読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

寺田寅彦と中谷宇吉郎・・・師弟ふたりの名随筆を、コンパクトで洒落た一冊に仕立てた『どんぐり』

2022-06-26 17:06:00 | 本のお噂

『どんぐり』
寺田寅彦・中谷宇吉郎著、山本善行撰、灯光舎(灯光舎 本のともしび)、2021年


5月の連休を使っての、2年半ぶりの倉敷旅行。そのご報告は、先月(5月)から今月はじめにかけて、当ブログで5回にわたり綴ってまいりました(長ったらしいそのご報告を、最初から最後までお読みいただいた皆さま、本当にありがとうございます)。
その倉敷旅行の初日、昔ながらの町屋が立ち並ぶ本町通りのはずれにある古本屋「蟲(むし)文庫」さんに立ち寄りました(そのときのことは、倉敷旅行のご報告「その2」の冒頭にてお伝えしております)。そこで購入した本の一冊が、今回取り上げる『どんぐり』であります。
身近な現象から地球規模の物理現象までを探究し続けた寺田寅彦と、雪の結晶や人工雪の研究で大きな業績を上げた中谷宇吉郎。科学の世界における師弟関係にあり、ともに名随筆家でもあった2人の作品から3篇を選び、一冊にまとめたものです。撰者である山本善行さんは、京都の古書店「古書善行堂」の店主であり、古本と書物に関するエッセイストでもある方です。

本書の書名にもなっている寺田の作品「どんぐり」は、肺の病のために19歳という若さで亡くなった寺田の最初の妻・夏子と、その忘れ形見である娘の「みつ坊」への思いを綴った、初期の寺田随筆の代表作といえる名篇です。初出は、雑誌『ホトトギス』の明治38年4月号(師であった夏目漱石の『吾輩は猫である』の連載が始まった号でもありました)。
初産をひかえていた年の暮れ、夏子が吐血。しばらくの間、「よいとも悪いともつかぬ」容体が続いたものの、翌年になると少しずつ好転。ある日医者の許可を得た寺田は、夏子を伴い植物園に出かけることに・・・。その植物園へ出かけた日のことを、寺田は思い返します。
出かける前に時間をかけて髪をすき、じれったくなった寺田が「早くしないか」とせき立てると、年がいもなく泣き伏して「一人でどこへでもいらっしゃい」と拗ねたこと。植物園にあった凍った池で遊ぶ小さい女の子を見ながら発した、「あんな女の子がほしいわねえ」という「いつにない」ことば。そして、「おもしろそうに笑いながら」自分のハンカチだけでなく寺田のハンカチまでいっぱいにするくらいのどんぐりを拾ったこと・・・。そんな夏子の姿を綴った文章からは、寺田の愛惜の思いが伝わってきます。
そして夏子が亡くなったあと、六つになった娘の「みつ坊」を同じ植物園に連れて行くと、彼女も夢中になっておもしろそうにどんぐりを拾います。そこに「争われぬ母の面影」を見た寺田が語る、「始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくないものだ」という切なる思いが、読む者の胸に響いてきます。
寺田の随筆では、どちらかといえば寺田ならではのものの見方や批評精神を、明晰かつこなれた語り口で綴った大正以降の作品群が好みのわたしですが、この「どんぐり」は明治期に書かれた初期の作品の中でも、やはり別格といっていい輝きを持った、哀しくも魅力的な名篇だと思うのです。

本書の後半に置かれているのは、中谷宇吉郎の「『団栗』のことなど」。寺田の「どんぐり」の背景にはどのようなことがあったのかを、寺田の日記や書簡などをもとにしながら丹念に読み解いた作品です。
明治33年の暮れに吐血した夏子でしたが、年明け以降は順調に回復していたことが、寺田の日記からは読み取れます。ところが、ここで「「寺田寅彦」の生涯とその性格とに、重大な影響を残すような事件の発端が起った」ことを中谷は明らかにします。
夏子の病気を極端に恐れた寺田の父親が、夏子を寺田から引き離して療養させるという案を立て、夏子は東京から高知へと移され、孤独な療養生活を余儀なくさせられることとなったのです。のみならず、しばらくして生まれた「みつ坊」こと長女の貞子からも引き離されてしまいました。
さらに寺田自身も肺尖カタルと診断され、また別の土地での転地療養をする羽目となってしまいます。とはいえ、それは「とり立てて病気というほどでもなかったらしく」「気ままな保養をする程度」だったといい、「床に就ききりというのならばまだ諦めもゆくが、この程度の症状であったのに、「肺病」という文字だけのために、引き離されて暮さねばならなかった」と中谷は記します。「肺病」に対する過剰な恐れのために、最愛の家族が引き離されて療養生活を余儀なくさせられる状況・・・それはなにやら、昨今の新型コロナに対する過剰な反応が引き起こした、さまざまな悲喜劇と似ているように思われてなりませんでした。
中谷はさらに、病状が悪化していく中でさらに別の土地への転地療養をかさねることとなった夏子の悲劇や、寺田が「あまりに悲しい二人の生涯に、批判の眼を開」き、家族制度の弊害を論じるようになったこと、そして「どんぐり」の最後で「母の運命は繰り返させたくない」と寺田が望んだ「みつ坊」こと貞子の辿った境遇についても触れていきます。
亡妻に対する愛惜の念と、その忘れ形見である娘への切なる望みを綴った、寺田の「どんぐり」。その背後にあった悲しい事実を中谷の「『団栗』のことなど」で初めて知り、なんとも辛い気持ちになりました。

2つの作品のあいだに配されているのは、寺田の随筆「コーヒー哲学序説」。撰者の山本さんが「まさしくコーヒーブレイク」のために置いたというこの随筆は、亡くなる2年前の昭和8年に発表された晩年の作品です。
子どもの頃、薬用として飲まされた牛乳に入れたコーヒーの香味に心酔した思い出にはじまり、留学や旅行で滞在したヨーロッパ各地でのコーヒーとの出会い、そして銀座の喫茶店へコーヒーを飲みに行ったことといった、自身とコーヒーとの関わりが前半で語られます。
そして後半では、飲むと精神を高揚させる「興奮剤」としてのコーヒーについての話へと移ります。そして、人間の肉体と精神に影響を及ぼす点において、コーヒーは芸術や哲学、宗教とよく似たところがあると指摘した上で、以下のように語るのです。

「芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない」

寺田ならではの洞察と批評精神、そして文末で見せるさりげないユーモアとがあいまった「コーヒー哲学序説」は、後期の寺田随筆の傑作のひとつであり、わたしのお気に入りの一篇でもあります。

本書『どんぐり』は、撰者である山本さんが企画した「灯光舎 本のともしび」というシリーズの第一弾です。
「読んだあとに誰かに伝えたくなるような随筆、代表作とはまた違った一面が見られる小説、何度も読み返したくなる美しい文章、そのような作品をシンプルな装幀で本読み人に届けたい」(「撰者あとがき」より)という思いから企画されたシリーズ「本のともしび」。その第一弾である『どんぐり』は、70ページほどのコンパクトな内容ながら、とても丁寧で洒落た本作りがなされていて、紙の本を読むことの愉しみと喜びを与えてくれます。
表紙をめくると、シリーズのマークとなっている燭台のイラストが左上にあって、さらにそれをめくると、「ともしび」の部分が切り抜かれていて、そこが書名や著者名が記された扉の色となっている趣向に、にんまりといたしました。



『どんぐり』のあと、田畑修一郎『石ころ路』と中島敦『かめれおん日記』の2冊が「本のともしび」として刊行されております。その2冊も読んでみようかなあ、などと思っております。

【わしだって絵本を読む】 意表を突く見立てとミニチュアが生み出す、シュールでどこかリアルな世界が楽しい『くみたて』

2022-06-19 23:22:00 | 本のお噂

『くみたて』
田中達也作、福音館書店(日本傑作絵本シリーズ)、2022年


日常生活でお馴染みのモノとミニチュアを組み合わせ、アッと驚くような「見立て」による風景ジオラマ世界を創り上げる、ミニチュア写真家&見立て作家の田中達也さん。
国内外での展覧会を多数開催するほか、2017年に放送されたNHK連続テレビ小説『ひよっこ』のタイトルバックを手がけるなどの活躍で多くの人びとを魅了し、作品をまとめた写真集も何冊か出版。350万人を超えるフォロワーを持つInstagramのアカウントでも、毎日のように作品を発表し続けておられます。その田中さんがはじめて出した絵本が、この『くみたて』です。

ミニチュアで作られた、揃いのつなぎを身につけた4人の人たちが、分解された洗濯ばさみを組み立てていきます。完成すると、はさみを繋ぎ止める金属のリングがブランコになっていて、女の子が楽しそうに遊んでいます。その前には、順番を待っている子どもたちがズラッと並んでいて、「わたしもー!」「次はぼくねー!」みたいな声が聞こえてきそう。そんな様子を、どこか満足げに眺めているつなぎの4人組・・・。
本書『くみたて』はこんな具合に、分解された身近なモノを組み立てながら、意表を突いた「見立て」によるさまざまなジオラマ世界を展開させていきます。タイトルの『くみたて』には、「組み立て」と「見立て」という、2つの意味が掛け合わされているというわけです。

身近にあるモノを意外な存在に変身させる、田中さんの「見立て」のセンスはまことに素晴らしく、驚きの連続でありました。ありふれていて何の気もなく使っているテープカッターが、リゾートホテルのプールの飛び込み台や立食式のレストランに生まれ変わったり、リコーダーや鍵盤ハーモニカ(ピアニカ)などの楽器が組み合わさって、楽しそうなテーマパークが完成したり・・・。
日常でお馴染みのモノが、スケールの大きな風景へと組み込まれることによって生まれる驚きとシュールさ、そして軽やかなユーモアにあふれた世界が、ここにはあります。しまいには、あっと驚くようなモノまでが「見立て」の対象となっていて、「やるなあ」と唸らされました。
そんな「見立て」世界の楽しさを引き立ててくれるのが、田中さんの高度なミニチュア制作の技術です。それぞれの場面に登場する人物たちのフィギュアや、彼ら彼女らが使うさまざまな道具類、木々などのミニチュアがしっかりと作られ、巧みに配置されることで、シュールでありながらもどこかリアル感もある、田中さん独特の世界が展開されています。

もともと、ミニチュアやジオラマ的なものが好きなわたしとしては、実に楽しい一冊でありました。同時に、ああそういえばオレも子どもの頃、いろんなモノを何かに見立てて遊んでたなあ・・・なんてことを思い出したりして、ちょっと童心に戻ったような気分も味わえました。
本書のカバーの袖部分には、登場したつなぎの「くみたて」スタッフたちの紙製フィギュア8人分が印刷されていて、「きりとって、つかってね」と記されております(その下には、インスタで、読者による「見立て」写真を募集する告知も)。

これを見て、オレも何かの身近なモノや手持ちのミニカーと組み合わせて「見立て」遊びでもやってみようかなあ・・・などと一瞬思った50ウン歳のわたしでありました。

気負った若書きながら、早くも荷風文学のスタイルが確立された佳作『地獄の花』

2022-02-13 22:36:00 | 本のお噂


『地獄の花』
永井荷風著、岩波書店(岩波文庫)、1954年


もうすでに2年以上も経つというのに、社会はあいもかわらず、コロナコロナでおかしくなったままであります。
わが宮崎でも、〝感染拡大防止〟を錦の御旗にした「まん延防止等重点措置」とやらが先月(1月)から適用され、さらにそれが延長されるに至りました。旅行やレジャーはおろか、美味しいものを好きなように呑み食いできる楽しみまでもが、1ヶ月以上も奪われるという異常かつ理不尽きわまりない状態が続くことになります。感染力は高いものの、陽性者のほとんどは無症状か軽症にすぎない「オミクロン株」を相手に、社会は真っ当さと正気を失ったまま。
こんなおかしな状況が延々と続く世の中にあっては、こちらの精神までおかしくなってきそうです。実際ここ1ヶ月近くの間、ものを読んだり書いたりする意欲や気力も失せてしまっておりました。
こんなときには、確固とした自我とポリシーを持った書き手の書物を読んで、精神の活性化を図るに限ります。永井荷風は、わたしにとってそんな書き手の一人。ということで、まだ未読のままだった初期の作品『地獄の花』を読みました。

女学校の教師をしている園子のもとに、黒淵家の息子の家庭教師の話が舞い込んでくる。黒淵家は巨大な富を持ちながらも、それが公明正大な手段で得られたものではなかったことを理由に、世間からは白眼視され排斥されていた。はじめのうちは決断しかねていた園子だったが、黒淵家に出入りしていた知己で宗教家である男のたっての頼みもあって引き受けることに。黒淵家の置かれた境遇に同情を寄せるようになった園子は、その息子の教育に熱心に取り組んでいくが、やがて過酷なまでの運命のいたずらに翻弄されていくことに・・・。

明治35年、当時24歳だった荷風さんが文芸誌の懸賞小説の募集に応じて書き上げた長篇小説(とはいえ文庫本で100ページ少々という長さですが)で、この作品の出版により新進作家として認められることとなりました。
完全なる理想の人生を形造るためには、人間の持つ暗黒なる動物的な一面を研究しなければならない・・・と冒頭の一文で述べているように、本作は教育家や宗教家などといった、世間からは「崇高な人格者」とされている人間たちが持つ欺瞞や醜悪な俗物性を、容赦なく暴き出していきます。その語り口はまことにストレートすぎていて、若書きらしい青臭さが感じられるのは否めません。
ですが、コロナ騒ぎで明らかにされた、権威や世間体、キレイゴトの裏にある世の中の偽善や欺瞞に嫌気が差しまくっていた今のわたしには、いささか気負っていて青臭い本作の語り口が、想像以上に気持ちに響いてまいりました。
とりわけ魅力的に映ったのが、黒淵家の娘である富子という人物でした。本家から離れ、ひとり向島の別荘に住む富子は、世間における体面や名誉といったものをとことん否定し、自由な生き方を志向する気高い女性として描かれています。その富子が語る人生観が実にいいのです。
(以下、引用文はあえて旧字旧仮名のままとします。カッコ内は引用者による補足です)

「社會から受ける名譽とか名望とか云ふものは果たして何であるか。名望を得やうと思つたら、表面の道徳とか道義とかを看板にして、愚にもつかない事にまで自分の身を欺く偽善者にならねば成らぬ。其様(そんな)事より世の中から卑まれ退けられた自由の境に、悠々として意(こころ)のまゝに日を送る方が何(ど)れ程幸福で愉快で、そして又心に疚(やま)しい事が少いか」
「自分はもう世の中は馬鹿々々しいものである、何様(どんな)美しい名誉の冠を戴いて居やうが、其は皆見せかけばかりであると云ふ事を悟りきつて、自分は自分である。世間は世間である。自分は世間の評判なぞには決して心を向けずに自分の爲(し)たいと思ふ事を少しの遠慮もなく自由に振舞つて行けば可い」

浮薄な名誉や世間体を排する、凛とした痛快さに満ちた富子の語りには、荷風さん自身の人生観が反映されているようで興味深く思われました。
過酷なまでの運命のいたずらによって、園子は身も心も傷つけられていきます。それでも園子は、富子や黒淵家の息子・秀男とともに、「世間が云ひ囃す汚い地獄の中」で毅然として生きていく道を選びます。その決意表明がまたいいのです。

「今は如何なる汚行も自身を欺く事はない。人は此の自由自在なる全く動物と同じき境涯にあつて、而して能く美しき徳を修め得てこそ始めて不變(変)不朽なる讃美の冠を其の頭上に戴かしむる價値を生ずるのである。否始めて人たる名稱(称)を許さるゝのである」

運命に翻弄されながら、それでも前を向いて生きていこうとする女性像。「成功者」「人格者」などとして世間で持て囃されている存在ではなく、むしろ世間から疎まれ、蔑まされている存在に人間としての価値を見ようとする姿勢・・・。それらは、のちの荷風さんの作品群にも共通して見られる要素でしょう。
『地獄の花』は青臭く気負った若書きでありながら、早くも荷風文学のスタイルを築き上げた佳作ではないかと思います。

【たまには名著を】 「精神のコレラ」に打ち克ち、真の幸福を実現するための羅針盤

2021-12-05 22:48:00 | 本のお噂


『幸福論』
アラン著、神谷幹夫訳、岩波書店(岩波文庫)、1998年


合理的・理知的なヒューマニズムに基づいた思想を展開していたフランスの哲学者アラン(1868ー1951)が、新聞に毎日連載し続けていた総数5000にのぼる哲学断章(プロポ)の中から、幸福に関する93篇を一冊にまとめたのが、この『幸福論』です。
数あるアランの著作の中で最も広く親しまれている本書は、ヒルティの『幸福論』やバートランド・ラッセルの『幸福論』と並ぶ「三大幸福論」としても名高く、岩波文庫版をはじめとしてさまざまな訳本が出されています。ひとつの項目が2〜4ページほどと短いうえ、語り口も実に平易なので、ちょっとしたスキマ時間を使って読むのにもぴったりでしょう。

アランは本書に収められたプロポの中で、気分や情念に囚われ、そこから生じる恐怖や怒りに振り回されることを、幸福を妨げる要因として繰り返し戒めます。そして、自らの意志によって幸福となることの大切さを説くのです。

「まちがっているのは、自分の考えが情念の言うなりになっていること、そしてどうにも手のつけられないような熱狂さで恐怖のなか、怒りのなかにとび込むことである。要するに、われわれの病気は情念によってもっと悪くなる」    (2 いらだつこと)

「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。否、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す。(中略)ほんとうを言えば、上機嫌など存在しないのだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである」                (93 誓わねばならない)

とかくわれわれは、ものごとを悲観的に捉えることを「高尚」だとみなす一方で、楽観的な姿勢をことさら低く見る傾向があります。それだけに、アランの「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」という指摘には、目を見開かされるような思いがいたしました。
わたし自身マイナスの気分に囚われ、それに振り回されてしまうことがしばしばあったりしますので、それを克服する意志を持つことで、真の幸福を目指さなければいけないなあ・・・と自戒するばかりです。

もう一つ、自戒としなければいけないなあと思わされたのが「泣き言」と題されたプロポです。
このプロポでは、ものごとが何もかも悪くなっていくかのように考えたり、言ったりすることの弊害が語られます。「もっとも賢い人」が大げさな言い方で巧みに自分をだまし、悲しみや絶望に陥ることは「まるで精神のコレラみたいに」伝染する病気だと、アランは言います。

「ことばはそれ自体においてとほうもない力をもっている。悲しみをあおるやら、増大させるやらして、まるで外套でも拡げたように何もかも悲しみで包み込んでしまうのである。そういうわけで、結果だったものが原因となる。ちょうど子どもが、自分で友だちをライオンや熊の姿に扮装させておきながら、その姿がほんとうにこわくなってしまうようなものである」

これもまた「たしかにそうだよなあ」と思わされるものがございました。悲しみや怒り、そして恐怖を煽るような大げさなことばは、自分自身のみならず他者に対してもマイナスの影響を与えてしまい、多くの人がそれに取り憑かれ、病んだ状態となってしまうのです。まるでパンデミックのように。
そんな伝染性のある「精神のコレラ」にも効きそうなヒントを与えてくれるのが、本書のプロポの中でもわたしがとりわけお気に入りの「あくびの技術」。アランはこの中で、あくびは疲労のしるしではなく、「おなかに深々と空気を送り込むことによって、注意と論争に専念している精神に暇を出すことである」と、あくびがもつ効用と価値を述べます。
そして、やはり人から人へと伝染することによってひどくなる、自分自身へのさまざまな拘束からなる「伝染性の儀式」に対する「伝染性の治療法」こそあくびなのだと、アランは主張するのです。

「どうしてあくびが病気のようにうつるのかとふしぎに思っている人がいる。ぼくは、病気のようにうつるのはむしろ、事の重大性であり、緊張であり不安の色であると思う。あくびは反対に、生命の報復であり、いわば健康の回復のようなものである」

この2年ものあいだ、長々とうち続いている新型コロナウイルスをめぐるパニック状態は、ウイルスそれ自体の広まりがもたらす害以上に、「専門家」と称される人々やマスメディアが発する大げさな物言いからくる不安や恐怖が、「精神のコレラ」のごとく伝染してしまったことにより引き起こされているように、わたしには思えてなりません。
アランが説いている「あくびの技術」は、そんなコロナパニックに対処するためのヒントにもなりそうです。おなかに深々と空気を送り込み、思いっきりあくびをすることで、不安や恐怖に対する「生命の報復」を見せつけてやることこそ、コロナパニックによる「精神のコレラ」に打ち克つ最良の治療法となり得るのではないか・・・と思いました。
以下に掲げる一節もまた、とても印象に残りました。

「社会の平和は、人と人との直接の触れ合いやみんなの利益の交錯や直接に言葉をかわし合うことから生まれるであろう。組合や法人団体のようなメカニスムとしての組織によってではなく、反対に、大きすぎも小さすぎもしない隣人の結びつきによって、である」
                           (32 隣人に対する情念)

コロナパニックにより、多くの「人と人との直接の触れ合い」が破壊され、奪われてしまいました。まずは、「大きすぎも小さすぎもしない隣人」との触れ合いや結びつきを取り戻すことで、少しずつであっても社会に平和を生み出していくことが大事なのではないか・・・そう感じました。

「精神のコレラ」に打ち克ち、真の幸福を実現するための羅針盤として、折に触れて読み直したい名著であります。
・・・と、ここまで書いたところで緊張がとけたからか、特大のあくびが立て続けに出てまいりました。さあて、今回はこのへんで終わりにして、お茶でも飲んで寝るとしようかなあ。


【関連おススメ本】

『幸福論』
バートランド・ラッセル著、安藤貞雄訳、岩波書店(岩波文庫)、1991年

アランの『幸福論』などとともに「三大幸福論」と称されるうちの一冊。こちらもまた、実に平易かつ理性的な語り口による幸福への処方箋であり、座右の書としてわたしを支えてくれる一冊でもあります。当ブログでも以前、詳しい紹介記事を書いております。→【閑古堂アーカイブス】わたくしに生きる力を与えてくれた名著③ B・ラッセルの『幸福論』
本書の中であらためて、いまのわたしの胸に響くものがあった一節を。
「不合理をつぶさに点検し、こんなものは尊敬しないし、支配されもしないぞ、と決心するのだ。不合理が、愚かな考えや感情をあなたの意識に押しつけようとするときには、いつもこれらを根こそぎにし、よくよく調べ、拒否するといい。半ば理性によって、半ば小児的な愚かさによって振りまわされるような、優柔不断な人間にとどまっていてはいけない」



【わしだって絵本を読む】『まっくろ』 子どもたちの想像力と個性の大切さを訴える、名作CMの絵本化

2021-11-28 07:33:00 | 本のお噂


『まっくろ』
高崎卓馬・作、黒井健・絵、講談社(講談社の創作絵本)、2021年


図工の時間。クラスのみんなが普通の絵を描く中で、一心不乱に画用紙全体を黒く塗りつぶしている男の子が。戸惑い、心配する周囲の大人たちをよそに、男の子は来る日も来る日も「まっくろ」な絵を描き続ける。やがてそれらが集められたとき、見えてきたのは・・・。

公共広告機構(現・ACジャパン)創立30周年CMとして製作され、2001年から翌年にかけて放映されるや大反響を呼び、内外から高く評価された秀作「IMAGINATION/WHALE」を、CMを手がけたクリエイティブ・ディレクターである高崎卓馬さんご自身が絵本化したものです。
(元となったCM自体も素晴らしい作品ですので、ぜひこちらでご覧になってみてください。→ https://youtu.be/SNv4hBbu8K4
絵を手がけたのは、数多くの絵本で人気のある黒井健さん。CMにおけるインパクトある表現とは異なった、どこか静謐なトーンで描かれた絵が魅力的です。
そして、子どもの想像力が世界を豊かなものにする、ということを示してくれる、 CMとはちょっと違うラストには、なんだか目頭と胸が熱くなってきました。

CMを見たときと同様に、この『まっくろ』を読んでいるときにも、わたしは主人公の男の子に激しく感情移入しておりました。子どものときから、他者に意思や感情を伝えるのがあまり得意ではなかったわたしも、自分の考えや思いが誰にも理解されないまま、もどかしさと孤独感を覚えたことが、もう何度も何度もありましたから。
しかし、それとともにある種の罪悪感のような思いも湧いてまいりました。大人の貧弱な想像力ではとてもかなわないほど、スケールの大きな想像力と豊かな個性を持っている子どもたち。なのに、それを理解できないまま(あるいはハナから理解しようともせずに)自分たちの狭い視野の考え方や常識を押しつけては、知らず知らずのうちに子どもたちの想像力と個性を押しつぶしてしまっているのではないか・・・と。

「自分の思いを好きなように出していっていいんだよ」と、子どもたちの背中を押してくれるとともに、その子どもたちのスケールの大きな想像力と豊かな個性を尊重し、それらをのびのびと伸ばしていくことの大切さを、わたしたち大人の心にも訴えかけてくる、力のある絵本です。