『方法序説』
ルネ・デカルト著、谷川多佳子訳、岩波書店(岩波文庫)、1997年
「われ思う、ゆえにわれあり」・・・デカルトの名言として、多くの人に知られるテーゼが含まれているのが、本書『方法序説』です。
もともとは、1637年に刊行された屈折光学と気象学、幾何学の論文集の冒頭に付された序文であり、それら論文で述べられている考え方がいかにして形成されたのかを、自らの思索の足跡を振り返りながら語っていくという内容です。
デカルトの学問の方法論と哲学の基本原理が示された、近代の合理主義思想の確立を告げる名著として有名な本書ですが、恥ずかしながらこのたびようやく、キチンとした形で読んでみました。一読して「これはもっと早く読んでおくべきだった・・・」という気持ちがしきりにしております。
デカルトはまず、自らがそれまで学んできたさまざまな学問が、どれも自分の期待に沿うものではなかったとして、既成の学問に対する失望と批判を述べていきます。
「学者の思弁は、それを真らしく見せようとすればするほど、多くの才知と技巧をこらさねばならなかったはずだから、それが常識から離れれば離れるほど、学者が手にする虚栄心の満足もそれだけ大きい。それ以外には何の益ももたらさない。だがわたしは、自分の行為をはっきりと見、確信をもってこの人生を歩むために、真と偽を区別することを学びたいという、何よりも強い願望をたえず抱いていた」
そんな「強い願望」を満たすべく、デカルトは文字による学問を放棄し、「世界という大きな書物」のなかに見いだされる学問を探求しようと、さまざまな気質や身分の人たちと交わり、経験を積むために旅に出て、思索を重ねていきます。
その結果、デカルトは「その時までに受け入れ信じてきた諸見解すべてにたいしては、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ」と判断。そして、理性の基準に照らして真理であると思われる認識に至るための方法論を、次の4つの規則として提示していきます。
【明証性の規則】明証的に真であると認めるものでなければ、どんなことも真として受け入れず、判断に含めないことにより、注意ぶかく速断と偏見を避けること。
【分析の規則】検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよくよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。
【総合の規則】もっとも単純で認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。
【枚挙の規則】すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
そういった考え方のもと、ほんの少しでも疑いをかけうるもの全てを「偽」と考える「わたし」は、必然的に何ものかでなければならない、ということに気づいたデカルトが見いだしたのが、あの「われ思う、ゆえにわれあり」という「哲学の第一原理」であったのです。そしてこれ以降、身体と魂とは別々であるという「心身二元論」や、「神の存在証明論」、さらには生物の身体メカニズムの概略が展開されていくことになります。
心身二元論や神の存在証明論については、わたしの頭では正直なところ、いまいちピンとはこないものがありましたし、身体メカニズムについての記述も、現代の知見からすれば違和感があることも否定できません(心臓の熱で血液が膨張することで、全身に血液を送り出す、とするところなど)。ですが、本書で述べられている理性に基づいた認識に至るための方法論には、いまもって大いに学ぶところがあり、学問のみならずさまざまな場でも役立つように思われました。さらに、「才知と技巧」によって「真らしく」見える学者と学説の「真と偽」を見極めることの重要性もまた、現代でも通用することといえましょう。
思えば、2020年は新型コロナウイルスにまつわるパニック状況に翻弄され、社会が平静さを失ってしまった一年でした。「才知と技巧」でもって日々「未知の新型ウイルスの脅威」を煽り立てる学者とメディア、政治家、それに言論人によって、人びとは不安と恐怖心を募らせる一方となり、冷静で理性的な考え方や判断は軽視されたり、ことによると排斥されるような社会となってしまいました。2020年はいわば「理性」が敗北した年だった、といえるでしょう。
(もっとも、多くの人がパニック状態から理性を失い、それぞれの本性や地金のようなものが露わになったことで、人を見分ける役には立ったとは言えるかもしれませんが・・・)
本書の終盤では、宇宙や自然の現象や機械的な人体論を記述した『世界論』の刊行を考えていながらも、地動説を唱えていたガリレオ・ガリレイが宗教裁判によって幽閉されるに至った「ガリレオ事件」の報に接したことで刊行を見合わせたことが(はっきりと明示はされないまでも)綴られています。そもそも、この『方法序説』じたい、匿名で刊行せざるを得ませんでした。
デカルトが生きた社会もまた、冷静で理性的な考え方が軽視され、排斥される時代のなかにあったといえましょう。そのあたりも、いまの世の中と重なるように思われてなりません。
しかしデカルトは、自説をおおっぴらに公刊できないことへの悔しさをにじませながらも、自分の発見したことを伝えることで「すぐれた精神の持ち主がさらに先に進むように促」し、さらにそれらの人びとが知り得たすべてを公衆に伝えていくことで「多くの人の生涯と業績を合わせて、われわれ全体で、各人が別々になしうるよりもはるかに遠くまで進むことができるようにする」ことへの期待を示しつつ、『序説』を締めくくります。
そんなデカルトの願いが込められた本書が現代に至るまで読み継がれ、そこから多くの進歩が生み出されたことは、ささやかながらもわたしに希望を持たせてくれます。そう、理性はたとえ敗北しても、精神の瓦礫からまた復活して、真と偽を見極めながら前に進むための力を与えてくれることでしょう。
本書にはこんな言葉も記されています。
「結局のところ、われわれは、目覚めていようと眠っていようと、理性の明証性による以外、けっしてものごとを信じてはならないのである」
わたしは確かに、この書物に出会うのがいささか遅すぎました。ですが、2020年の締めくくりという時期に本書に出会えたことは、むしろ良かったのかもしれないと、しみじみ思うのです。
理性が敗北した世界の中で、それでも前へ進んでいくための指針として、繰り返し繙く一冊にしたいと思っております。