NHKスペシャル『熊本城 再建 “サムライの英知”を未来へ』
初回放送=2017年4月16日(日)午後9時00分~9時49分 NHK総合
語り=堺雅人
ちょうど一年前に発生し、熊本と大分に大きな被害をもたらした熊本地震。熊本のシンボルであり、熊本に住む皆さんの心のよりどころでもある名城・熊本城も、地震により櫓や石垣が崩落したり、天守閣の瓦やしゃちほこが落下するなどの被害を受けました。
大きな痛手を負った熊本城ですが、ここにきて再建への動きが本格化してきています。今月に入り、天守閣には復旧作業のための鉄筋の足場が組まれ、さらに来月には天守閣全体をシートで覆い、2年後をめどに天守閣の復旧作業を完了させる計画だといいます。
現在、大部分が立ち入り禁止となっている熊本城の敷地内。昨年7月、管理している熊本市とともに、城の詳細な調査に入ったNHKは、4Kカメラを搭載したドローンを使って城全体をくまなく撮影。その映像をもとに、デジタル空間に再現した熊本城の立体モデルから、さまざまなことが明らかになりました。番組は、調査から浮かび上がった熊本城の謎に迫るとともに、復旧に立ちはだかる “壁” に立ち向かおうとする人びとの姿を追っていました。
デジタル空間に再現された熊本城の立体モデルは、その被害の大きさをあたらめて浮き彫りにしていました。
瓦が落下し、ところどころに雑草が生えている天守閣は、崩落した石垣により出入り口が塞がれていました。“奇跡の一本柱” と呼ばれることになった、隅っこに辛うじて残った石積みにより崩壊を免れた飯田丸五階櫓でしたが、建物の中心部には約55㎝のたわみが。さらに東十八間櫓は、石垣と建物全体が土砂とともに崩落していて、崩れた土砂の量はドラム缶7000個分・・・。
その一方で、調査からは意外な事実が明らかになりました。崩落した石垣の多くは明治時代になって修復された部分であり、400年前の築城当時に積まれた石垣のほとんどは、地震に耐えていたというのです。崩落した石垣の割合は、明治以降のものが31%だったのに対して、築城当時のものは10%にとどまったのだとか。
建築工学の専門家をして「石垣構造論的にもレベルが高い」と言わしめるような、熊本城の石垣構築技術。それを象徴するのが、「武者返し」と呼ばれる曲線状に反り返った勾配「のり返し勾配」です。
地面に対して水平、直角に積み上げられた勾配の石垣は、地震の揺れにさらされるうちに石が外側へと押し出され、飛び出してしまいます。これに対して「武者返し」は、地震でかかる力が勾配に沿うように働くことで、石垣が崩れるのを防ぐことができるのです。
そんな石積みの奥義を、当時の職人たちが書き残した書物が『石垣秘傳(ひでん)之書』です。ここには “ノリ” という語句が繰り返し記されておりました。“ノリ” とは、縦1間(約1.8メートル)の石を横に積んだとき、外側の斜辺にできる三角形のことを指します。この三角形を、上にいくに従って少しずつ小さくしていくことで「武者返し」にしていく技法が、この書物には詳細に記されていたのです。それは、現代の計算式に直せば非常に複雑なものになるのだとか。
緻密な計算によって築かれた築城当時の石垣に対して、明治時代に修復された石垣は地面に対して垂直に積まれていました。災害などで生じた被害を迅速に復旧する必要に迫られていた当時の陸軍が、いわば「無理をして」積み上げた結果だったとか。
熊本城を築いた加藤清正は、なぜ「武者返し」という築城技術を取り入れることにしたのでしょうか。熊本城から先立つこと6年前、1593年に韓国の蔚山(ウルサン)の山上に清正が築いた「西生浦(ソセンポ)倭城」を城郭の研究者が訪ねると、その石垣はほぼ直線になっていました。それから熊本城を築き上げるまでの6年の間に、何があったのか。
それを探る手がかりとなったのが、大阪に保存されている清正の書状でした。そこには、1596年に京都の伏見で起こった「慶長伏見地震」の被害について触れた部分があったのです。豊臣秀吉によって築かれた伏見城も地震により倒壊し、秀吉の家臣であった清正も、その被害を目の当たりにすることとなりました。そして清正は、熊本城を築くにあたって、慶長伏見地震を経験した職人たちを引き連れていたといいます。
「武者返し」は侵入してくる敵を防ぐためではなく、地震に強い城を目指すために取り入れたのではないか・・・それが、研究者たちによる推測でした。
熊本地震からの復旧が動き出す中、立ちはだかる “壁” がありました。崩落を免れたはずの石垣の何ヶ所かに、内部から膨らんでいるような部分があるのです。その中には、地震後になって新たに崩壊してしまった箇所もありました。
石垣の内部に詰め込まれた「栗石」と呼ばれる小さな石が、頻発した余震の影響から沈み込み、それが石垣を内部から押し出していたのです。これまで、地震の影響を緩和するために入れられていたと考えられていた「栗石」が、新たな石垣崩壊のリスクとなってしまっているのです。さらに厄介なことに、膨らみは築城当時の石垣にも9ヶ所、生じていたのです。
この「栗石」による膨らみ、実は築城から間もない頃から生じていました。清正の没後に起こった元和(1619年)と寛永(1625年)の地震でもこの膨らみが生じ、対策に迫られた二代目城主・細川忠利は、石垣の外側に大きな石をあらためて積み上げることで、これに対応したのです。
「忠利はあらゆる可能性を考えて技術革新をやっていた。これは現代への一種の警告として読まれるべき」忠利の残した書状を分析した研究者は、そう語りました。
加藤清正が確立させた地震に強い築城技術と、先人の知恵を受け継ぎつつも新たな技術革新に挑んだ細川忠利。熊本城の復旧計画は、これらの英知を反映させたものとなりました。
熊本の大西一史市長は、こう語りました。
「熊本地震は確かに辛い経験だったが、それまで当たり前のようにあった熊本城が、もう一度何かを教えてくれるように思う」
詳細な科学的調査や歴史の検証から見えてきた、熊本城の知られざる実像。その連続に、観ていていいようのないくらいの興奮を覚えました。これまで、敵に対する防御のためだとしか認識していなかった「武者返し」が、実は地震に対する備えだったとは・・・。「武者返し」を築き上げるための緻密な計算にも、ただただ舌を巻く思いでした。
400年も前に、これほどの英知が遺憾なく発揮されていたことは大きな驚きであり、そのような英知にしっかりと学ぶことができれば、たとえ時間がかかっても熊本城は間違いなく、もとの荘厳で美しい姿を取り戻すことができると確信しました。
わたしも昨年9月に熊本を訪れたおりに傷ついた熊本城を目の当たりにし、気持ちが痛みました。しかし、傷ついてもなお荘厳さをたたえたその姿に、あらためて魅了されたことも確かでした。
これからも折に触れて熊本に足を運び、少しずつ元の姿を取り戻していくであろう熊本城を見届けていきたい、そう思います。