『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』
戸部良一・寺本善也・鎌田伸一・杉之尾孝生・村井友秀・野中郁次郎著、中央公論新社(中公文庫)、1991年
(親本は1984年、ダイヤモンド社より刊行)
大東亜戦争(太平洋戦争)において、その戦局の展開を左右することになった日本軍の失敗事例に、異なる専門分野(組織論や政治外交史、軍事史など)の研究者たちが社会科学的な分析でメスを入れ、現代の組織一般に対する教訓を引き出した一冊です。
親本の刊行から34年、文庫版の刊行から27年という長きにわたり読み継がれているロングセラーであり、すでに名著としての評価も高い本書ですが、わたしはずいぶん前に文庫版を買っておきながら、そのまま本棚の肥やしにしているだけでした。この夏、ようやく読み始めるや一気に読了し、もっと早く読んでおくべきだった、と激しく悔やんだのでありました。
本書を読もうと思ったきっかけは、8月15日の夜に放送されたNHKスペシャル『ノモンハン 責任なき戦い』を観たことでした。
敵であるソ連軍の戦力を過小評価した甘すぎる見通し。関東軍のメンツに配慮するあまり、その専横を許した参謀本部。戦況に対しての責任感の欠如・・・。その結果として、あまりにも多くの兵士の命が無駄に失われたことを知り、なんともやりきれない思いがいたしました。
なぜ、軍は「戦略」とも呼べないような無謀な戦いを続けるに至ったのか、その原因をもっとしっかりと知りたい・・・そう思ったときに取り出して読んだのが、本書『失敗の本質』でした。本書が一番最初に分析しているのが、ほかならぬノモンハン事件だったからです。
自軍の戦力と精神力を過大に評価し、相手の戦力を甘く見て過小評価していた、日本軍の「敵を知らず、己を知らず」という体質は、本書においても厳しく指摘されております。
満州国の内政指導権が与えられていることを理由に、満人官吏の任免や土建業者の入札にまで関与していたという関東軍は、対ソ戦争にあたっての準備や訓練をほとんど行わなかった、といいます。そして、そのように満州の統治機関としては高度に適応していた軍隊であったがゆえに、戦闘という軍隊本来の任務に際してまったく新しい環境に置かれたときには混乱をきたし、方向を見失って自壊作用を起こした、と指摘します。
ノモンハン事件に続いて、ミッドウェー作戦やガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、そして沖縄戦の失敗事例が取り上げられ、検証されます。
あいまいな作戦目的やコミュニケーションの機能不全。敵の戦力に対する過小評価と、自軍の戦力と精神力への過大な期待。情報や兵站・補給の軽視。合理的・科学的思考よりも、組織上下の人間関係やメンツが優先される体質・・・。ノモンハンでの教訓はほとんど活かされることもなく、その後の戦いにおいても失敗が繰り返されていった無惨な実態が、冷静で淡々とした分析から浮き彫りにされていきます。
前半の事例研究を受けた後半では、6つの作戦に共通する日本軍の組織的な病理が徹底的に分析されます。その上で、序章で示された「日本軍の組織的特性は、その欠陥も含めて、戦後の日本の組織一般のなかにおおむね無批判のまま継承された」という問題意識のもと、企業をはじめとする現代の組織一般に通用する教訓を導き出しています。ここでは重要な指摘が多々なされていて、頷かされたポイントをいちいち挙げていけばキリがないくらいです。
とりわけ教えられたのは、組織学習のあり方についての議論でした。これについて本書は、敵の戦力を過小評価し、自己の戦力を過大評価するような精神主義は、日本軍の組織的な学習を妨げる結果になったと指摘。さらに、教官や各種の操典が指示する「模範解答」を半ば機械的に暗記し、それを忠実に再現する、いわゆる「学校秀才」型の人物が評価されるような、士官学校や軍の大学における教育の問題点にも触れられます。暗記と記憶力を強調した教育でしつけられた行動様式は平時の状況ではよいものの、いつ不測事態が起こるかわからないような不確実性の高い状況下で独自の判断を迫られるようになってくると、十分に機能しなくなる、と。
本書は、そのような日本軍の学習のあり方を、目標と問題構造を所与ないし一定とし、そこから最適解を選び出すという「シングル・ループ学習」であったと定義した上で、次のように述べています。
「しかし、本来学習とはその段階にとどまるものではない。必要に応じて、目標や問題の基本構造そのものをも再定義し変革するという、よりダイナミックなプロセスが存在する。組織が長期的に環境に適応していくためには、自己の行動をたえず変化する現実に照らして修正し、さらに進んで、学習する主体としての自己自体をつくり変えていくという自己革新的ないし自己超越的な行動を含んだ『ダブル・ループ学習』が不可欠である」
「組織学習には、組織の行為と成果との間にギャップがあった場合には、既存の知識を疑い、新たな知識を獲得する側面があることを忘れてはならない。その場合の基本は、組織として既存の知識を捨てる学習棄却、つまり自己否定的学習ができるかどうかということなのである」
暗記力ばかりが得意な「学校秀才」型の人間を評価する教育システムの弊害、不確実な環境の変化に対応していくための、自己革新的な学習の重要さ・・・いずれも、現代においてなお、いや、変化の激しい現代だからこそ、より一層教訓となる点であるように思えました。
一定の環境に適応しすぎたがゆえに、環境の変化に適応する能力を失い、失敗と犠牲をいたずらに重ねていった日本軍。そのことを踏まえて述べられた以下の一節にも、頷かされるものがありました。
「日本軍が特定のパラダイムに固執し、環境変化への適応能力を失った点は、『革新的』といわれる一部政党や報道機関にそのまま継承されているようである。すべての事象を特定の信奉するパラダイムで一元的に解釈し、そのパラダイムで説明できない現象をすべて捨象する頑なさは、まさに適応しすぎて特殊化した日本軍を見ているようですらある」
かつての日本軍と、それが起こした戦争を強く批判している「革新的」なはずの政党や報道機関もまた、ほかならぬ日本軍が持っていた病理を継承しているという皮肉さ。この指摘もまた、現在の状況を顧みるにつけ、妙に説得力があるように思えてなりませんでした。
都合の悪いことには一切頰かむりを決め込み、ひたすら過去を美化するような姿勢。戦争を否定したいあまりに悲惨さばかりを過度に強調し、声高に「反戦」を叫ぶ姿勢。いずれも、戦争や歴史から現代に通ずる教訓を活かそうとするあり方とはかけ離れているのではないかと、わたしには思われてなりません。
過去に起こったことを丁寧にたどり直し、それに冷静で科学的な検証を加えることで、戦争や歴史から現代に活かすべき教訓を引き出し、あやまちを繰り返さないために役立てることができるのだ・・・ということを、本書は教えてくれました。その姿勢が持つ意義と価値は、親本刊行から34年、そして戦後73年を経てもなお、いささかも輝きが失われていないように思われました。
これからも末永く、多くの人に読み継がれていって欲しい名著だと、心の底から思います。