傷や虚言等が飛び交い、変な人も立候補し、混迷を極めた選挙戦でした。これでこの選挙以上に混迷を極めた県政に一応の決着がつきますかね。そうあってほしいものであります。
(DG 477 5573 2005年 輸入盤)
何とか風邪を治さねば、とおもいつつ、今回はマーラーであります。交響曲第6番イ短調ということです。先週、西宮芸文の定演でこの曲が取り上げられていたのを聞き、久しぶりに聴きました。マーラーの曲って、なんだかわけわからないな、と思う曲がそれなりにありますね。3番もそうですし、5番、7番も曲全体を聴くにつけ、私に取っては難解。でもそれほど深く考えないし、考えなくてもあまり影響がないのが、マーラーのいいところかも知れません。
この第6番は、それなりに4つの楽章の起承転結的にその有機的関連を理解しやすいですね。簡単に言うと、第1楽章で提示されたことが、第2楽章でより深化される。第3楽章でしばしの平安や苦悩が現れ、第4楽章ではそれが解決または昇華されていく、ってまあよくある理解ができますね。これまでもそんな感じで聴き、それなりに理解していました。4楽章からなる音楽の定番的な理解ですかねえ。
しかし、近年この6番については、第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテが、逆になる演奏が増えているんですね。出版されたときは、従来型だったのがウィーン初演では逆になり、メンゲルベルクがマーラーの妻アルマに尋ねるとやはり従来型という答が帰ってきたことから、1963年に国際マーラー教会は、従来型が正しいとしました。その後、2003年には、ウィーン初演は、実は逆であったとし、アンダンテ、スケルツォの順が正しいとされました。
そんなことで、近年の演奏はこの型が多いようですね。でも、ベートーヴェンの合唱や、ブルックナーの8番、9番のように従来型が耳に馴染んで来たことも加えて、どうも従来型の方が私的にはしっくりくるように思うのでありました。しかし、今回取り上げるクラウディオ・アバド指揮BPOの演奏は、逆の形であります。これは2004年6月のベルリンのフィルハーモニーでのライブ録音。アバドのこの曲は、1979年シカゴ響との演奏、2006年のルツェルン音楽祭でのライブ映像なども残っています。
アバドは、その壮年期がいわゆるマーラー・ブームの時期であったこともあるんでしょうか、かなり積極的にマーラーを演奏してきたように思います。そして、その演奏はBPO、VPO、シカゴ響などを駆使してのものであることからも、非常に緻密で完成度の高いものという印象があります。反面、いろんな意味で、すべてが「ほどほどの」なんですね。マーラーの情念の深さやドロドロしたところ、諧謔性など、それほどの深い表現ではなく、といって表面的でもなく、どれも「ほどほど」なんですね。それがもの足りないというわけではなく、そういう演奏なんですね。それゆえ、マーラーが非常に素直に受け入れられる。加えてBPOの優れた合奏力も余分な贅肉を削ぎ落として、とてもスタイリッシュ。難なく素直に受け入れられるマーラーなのであります。もうドロドロのマーラーの時代ではないのでしょうかねえ。
第1楽章、非常に透明感のある演奏。やはり所々にBPOの優れた力が垣間見える。たいそう各楽器が生き生きと存在感をもっての演奏は、やはり凄い。そんなマーラーに普遍的な良さを感じますね。第2楽章アンダンテ。この楽章は、マーラーの書いた最も美しい音楽。これをアバドがBPOの磨き上げた演奏で歌い上げる。非常に美しく、抒情的であります。弦と木管が美しいのでありました。私的には、ここではスケルツォであってほしいのですがね。そして、第3楽章ここでスケルツォ。もっとドタバタもあり、と思うのですが、アバドは中庸かな。でも、この楽章の演奏にこそ、BPOの巧さを感じますねえ。そして、終楽章。約30分近くになる長丁場。アバド
の演奏、緊張感を持続させ、とても心の籠もったものですね。聴くたびに、この充実ぶりに納得させられます。二度にわたるハンマーの強打も効果的であります。なんとなく終曲の後は、爽快感をも感じるのでありました。
今日は、兵庫県知事選挙でした。誹謗中傷や虚言等が飛び交い、変な人も立候補し、混迷を極めた選挙戦でした。これでこの選挙以上に混迷を極めた県政に一応の決着がつきますかね。そうあってほしいものであります。
(DG 477 5573 2005年 輸入盤)
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