『神田神保町書肆街考 世界遺産的〝本の街〟の誕生から現在まで』
鹿島茂著、筑摩書房、2017年
2年あまり前の2015年10月。仕事の関係で東京に出向いた折に、かねてより望んでいた「本の街」神田神保町の探訪を実現することができました。
都道302号線、いわゆる靖国通りに沿ってずらりと古書店が立ち並んでいる光景を初めて目にして、胸が踊りました。歴史、理工学、映画演劇、サブカルチャー等々、それぞれの専門に特化した品揃えのお店を覗いて歩くのも実に楽しく、以前から欲しかった絶版の文庫本を見つけ出して買うことができたのも感激でした。また、古書店のみならず名高い新刊書店や出版社が集中していたのも圧巻でしたし、昼食に食べた老舗カレー店の「スマトラカレー」も美味しく、たかだか4時間ほどの滞在ではありましたが、まことにいい思い出になりました。
かくも古書店や新刊書店、出版社が密集する、世界的に見ても貴重な「本の街」はいかにして生まれ、どのように発展を遂げてきたのかを、近代日本の歩みを射程に入れつつ辿っていくのが、2018年最初に読んだ一冊となった『神田神保町書肆街考』です。
フランス文学の枠を超え、広範なテーマの著述活動を旺盛に展開しておられる鹿島茂さんが、膨大な文献の博捜による記述に神保町に暮らした経験をクロスさせながら、さまざまな側面から神田神保町の歴史を描き出した本書。足かけ6年にわたった筑摩書房の出版PR誌『ちくま』の連載をまとめたもので、A5判556ページにおよぶ、手応え抜群の労作であります。
神田神保町が「本の街」となっていくきっかけとなったのが、のちの東京大学と東京外国語大学の前身となる「蕃書調所」の開設です。幕末のペリー来航以降強まった外圧を受け、西洋の学問を研究すべく設けられたのが「蕃書調所」でした。
とはいえその開設には、当初からかなりの紆余曲折があったということが本書で語られます。最初は「洋学所」という無難な名称で設置計画が進められていたものの、当時の幕府の官許の学問であった朱子学を教える「昌平黌」(しょうへいこう。昌平坂学問所のこと)や幕府内の攘夷論者から横槍が入ったことで「蕃書調所」なるアナクロ的な名称にさせられた上(「蕃書」の「蕃」は「野蛮」の「蛮」とほぼ同じ意味)、設置場所も当時としては「辺境」だった九段坂下に追いやられることに。
その後「蕃書調所」から「洋書調所」に名称変更されると同時に、一ツ橋の門外にあった「護持院ヶ原」に移転することになるのですが、そこはそこで「大きな松の樹などが生い繁っている恐ろしい淋しい所で、追剝でも出そうな」場所という冷遇っぷり。しかしそれがのちに、東京大学として大きく発展していくことになり、ひいては文教都市、そして「本の街」としての神田神保町が形成されていくきっかけになったということを、本書で初めて知ることができました。
その後明治に入ると、上野の山に10校近くの専門学校を設けることが構想されたり、千葉県の国府台に東京大学以上の規模をもった「真の大学校」の建設が構想されたりと、文教都市としての神田神保町の存在を脅かす動きが持ち上がるのですが、いずれも実現することなく、結果としていまのような神田神保町が残ることになったのです。
鹿島さんはこのことについて「これぞ、神の配慮といわずしてなんであろうか?」と述べていますが、まさしく「奇跡」と言いたくなるような動きの連続によって、あの神保町が形成されたということに、わたしも感慨深いものを覚えました。
文教都市としての神田神保町を形成するのに寄与したのは、東京大学のような官学の大学だけではありません。もともとは法律専門学校として創立した明治大学や中央大学、専修大学、日本大学、法政大学といった私立大学、さらには駿台予備校といった予備校の存在も大きいものがありました。本書は、これら私立大学や予備校の来歴についても詳しく記述しています。
大学の集中により、教科書や参考書としての書物の需要が高まるとともに、学生たちが外食や遊興に使う「軍用金」を捻出する手段もまた求められていく・・・かくて神田神保町界隈にはさまざまな古書店が軒を連ねるようになり、世界的にも例のない「本の街」が形成されるに至ります。
神保町に古書街が形成されるようになった明治10年から20年代には既に、現在も新刊書店や出版社として事業を続けている有斐閣や三省堂、冨山房、東京堂といったところが、古書店として営業を初めておりました。本書はこれら書肆の沿革を繙きながら、「本の街」勃興期の神保町を描き出します。その中でもとりわけ面白く思ったのは、神保町で最も古い歴史を誇る有斐閣のエピソードでした。
学生相手に法学の古本を商う店として、明治10年に創業した有斐閣。その創業者である江草斧太郎は「とにかく変り者」の「一種の義侠家」だったそうで、客である学生たちを「友人」とみなし、彼らがお金に困っているとみるや、せっせとその面倒を見ていたとか。中には、名刺一枚で初対面の書生に貸して寄越したこともあったり、放蕩のあげく学費を滞納して、家からの仕送りも打ち切られて退学を命じられた学生の保証人を買って出た上、債権者の始末もつけてやったこともあったといいますから、その太っ腹ぶりには驚かされます。その一方で、学生たちの中から出世して各方面の権威になった者が現れると、執筆を依頼してそれを自社から出版するという、ちゃっかりした面もあったそうな。
その他の老舗書肆のエピソードもまた、それぞれに興味をそそられました。武家出身ながら商売に長けた夫と、ドイツ語や英語を一から学んでマスターしたという研究熱心な妻との「夫唱婦随、あるいは婦唱夫随」で商売を軌道に乗せ、英語辞書の成功で辞書出版にも確固たる足場を築いた三省堂。当時の翻訳で主流だったわかりにくい直訳調ではなく、だれにでもわかりやすい平易な文体で訳された翻訳教科書でヒットを飛ばした冨山房。すでに博文館により確立していた全国的販売網を活用して取次業に進出して、明治から昭和にかけて取次・小売・出版の三部門で発展を遂げた東京堂・・・。それら老舗書肆のエピソードからは、出版が熱かった時代の熱気と活況が伝わってきて、実に感慨深いものがありました。
もちろん、古書一筋に打ち込んできた書肆と、そこに生きた人物たちの逸話も見逃せません。中でも、本書後半の実質的な主人公としても特筆すべき存在なのは、神保町の古書業界の刷新者であり、その歴史の語り部でもある反町茂雄でしょう。
新潟に生まれ、子どもの頃から本に親しんでいた反町は、東大法学部を卒業すると一誠堂書店(現在も神保町で営業中)に住み込み店員として入店。修業時代は決して楽ではなかったものの、豊富な読書歴で培った知識と教養により頭角を現していきます。
やがて、反町は昭和恐慌により落ちた店の売上げを伸ばす方策の一環として外商の強化に乗り出します。最初はなかなかうまくは行かなかったものの、宮崎県(なんとわたしの地元!)の延岡市に新設された高等女学校から大口の注文が舞い込んだことをきっかけに、全国各地のさまざまな学校や図書館から大口の注文が相次ぐようになり、一誠堂の売上げ増加に多大なる貢献を果たしたのだとか。
こうして、1年もしないうちに番頭格の実力店員となった反町は、店員たちそれぞれが独自の基準でバラバラに値つけして仕入れていたのを改めるため、買い入れ係それぞれの買い入れ値を「査定」するという「古本教育」を始めます。こうして一誠堂は一種の「古本屋の学校」としての機能を果たし、事実その出身者が独立して新たな店舗を創業していったことが、神保町の隆盛を築くことになっていったのです。
鹿島さんは、反町によるこのような取り組みについて、「安く買い叩いて、高く売りつけるのが良い商人」という前近代的な通念が支配していた古書業界に、「公正さ」という近代的価値を導入しようと努力した、と評価した上で、このように語ります。
「もちろん、商業である以上、絶対的な適正価格というものは存在しない。そのときの時代状況次第で古本の価値は変動する。よって、古書店主や店員は相場というものを知らなければならないが、しかし、それ以上に古書の潜在的な価値を発見して、それを歴史資料、文学資料として文化的アーカイブの中に繰り入れるという文化的使命を自覚しなければならないのであるから、客の無知に付け込んで何でも安く買い叩くということは戒めるべきなのである。反町が古本屋業界に持ち込みたかったのは、こうした『文化的価値』としての古本屋(より正しくいえば古書店)なのである」
さらに反町は、一誠堂の店員たちと古典籍の勉強会を結成し、「商売気一切なし」の古典籍研究誌『玉屑』(ぎょくせつ)を発行するなど、その活動と業績には目を見張るものがあります。反町茂雄という人はまさしく、古書店の文化的価値を高め、確立させることに貢献した人物なのだということを、本書はしっかりと教えてくれました。
神田神保町の歴史を描き出す本書の視点は書肆にとどまらず、さまざまなトピックに及んでいます。その1つが、中華街(チャイナタウン)としての神保町の歴史を発掘した章です。
日清戦争後、年を追うごとに増えていった中国人留学生たちの「受け皿」となる教育施設をつくるべく、ときの外務大臣にして文部大臣だった西園寺公望が白羽の矢を立てたのが、柔道の生みの親である嘉納治五郎でした。嘉納はまず小規模の私塾を神田三崎町に開設し、それを発展させる形で大規模な学校「弘文学院」を設立。その第1期生として入学した一人に、のちに作家として名を成した魯迅もいた・・・という事実もまた、本書で初めて知ることができました。
さらに大正に入ると、その弘文学院で魯迅を教えた松本亀次郎が「東亜高等予備学校」(東亜学校)を神田猿楽町に設立。そこで学んだのが、若き日の周恩来でした。こうして神保町周辺には、中国人留学生を受け入れる日本語学校や留学生会館が集中するとともに、日本食が口に合わなかった留学生たちを相手にした中華料理店も続々と開業して(その中の何店かは現在も営業中です)、戦前の神田エリアはさながら「チャイナタウン」の様相をも呈していたのです。
そういった歴史を知ると、鹿島さんのいう「神田古書店街を世界遺産に!」というお言葉が、強い説得力をともなって響いてくるように感じられました。神田エリアは中国、そしてある意味では世界とも繋がっていた場所でもあるのですから。
そのほかにも、のちに東京大学となる「東京開成学校」の組織改革に高橋是清が裏から関わっていたことや、靖国通りの南側に古書店が集中した理由の考察、特攻に赴く前に神保町への思いを語ったインテリ中尉のエピソード、戦前の神田エリアに多く存在していたという劇場や映画館の歴史、さらには神保町が「決定的に変わる歴史的ターニング・ポイント」になったという昭和53(1978)年の中央大学移転と、その後に起こったスキー用品店の進出について(ここで見られる団塊世代に対するシニカルな見方にも、なんだかニヤリといたしましたが)などなど、挙げていけばキリがないくらいさまざまなトピックが詰め込まれていて、興味の尽きないものがありました。
まさしく、世界的に見てもまことに貴重な場所である神田神保町。その成り立ちと歴史を、鹿島さんは密度高く描き出していきます。時には執念深いほどの探究心で地名の変遷を追ったり、明治の書生たちの懐事情を探るべく当時の下宿代や飲食代といった物価の復元を試みたりと、細部まで疎かにしない姿勢に頭が下がります。その仕事ぶりはあたかも、精緻に編み上げられたタペストリーを思わせるものがあります。
そこから浮かび上がってきたのは、神田神保町というミクロコスモスの歴史が、近代日本の歩みと密接にリンクしていたという事実でした。その意味でも神田神保町は、末永く残っていて欲しい場所だとつくづく思うのです。
本書の中で、とりわけ印象に残るくだりが2つありました。ひとつは、すでに明治時代には存在していたという、露天の古本屋についての記述です。すずらん通りの露天古本屋で柳田國男の『遠野物語』に出会ったことから、研究対象を民俗学と思い定めたという折口信夫が綴った長詩などを引用しつつ語られるその光景には、たまらないくらいに風情を感じました。そしてもうひとつは、かつて神保町の露地裏にあったという、現代詩の詩人や戦後文学者たちが集っていたという喫茶店や酒場について語ったくだりです(これらがあった建物自体は、今もまだ残っているということですが)。現代詩には決して明るくはないわたしですが、ここに描かれている光景にも、なんとも惹きつけられるものを感じます。
もっと早く生まれていたなら、これらの光景が健在だった当時の神保町を歩き回ってみたかったなあ・・・ということを、しみじみ感じた次第でありました。
とはいえ、現在の神田神保町もまた、魅力的な場所であることには変わりありません。今年の秋ごろには、3年ぶりに東京に出かけて、今度はたっぷりと時間をとって神田エリアを散策する計画を立てているところです。
本書『神田神保町書肆街考』は、神田神保町再訪を目論むわたしにとっても、貴重な知見を授けてくれる得難い一冊となりました。