読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

角川ソフィア文庫で読む寺田寅彦随筆集(その1) 寺田随筆のエッセンスと醍醐味を一冊に詰めこんだ『銀座アルプス』

2020-08-23 21:47:00 | 本のお噂


『銀座アルプス』
寺田寅彦著、KADOKAWA(角川ソフィア文庫)、2020年
(原本は1951年に角川書店より刊行)


椿の花が落下するときの動きや、尺八の音響の研究など、日本の風土や文化に根ざした独創的な研究を手がけた物理学者にして、夏目漱石門下の文人としても秀逸な随筆を多数遺した寺田寅彦。その寺田の随筆集が、今年5月より角川ソフィア文庫として複数冊、刊行されております。いずれも、1940年代末から1950年代はじめにかけて、角川書店から刊行されたもので、巻末には角川書店創業者にして国文学者でもあった、角川源義による解説文が付されています。
寺田の随筆集といえば、ロングセラーとなっている岩波文庫版『寺田寅彦随筆集』(全5巻)がよく知られていますが、今回角川ソフィア文庫として刊行されている随筆集には、岩波版には収録されていない作品もけっこう入っています。寺田随筆のファンとしては、これらもぜひ手元に置いておきたいということで、ひと通り購入して読みました。今回取り上げる『銀座アルプス』も、その一冊であります。

本書『銀座アルプス』には、明治時代に書かれた初期の写生文から、亡くなる2年前の昭和8年の作品に至る、寺田随筆のエッセンスを伝える30篇が発表順にまとめられています。
表題作である「銀座アルプス」は、寺田が8歳だった明治18年頃から、関東大震災を経て復興を遂げた昭和初期までの銀座の移り変わりを、寺田自身の思い出とともに辿っていく、随筆文学の名品です。
幼かった寺田に「徳川時代の一角」を覗かせた歌舞伎の芝居。「時々爆発的に糞をする」二頭の痩馬によって引かれていた鉄道馬車。「見た事も聞いた事もない世界の果の異国への憧憬」をそそってくれたアイスクリームや、「ミルクのはいったお饅頭」と呼ばれていたシュークリーム。震災後、煉瓦の建物に変わってアルプスのごとく聳え立ったデパート・・・。移り変わっていく街の姿と風物を、いきいきとした語り口で伝える本作は、銀座を軸にした世相風俗史としても、尽きない興趣を与えてくれます。
寺田は、谷中の寺で暗く陰気な下宿生活を送っていた時分に、銀座尾張町で目にした夜の灯が世にも美しく見えたという体験を綴ったあと、このように語ります。

「みんな心の中に何かしらある名状しがたい空虚を感じている。銀座の舗道を歩いたらその空虚が満たされそうな気がして出掛ける。ちょっとした買物でもしたり、一杯の熱いコーヒーでも飲めば、一時だけでもそれが満たされそうな気がする。しかしそんなことでなかなか満たされるはずの空虚ではないので、帰るが早いか、またすぐに光の街が恋しくなるであろう。いったいに心の淋しい暗い人間は、人を恐れながら人を恋しがり、光を怖れながら光を慕う虫に似ている」

ときおり繁華街に出かけては、街の灯の中で賑わっている雰囲気に浸ることを無上の楽しみにしているわたしは、この一節に激しく共感いたしました。たぶんわたしにも、どこか「人を恐れながら人を恋し」がるようなところがあるからなのかもしれません・・・。

大のコーヒー好きであったという寺田が、その醍醐味を〝哲学〟にまで止揚した「珈琲哲学序説」も、好きな作品のひとつです。飲むとある種の興奮作用のあるコーヒーや酒のようなものは「いわゆる禁慾主義者などの眼から見れば真に有害無益の長物かもしれない」としつつも、「芸術でも哲学でも宗教でも実はこれらの物質とよく似た効果を人間の肉体と精神に及ぼす」と喝破した上で、コーヒーを飲むことは「少くも自分にとっては下手な芸術や半熟の哲学や生温い宗教よりもプラグマティックなものである」と言い切るところ、まことにシビれるのであります。

岩波版『随筆集』には未収録の作品の中でとりわけ、多くの人に読まれて欲しいと思うのが「流言蜚語」です。
寺田はここで、もし何かの機会に流言蜚語(いわゆる「デマ」のことです)の現象が起こったのであれば、「その責任の少くも半分は市民が負わなければならない。事によるとその九割以上も負わなければならないかもしれない」と、流言蜚語に関しては市民に大きな責任があることを強調します。そして、流言蜚語に惑わされないために必要な科学的な常識や思考法を説明した上で、こう力説します。

「科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンのいろいろな種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。
もちろん、常識の判断はあてにならない事が多い。科学的常識はなおさらである。しかし適当な科学的常識は、事に及んで吾々に「科学的な省察の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著るしくその熱度と伝播能力を弱められなければならない」

角川ソフィア文庫版の巻末解説にて、原子核物理学者にして俳人でもある有馬朗人さんは、解説文の執筆時には既に世界的な広がりを見せていた新型コロナウイルスの流行に触れた上で、「寅彦の言葉通り冷静に考え判断すべきです」と書いています。
有馬さんもおっしゃるように、目下の新型コロナパニックにおいても、落ち着いて科学的に考えれば明らかにおかしい、さまざまなデマや憶測、陰謀論などが飛び交っております。その上、本来ならそういった流言蜚語を払拭するような事実の報道に徹すべきマスコミの多くも、いたずらに不安や恐怖を煽り、増長させるような〝報道〟に狂奔しているというありさまです。実に由々しき状況と言わざるを得ません。
流言蜚語や恐怖煽りに惑わされない「科学的常識」の必要性を説く寺田のことばは、古びるどころかますます、その価値と重要性を高めているように思われるのです。

これも岩波版『随筆集』には未収録の、17の短い文章からなる「鑢(やすり)屑」にも、寺田の慧眼ぶりが光ることばが散りばめられています。
西洋で発明されたであろう入れ歯は、西洋食を食べている分には不都合はないものの、餅などの日本ならではの食物を食べると故障が起こりがちであることに触れた上で(まあ、現在の入れ歯ではこういう不都合もないのでしょうが・・・)、次のように述べています。

「日本人は、日本人の生活を基礎にした文化をこしらえなければならない。地震のある国は、地震のあるだけの建築をしなければならないし、餅をかじる人間は、餅をかじるような入歯をこしらえなければならないように、日本人は日本人の文化を組立ていかなければならないのではないか。
餅は食わないことにすればいいかもしれないが、地震をなくすることは困難である。いかにアメリカ人になりたがっても、過去二千余年の歴史は消されない」

地球物理学者として、繰り返し災害への備えを説くとともに、西洋文化への浅薄な盲従を戒め、日本の伝統に基づいた文化の確立を訴え続けた寺田。上の一節は、その思想をわかりやすいことばで凝縮させたものであるように思いました。

しっかりした読み味を残す作品がある一方で、読んでいて楽しい気持ちになれる作品も収められています。そのひとつが「鼠と猫」です。我が物顔で家中を暴れ回るネズミたちが引き起こす騒動が描かれる前半は、どこかドタバタ喜劇を思わせる愉快さがあります。
そして後半では、寺田家で飼われることになった2匹の猫との暮らしぶりが生き生きと描き出されます。はじめのうちは「うちで猫を飼うという事に承認を与えた覚えはなかった」と、猫の飼育に消極的だったらしい寺田が、「孤独なエゴイストにとってはこんな動物の方がなまじいな人間よりもどのくらいたのもしい生活の友であるかもしれない」というまでに、猫たちへ愛情を寄せていく過程には、実に微笑ましいものがあります。
やはり岩波版『随筆集』には未収録の「電車と風呂」も楽しい一編です。満員電車に乗る人たちのほとんどが、緊張や険悪さのにじんだ不愉快な表情をしていると寺田は言い、その解決策として、皆で一緒に大きな風呂に浸かることを提案するのです。

「銭湯の湯船の中で見る顔には帝国主義もなければ社会主義もない。
もし東京市民が申し合せをして私宅の風呂をことごとく撤廃し、大臣でも職工でも皆同じ大浴場の湯気にうだるようになったら、存外むつかしい世の中のいろいろの大問題がヤスヤス解決される端緒にもなりはしないか」

そして、しまいには友人たちと「礼拝堂と図書館と画廊と音楽堂と運動場」が付属した、大浴場の建設プランまで考えたりするのです。他愛ないといえばまことに他愛ないのですが、大きな浴槽にたたえられたお湯にゆっくり浸かっていると、気分がほぐれてトゲトゲしい感情が消えていくのも確かですから、「コレはコレでいいかもしれないなあ」と思ってしまいました。・・・ああ、久しぶりに大きな湯船でゆっくり風呂を楽しみたくなってきたなあ。

随筆文学の名品から、科学的なものの見方に基づいた鋭い批評と警句、そして微笑ましさを覚える愛すべき小品・・・。寺田寅彦の随筆のエッセンスと醍醐味が詰まった一冊と言えましょう。

【閑古堂アーカイブス】25年ぶりに再読して新たな感銘を覚えた、敗戦直後の日本を捉えた貴重な記録『トランクの中の日本』

2020-08-10 08:10:00 | 本のお噂


『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』
ジョー・オダネル写真、ジェニファー・オルドリッチ聞き書き、平岡豊子訳、小学館、1995年


原爆投下後の長崎を記録した写真の中で、とりわけ多くの人に知られている「焼き場に立つ少年」の写真。亡くなった人を荼毘にふしている焼き場を前にして、すでに息絶えてしまった弟を背にしながら、唇を噛みしめ、直立不動の姿勢で立っている少年の姿を捉えたその一枚は、原爆と戦争が何をもたらすのかを、見る者に強く訴えかける力があります。
一昨日の夜(8月8日土曜)のNHK・Eテレ『ETV特集』の枠で放送されたドキュメンタリー「〝焼き場に立つ少年〟をさがして」(NHK長崎放送局制作)は、撮影された場所や日時が不明のままだった「焼き場に立つ少年」の写真を詳細に分析しながら、少年が辿ったであろう戦後の人生に迫ろうとする秀作でした。この番組を観たあと、かなり久しぶりに取り出してきた一冊が『トランクの中の日本』です。
本書は、敗戦後の1945年9月に占領軍の従軍カメラマンとして日本に上陸したジョー・オダネル氏が、広島や長崎の惨状をはじめ、戦後の焼け跡で生きる人びとの姿を私用のカメラで捉えた貴重な記録写真57点を収め、聞き書きによる撮影当時の回想を付したものです。「戦後50年」にあたる1995年に刊行されたとき、すぐに購入して読んでいたのですが、このほど25年ぶりに再読して、あらためて深い感銘を受けました。

『ETV特集』で取り上げられた「焼き場に立つ少年」の写真を撮影した人物こそ、ほかならぬオダネル氏でした。本書にももちろん、「焼き場に立つ少年」が収められています。

「焼き場に立つ少年」の写真(『トランクの中の日本』より引用)

気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけ、一度も焼かれる弟に目を落とすことはなかった、という少年を前にして、オダネル氏は「そばに行ってなぐさめてやりたい」と思いながらそれもできず、「なす術もなく、立ちつくしていた」といいます。
「あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?」と、オダネル氏は少年のその後を気遣います。昨夜の『ETV特集』が示唆するように(この写真が撮影されたと思われる地域には、原爆孤児の施設があったといいます)、弟をはじめとする家族を失い、一人で敗戦後の混乱を生きなければならなかったであろう少年の人生は、おそらく苦難に満ちたものであったことでしょう。そのことを思うと、あらためて痛ましさを覚えました。

長崎で撮られた子どもの写真でもう一枚、強く印象に残るものがあります。焼け跡に立つ着飾った少女の写真です。
七五三という特別な日のために、きれいな着物を着せられて神社に向かうところだったというその少女は、耳が不自由で何も聞こえなくなっていたといいます。そばにいた母親に理由を聞くと、アメリカ軍の爆撃機による爆音によるものだというのです。本来なら母親が駆け寄って、子どもたちの耳に木綿や柔らかい布を詰め込むことになっていたのですが、娘のもとに行くのが遅くなってしまったことがあったために「完全にそして永遠に聞こえなくなった」のだ・・・と。きれいに着飾った姿の背後にあった悲しいエピソードが、気持ちに深く突き刺さってきました。
長崎で撮影された写真には他にも、気持ちに突き刺さるものがいくつかありました。瓦礫に覆い尽くされた爆心地の情景。焼け跡に積み重ねられ、酒瓶が供えられた何人かの頭蓋骨。崩壊した浦上天主堂の前で、爆心地を見下ろすように置かれていた、体を失った彫像の頭部。背中一面が焼けただれた少年の姿・・・。

長崎や広島の惨状を伝える写真だけでなく、本書には敗戦後の日本で生きる人びとと、オダネル氏ら米兵たちとの交流の様子を捉えた写真も収められています。子どもたちにチョコレートを配る海兵隊員。刈り取った稲の束を干し場にかけている農民の姿。宿泊した旅館の仲居さんと肩を組んで撮られた記念写真。道路清掃の仕事や子守りを担う子どもたち・・・。
その中で印象的だったのは、佐世保の八幡地区で見かけたという木製の十字架の写真です。「米機搭乗員の墓」と記されたそれは、地元の農夫が墜落したアメリカの飛行機の飛行士を手厚く葬ったものでした。飛行士を葬った夫妻が、オダネル氏に語ったということばが記されています。

「私たちはずっと戦争は嫌でした。どうしてもいいこととは思えませんもの。墜落した飛行士も気の毒な死者のひとりですよ」

「敵」と「味方」に分かれるようなことがあったとしても、そして生きる国は違ってはいても、同じ人間としての感情に違いはないのだ・・・ということが伝わってくるようなこの逸話には、深い感動を覚えずにはいられませんでした。
また、礼拝が行われている教会の下足箱の前に、アメリカ人のブーツと日本人の草履が隣り合って整然と並べられている光景を撮った写真には、このような回想が記されています。

「神の家に並んでいるこの靴のようにすべての人々が平和に暮らしていけばいいではないか。私は救われたような気持ちになった」

海兵隊に志願したときには「ハワイを奇襲した日本に敵愾心を燃やしていました」といい、日本に上陸したときにも任務としての意識が先行していたともいうオダネル氏。しかし、こうして日本人との交流を積み重ねることで、気持ちが変化していったんだなあ・・・ということが、本書に収められた写真と回想から浮かび上がってくるように思えました。そのことにわたしもまた、救われるような思いがいたします。

本書の中に、一人の老人の姿を捉えた写真があります。長く黒い西洋風のコートに帽子をかぶった、当時の日本人には異色の風貌で、流暢な英語を話したというその老人は、かつてアメリカに住んでいたものの、家族を訪ねて日本に来ているうちに戦争が始まり、戻れなくなってしまったといいます。その老人が語ったことばが書き留められています。

「息子のような君に言っておきたいのだが、今の日本のありさまをしっかりと見ておくのです。国にもどったら爆弾がどんな惨状を引き起こしたか、アメリカの人々に語りつがなくてはいけません。写真も見せなさい。あの爆弾で私の家族も友人も死んでしまったのです。あなたや私のように罪のない人々だったのに。私はアメリカを許しますが、忘れてくれと言われてもそれは無理です」

アメリカに帰国したあと、日本で見聞した戦争の忌まわしい記録と記憶を、トランクに封印し続けていたオダネル氏でしたが、やがて老人から言われたことを実行に移すことになります。1990年に自国アメリカを皮切りに、日本各地やヨーロッパで写真展を開催して、自らの体験を語り伝えるようになりました。
そんな中、1995年の夏に開催されるはずだった、スミソニアン博物館での写真展は、在郷軍人会からの圧力を受けてキャンセルされてしまいます(展示されたのは、広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ」の機体のみ)。しかし、オダネル氏はこれをむしろ「出発点」と考えているとして、本書のあとがきでこのように語っています。

「写真を見てくださる方がいるかぎり、本を読んでくださる方がいるかぎり、たとえ私がこの世からいなくなっても、皆様に平和のメッセージを送りつづけていくことでしょう。過去の悲劇を繰り返さないためにも、この本の伝える事実を忘れ去ってはならないのです。平和を守ることができてはじめて未来があるのですから」

こう語ったオダネル氏は2007年、85歳でこの世を去りました(その日は奇しくも、長崎に原爆が投下された8月9日)。ですが、本書に収められた写真の数々は、原爆と戦争が何をもたらすのかを、今もなお雄弁にわれわれに伝えてくれる力を保っているように思います。
幸いなことに、本書は刊行から25年経った現在も刊行が続くロングセラーとなっています。ぜひとも、一人でも多くの人に読まれ続けることを願いたい一冊です。