『ベストセラー全史【近代篇】』
澤村修治著、筑摩書房(筑摩選書)、2019年
時代から生まれ、時代をつくったベストセラーを網羅的に取り上げながら、それらが生まれた経緯や、ベストセラーになるに至った背景をエピソードとともに紐解いていく出版文化の通史『ベストセラー全史』。昭和戦後期から平成の終わりまでを扱った【現代篇】に続いて刊行された【近代篇】では時代を遡り、明治から昭和戦中期までを対象としています。
明治維新に日清・日露戦争、大正デモクラシー、関東大震災、長きにわたった戦争の時代、そして敗戦・・・。歴史が動き、社会も大きく変わっていった近代は、出版の世界も、現在につながる大きな質的変化を遂げていった時期でした。
出版社ー取次ー小売という流通システムの確立、返品ができず割引きで売りさばいていた買切り制から、返品可能で定価販売する現在の委託制へと移行していったのは、まさにこの時期のこと。その中から、出版の歴史に残るベストセラーの数々が生み出されていきました。
近代に入って最初に登場するベストセラーは、あの福澤(福沢)諭吉の著作です。明治維新の直前に刊行された『西洋事情』を皮切りにして、『学問のすゝめ』『文明論之概略』『福翁自伝』と、その著作はどれもベストセラーとなって多くの人びとに読まれました。
福澤の著作がベストセラーとなって多くの人びとに読まれた理由について、『ベストセラー全史』の著者・澤村修治さんは、〈平易にして読み易き〉を常に心がけた福澤の執筆態度にあることを指摘します。蘭学の師であった緒方洪庵から、翻訳にあたっては難しい言葉は禁物という教えを受けた福澤は、自著の執筆にあたっても同じ姿勢で、わかりやすい文章を書くことに徹しました。ときには、「文字に乏しき家の婦人子供等」に草稿を読ませては、分からぬと指摘された箇所は改めたりもしたのだとか。
わかりやすい記述で多くの読者を得る一方で、福澤は『学問のすゝめ』が売れたことによって身辺に危険を覚えるほどの非難攻撃にも晒されたといいます。それも、〈文章の一字一句を見て全面の文意を玩味せず〉になされる筋違いの論難だったとか。「ベストセラー界の洗礼をたっぷり受けたわけで、その点でも福澤は『先駆者』だといえよう」と澤村さんは記します。多くの人に受け入れられるわかりやすさに徹した執筆姿勢、そして文意をちゃんと理解しない筋違いな論難の洗礼・・・。福澤諭吉はいろんな意味で、まさしくベストセラー作者の「先駆者」だったんですねえ。
福澤諭吉というベストセラー作者の先駆者を生んだ明治時代ですが、映画化・ドラマ化のヒットによる相乗効果で本の人気が高まる、という現象の先駆をなした書物も登場しています。それは尾崎紅葉の代表作『金色夜叉』。新聞連載中から高い人気を集めた同作は、新派劇として上演されるやそちらも大当たり。さらに後年には映画化されたり流行歌の題材になったりして、本の人気をさらに押し上げることになりました。
近代的な出版システムが確立したばかりの明治時代という時期に、早くも現代と同様のベストセラー界の現象が立ち現れていたという事実は、まことに興味深いものがありました。
出版システムが確立していく中で、創意とヤマっ気、そして野心を持った出版人たちが現れて出版社を立ち上げ、ヒット作を生み出していきます。その代表格が、出版のみならず取次、洋紙店、印刷所、通信社を次々に創立して、明治における「出版王国」を築き上げた博文館であり、その創業者である大橋佐平・新太郎父子です。
故郷である越後長岡から52歳で上京し、博文館を立ち上げた大橋佐平は、事業を考えつけば「幾夜も眠らずして熟考すること常なり」というくらい、行動力と起業家精神にあふれていた人物。一方、父の佐平から請われて事業に加わった新太郎のほうは、企画力に加えて数値に明るい理財的な才を持った経営者型の人物だったとか。「挑戦者精神を失わない佐平と、背後を緻密に整える醒めた理財家新太郎」という、タイプの違う「父子二つの精神性の融合」が、ベストセラーを生み出す上で重要な役割を果たし、博文館を「出版王国」へと躍進させたことを澤村さんは指摘します。が、そんな博文館もやがて、次々に登場してくる新興の出版社に押され、勢いに陰りが出てきます。
博文館に代わって台頭してきた出版社のひとつが、講談社(創立当初の社名は「大日本雄弁会」)。講談社が飛躍して「新・出版王国」へとのし上がる契機となったのが、関東大震災の被災状況を取材してまとめた『大正大震災大火災』の大ヒットでした。震災により出版社や取次などが壊滅的な被害を受け、雑誌の多くが休刊を余儀なくされる中、休刊中の雑誌編集者を含めた社員を総動員し、不眠不休で取材して編集製作した『大正大震災大火災』は、震災から1ヶ月後というきわめて早い時期に刊行され、増刷分とあわせて40万部を売り切るベストセラーとなりました。このことは結果的に、復旧未だ遠しとの印象が広がっていた出版業界の信頼回復に大きな役割を果たすことにもなったとか。そんな出版社の栄枯盛衰をめぐるエピソードも、本書【近代篇】の読みどころです。
昭和に入ると、単行本が1冊2円ほどだった時代に、その4〜5冊分の内容が1冊1円で読めるという、大量生産による全集企画「円本」が大ヒットします。そのヒットは類似企画の濫発により、競合する出版社の泥仕合や粗製乱造を引き起こした一方で、大量生産により書物が低廉化し、「知の大衆化」がなされるという効果をもたらすことになりました。
「円本」ブームで盛り上がった出版界も、その後の軍国主義国家化による出版統制により沈滞を余儀なくされます。しかしそんな時期にも戦時色とは程遠い書物がベストセラーとなっていたことも、本書はしっかりとすくい取っています。
たとえば、島崎藤村の名作『夜明け前』の第一部が刊行されたのは、五・一五事件のおこった昭和7年のこと。3年後、完結篇となる第二部が刊行され、多くの読者から支持されました。また、パール・バック『大地』や、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』が翻訳刊行されてベストセラーとなったのは、日中戦争勃発後のことでした。そして、太平洋戦争が開戦し、出版統制がさらに厳しさを増していた時期にも、4人の男女の恋愛模様を軸に物語が展開され、戦争の影がさほど伝わってこないような小説『新雪』(藤澤桓夫・著)が新聞に連載され、単行本化してベストセラーになっていたのです。
澤村さんは次のように述べます。
「読者大衆は、厳しいチェックを経て出版された本に対しても、基本的には、必要と考え、面白いと思えるものでなければ、金銭を出して購入とはならなかったはずである。戦時の出版統制の問題を、そういった一般読者の存在という観点を除いて、統制当局と、それに抵抗あるいは順応(消極・積極などさまざまだろうが)する版元、著者の物語のみに焦点を当てると、少なくとも出版史理解の点では、大事なところが抜け落ちるおそれがあり得る。」
昭和の戦前・戦中期については「政府による弾圧、それによる良心的退場、そして読者の時代への迎合」といった単純な理解になりがちなところがあります(実のところ、わたし自身もそのような理解に傾いておりました)。たしかに、出版に対して一定の制限が加えられていたことも事実なのですが、昭和の出版事情も読者の志向も、そのような単眼的な見方では片づけられないものがあることを、本書は複眼的な視点で教えてくれます。
読者大衆といえば、本書には反権威的な書物と権威ある書物、真面目な書物と扇情的な書物が、「振り子の行き来」のように受け入れられ、ヒットするという現象も繰り返し取り上げられています。「読者」「大衆」とよばれる存在も、好みや志向のありようは多彩なのであって、十把一からげに扱うべきではない、ということも、ベストセラー史に限らず必要な視点ではないかと思った次第です。
【現代篇】と同様に【近代篇】もまた、このほかにもベストセラーの裏表をめぐる話題がてんこ盛りとなっています。小説『地上』のベストセラーで彗星のように現れるも、そのことによる精神の変調から奇行を繰り返した上、31歳という若さでこの世を去った島田清次郎のエピソード。吉川英治と大佛次郎が牽引した、大正末から昭和にかけての大衆文学興隆の歴史。「百科事典の平凡社」の元をつくった『大百科事典』の刊行は、雑誌の刊行に失敗して倒産間際だった平凡社の起死回生の策であったこと・・・などなどの興味深いエピソードが、客観的ながらテンポのいい記述により語られていきます。
時代とともに、出版の制度も大きく変わっていった近代の日本。その中にあっても、ベストセラーのありようや、それにまつわる人間模様には、今の時代にも共通する変わらないものが数多くあったということが、【現代篇】と【近代篇】を続けて読むことでよくわかりました。
時代や制度が変わっても変わらないもの・・・それを読み解いていくことこそ、ベストセラー史を辿る意義であり面白さ、なのかもしれません。
*『ベストセラー全史【現代篇】』のレビューはこちらです。→ 『ベストセラー全史【現代篇】』 戦後のベストセラーをめぐる、光と陰の知られざるドラマを活写した出版文化叙事詩