読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

【閑古堂の映画千本ノック】9本目『ハロウィン』 シンプルなストーリーと洗練された映像で、今も古びないスラッシャー・ホラー映画の名作

2023-10-30 06:53:00 | 映画のお噂

『ハロウィン』Halloween(1978年 アメリカ)
カラー、91分
監督:ジョン・カーペンター
製作:デブラ・ヒル
製作総指揮:アーウィン・ヤブランス
脚本:ジョン・カーペンター、デブラ・ヒル
撮影:ディーン・カンディ
音楽:ジョン・カーペンター
出演:ドナルド・プレザンス、ジェイミー・リー・カーティス、ナンシー・ルーミス、P・J・ソールズ、チャールズ・サイファーズ、カイル・リチャーズ、ブライアン・アンドリューズ、ニック・キャッスル
Blu-ray発売・販売元:キングレコード


「今日はハロウィン 驚かす日だよ」
       by リー・ブラケット保安官(演:チャールズ・サイファーズ)

1963年のハロウィンの日。イリノイ州の住宅地・ハドンフィールドで、まだ6歳だったマイケル・マイヤーズが、自分の姉をナイフで刺し殺すという惨劇が起こる。それから15年後のハロウィンの前日、精神病院に収容されていたマイケルが病院から逃走。彼が再びハドンフィールドに戻り、凶行に及ぶことを恐れる主治医のルーミス(ドナルド・プレザンス)は、それを阻止すべくハドンフィールドへと急ぐ。そしてハロウィン当日、ハドンフィールドの高校生であるローリー(ジェイミー・リー・カーティス)の身辺に、白いマスクを被った不気味な男の影が・・・。

『ザ・フォッグ』(1980年)や『ニューヨーク1997』(1981年)、『遊星からの物体X』(1982年)など、ホラーやSFのジャンルで傑作を生み出し続けているジョン・カーペンター監督の出世作となった、スラッシャー(殺人鬼)映画の名作であります。
30万ドルという低予算で製作されながらも、アメリカ国内だけで4700万ドルという、製作費の約156倍(!)もの興行収入をあげる大ヒットを記録。以降、昨年(2022年)に至るまで、12本の続篇やリメイク作が生み出されたほか、何度倒されても起き上がっては襲いかかってくるという超自然的殺人鬼のキャラクターは、『13日の金曜日』シリーズ(1980〜2009年)や『エルム街の悪夢』シリーズ(1984〜2010年)などなど、後続のホラー映画にも大きな影響を与えました。
とはいえ、本作はどぎつく残虐な描写をこれ見よがしに見せつけるようなことはせず、シンプルなストーリーと洗練された映像の中に巧みな「焦らし」と「煽り」を積み重ねることで、観る者をハラハラドキドキさせ、不穏な恐怖感を盛り上げてくれます。その不穏な恐怖感をさらに高めるのが、カーペンター監督自らの手になるシンセサイザーの音楽。とりわけ、劇中で何度か繰り返されるメインテーマ曲は、ホラー映画音楽の最高傑作といえましょう。

マイケルの凶行を阻止しようとする精神科医・ルーミスを演じるのは、『007は二度死ぬ』(1967年)などに出演した怪優ドナルド・プレザンス。本作以降、4本の続篇でもルーミス役を演じ続け、『ハロウィン』シリーズの顔といえる存在となりました。
終盤で単身マイケルに立ち向かうことになるローリーを演じるのは、本作で映画デビューしたジェイミー・リー・カーティス。カーペンター監督が敬愛するアルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』(1960年)で知られる、ジャネット・リーの娘でもあります。本作以降、続篇の『ハロウィンⅡ』(1981年)や『ザ・フォッグ』などのホラー映画に立て続けに出演し、「絶叫クイーン」なる異名を奉られることに。
その一方で、『大逆転』(1983年)や『ワンダとダイヤと優しい奴ら』(1988年)、『トゥルーライズ』(1994年)など、ホラー以外の作品でも存在感を発揮し、2022年の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で、見事アカデミー助演女優賞に輝いた実力派。本作でも、ローリーをただただ「絶叫」するだけのヒロインには終わらせず、しっかりと血の通ったキャラクターとして演じているところが「さすが実力派だなあ」と思いました。

カーペンター監督やジェイミー・リー・カーティスとともに、本作が出世作となったのが、撮影監督のディーン・カンディ。6歳のマイケルが姉を殺害する、冒頭の長回し場面に代表される主観ショットが実に素晴らしく、観る者を作品世界の中にぐいぐいと引っ張り込んでくれます。これ以降、カンディは『ニューヨーク1997』や『遊星からの物体X』などのカーペンター作品を手がけたほか、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ(1985〜1990年)や『ジュラシック・パーク』(1993年)、『アポロ13』(1995年)などといったヒット作、話題作の撮影を担うことになります。
怖いだけではなく、ちょっとした遊び心が感じられるのも、本作のお楽しみのひとつ。劇中でローリーや子どもたちがテレビで観ている映画が、1950年代SF映画の傑作である『禁断の惑星』(1956年)だったり、のちにカーペンター監督自身がリメイクする『遊星よりの物体X』(1951年)だったりするあたり、好き者的には思わずニンマリしてしまいました。

シンプルなストーリーと洗練された映像で、今もなお古さを感じさせることなく楽しめる、傑作にして名作であります。

【閑古堂の映画千本ノック】7本目『関東大震災実況』8本目『関東大震災【伊奈精一版】』 日活映画人が捉えた関東大震災

2023-10-25 20:01:00 | ドキュメンタリーのお噂

『関東大震災実況』(1923年 日本)
染色、20分
製作会社:日活向島撮影所
撮影:髙坂利光(映画では「髙阪」と表記)、伊佐山三郎
国立映画アーカイブの特設サイト「関東大震災映像デジタルアーカイブ」にて配信中

関東大震災を映像記録として残した人びとの中には、誕生してからまだ日の浅かった、草創期の映画産業を担っていた映画人たちもおりました。
現在も存続している日本最古の映画会社・日活は、関東大震災の10年近く前である1912年(明治45年/大正元年)に設立。「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助を看板スターとして、時代劇を中心に京都で映画を製作。翌1913年には、東京の向島に新たな撮影所を設け、現代劇にも手を広げました。
『関東大震災実況』は、その向島撮影所のカメラマン2人により撮影、製作された震災記録映画です。フィルムに赤や青の色が着いてはいるものの、これはカラーフィルムではなく、モノクロフィルムに着色を施した「染色」と呼ばれる手法によるものです。

「日活向島撮影所 撮影技師 髙阪利光氏 伊佐山三郎氏 決死的撮影」との触れ込みから始まる本作品ですが、前半部は『關東大震大火實況』『関東大震災【返還映画版】』などといった、他作品でも使われていた映像が多く見られます。しかも、いくつかのカットは重複して映し出されたりもいたします。
国立映画アーカイブの「関東大震災映像デジタルアーカイブ」で公開されている震災記録映画をまとめて観ていると、別の作品で使われていた映像が他作品でも繰り返し流用され、使い回されていることに気づかされます。そのことで、当該映像のオリジナルがもともとどの作品だったのかが曖昧になっている上、映像が撮影された正確な場所や状況もわかりにくくなっており、映像が本来持っているはずの記録性が損なわれてしまっている面があることは否定できません。
そんな中にあっても、本作には注目に値する映像が含まれております。終盤に映し出される、隅田川から船に乗って撮影されたと思われる一連の映像では、崩壊した橋の鉄骨を伝ってなんとか渡ろうとする人の姿や、川面に浮かぶ無残な遺体、そして辛くも生き延びた人たちが橋の下を仮の宿としている様子などが映し出されていて、異なった角度と手法により震災直後の状況を捉えた貴重な記録となっております。


『関東大震災【伊奈精一版】』(1923年 日本)
染色、14分
撮影:伊奈精一
国立映画アーカイブの特設サイト「関東大震災映像デジタルアーカイブ」にて配信中

『関東大震災【伊奈精一版】』と名づけられたフィルムを撮影した伊奈精一なる人物もまた、戦前の日活で活躍したという劇映画の監督であります。ただし厳密には、「日活入社以前に朝日新聞のニュースカメラマンとして活動していた時期に撮影したと見られる」(上記サイトの作品解説より)とのこと。本作も、フィルムを染色する手法によって仕上げられております。
本作の前半も、他作品でも使われていた映像の流用によって構成されておりますが、フィルムの状態が比較的良好だからなのか、映像自体はけっこう鮮明に見えます。多数の死者が出た、本所被服廠跡の惨状を捉えた一連の映像では、遺体を荼毘(だび)に付しているところを間近で撮影した、衝撃的なカットも含まれております(ご覧になる際にはご注意を)。
本作で注目すべきは、横浜の被災状況を記録した後半の部分。神奈川県庁と横浜市役所の仮事務所における混乱した様子や、破壊された港の埠頭、無残に焼け落ちた車が何台も並ぶホテルを捉えた映像なども貴重な記録ですが、とりわけ目を引かれたのが、焦土と化した街と、道を行き交う人びとの姿を、移動する車から撮影した映像。この時期に、このような手法によって撮られた映像があったということに、ちょっと驚かされました。

草創期の映画人たちによって捉えられた、関東大震災の映像記録2編。いずれも、独自の手法と工夫によって捉えられた映像が印象に残る作品であります。

【閑古堂の映画千本ノック】6本目『砂の器』 コロナパニックに陥った令和の世をも射抜く「負の歴史」についての重く鋭い問いかけ

2023-10-23 20:01:00 | 映画のお噂

『砂の器』(1974年 日本)
カラー、143分
監督:野村芳太郎
製作:橋本忍・佐藤正之・三嶋与四次
原作:松本清張
脚本:橋本忍・山田洋次
撮影:川又昂
音楽:芥川也寸志(音楽監督)、菅野光亮(作曲・ピアノ演奏)
出演者:丹波哲郎、加藤剛、森田健作、島田陽子、山口果林、加藤嘉、春田和秀、佐分利信、緒形拳、渥美清、笠智衆
DVD発売元:松竹


当ブログにてこの「映画千本ノック」を始めるにあたり、わたしはその動機について1回目でこんなことを申し上げました。
「「映画好き」などと言っているくせに、キチンと観ていない作品があまりにも多いことに、自分でもげんなりしたから」
「誰もが知っているような、映画史に輝くような名作、傑作、ヒット作と言われているような作品であっても、まともに観ていないままになっている作品がなんと多いことか」
実は今回取り上げる『砂の器』も、これまでキチンと観ていなかったままだった、名作映画のひとつであります。

東京・蒲田の鉄道操車場で、一人の初老男性が殺害されているのが発見される。ベテラン刑事・今西(丹波哲郎)と若手刑事・吉村(森田健作)が捜査を開始するが、被害者が殺害される前夜、近くのバーで別の男と交わしていた、東北なまりの会話の中に出てきた「カメダ」なる言葉以外はなんの手がかりもなく、捜査は難航する。それでも、今西と吉村による地を這うような地道な捜査により、少しずつ真相が明らかとなっていく。やがて、捜査線上に一人の男の存在が浮かび、彼が辿った痛ましいまでの“宿命”も明らかとなっていくのだった・・・。

ミステリー小説の巨匠・松本清張氏の代表作のひとつを、同じく清張氏が原作である『張込み』(1958年)や『ゼロの焦点』(1961年)などを手がけてきた野村芳太郎監督が映画化した本作は、今もなお多くの人から愛され続けている、日本映画史上に輝く名作であります。
にもかかわらず、冒頭で申し上げたようにわたしはこれまで、本作をまともな形で観ないまま、馬齢を重ねてきてしまいました。今回初めてDVDで鑑賞して、なんで今の今までこれほどまでに素晴らしい映画を観ないでいたのか!との激しい羞恥と後悔の念に駆られ、自分で自分をぶん殴りたくなったのであります。「お前それでよく“映画好き”などと言えたもんだなあ」との軽蔑、嘲笑は甘んじて受けます。笑わば笑え。

自らもプロデューサーとして、設立したプロダクションの第1作目にこれを選んだ橋本忍さんと、映画監督としても名高い山田洋次さんが共同で手がけた、脚本構成の巧みさ、素晴らしさには、つくづく唸らされます。
すでに多くの方によって指摘されていることですが、すべての謎が解き明かされていく捜査会議の席上、加藤剛さん演じる作曲家・和賀のコンサート会場、そして苦難に満ちた父子の巡礼の様子が交互に積み重ねられ、そのバックに菅野光亮さん作曲の交響曲「宿命」が鳴り響くクライマックスがもたらす比類なき劇的高揚感には、ただただ圧倒されるばかりでした。原作者の清張氏をして「原作を超えた」と言わしめたこのクライマックスは、まさに映画だからこそ成し得た至高の表現でありましょう。そこに到るまでの、少しずつ真相が明らかとなっていく謎解きの過程も、ミステリーの楽しさを満喫させてくれます。
映画の中に映し出される日本各地の風景もまた、本作の見どころでしょう。その時々の季節を映し出す、父子の巡礼シーンもさることながら、今西らが真相を追って東北から山陰、伊勢、北陸へ鉄道を使って移動するところには、なんだか旅心がそそられてしまいました(今西と吉村が食堂車で飲食するシーンは鉄道好き垂涎)。

名優揃いの出演者の中でも、とりわけ良かったのがベテラン刑事・今西を演じた丹波哲郎さん。一歩一歩真相に迫っていく執念深さと人間味を併せ持った今西は、まさに丹波さんのハマり役であります。クライマックスの捜査会議の場面、明らかとなった事件の経緯を語っている途中に、思わず声を詰まらせるところには、こちらまでもらい泣きしそうになりました(なんとか踏みとどまりましたけど・・・)。
そしてなんといっても、撮影当時はまだ7〜8歳だったという子役・春田和秀さんの素晴らしかったこと!劇中では一切セリフを発することはなかったにもかかわらず、苦難に満ちた巡礼の旅の中で、この世の不条理を一身に受けることの辛さと悲しみを全身で表現していて、観ていて胸が詰まらされました。目力の強さも印象的です。
この春田さん、本作の前後にも『はだしのゲン 涙の爆発』(1977年)などの映画やテレビドラマに出演するも、子役を卒業すると同時に芸能界からも遠ざかり、現在は自動車関連会社の経営者だとか。昭和の名子役も、自らの「宿命」と向き合いつつ、自分なりの道をしっかりと歩んでいっている、ということなのでしょう・・・。

住み慣れた故郷を離れ、苦難に満ちた巡礼の旅に向かわざるを得ない境遇に父子を追いやったもの・・・それは、かつて「らい病」と呼ばれ、“不治の病”として恐れられてもいたハンセン病に対する、非科学的な認識に基づいた世間の偏見と差別でありました。
細菌による感染症の一種であるハンセン病ですが、その感染力は極めて低いうえ、適切な治療を受けることにより治癒することができる病気なのです。にもかかわらず、学界で“権威”とされる人物がハンセン病の恐怖をことさらに強調し、患者を強制的に隔離することを主張したがために、それに引きずられる形で国は「らい予防法」を制定。その上、自分たちの県からハンセン病患者を一掃しようとする「無らい県運動」が各都道府県でも高まったことで、強制隔離や断種、優生政策といった、患者に対する自由と人権の侵害が「社会政策」の名のもとに横行しました。そして、患者やその家族に対する世間の偏見と差別は、日本人独特の“穢れ”意識と相まって、根強く残っていくこととなったのです。
ハンセン病をめぐる日本の「負の歴史」は、2020年の初頭から3年以上にわたって続いた、新型コロナウィルスをめぐるパニック状況の中で、かたちを変えて再現されることとなりました。テレビや新聞といったマスコミはコロナの恐怖を煽り、それらによって重用された「専門家」やコメンテーターらは、感染者とされた人たちの「隔離」を主張し続けました。
そんな中でパニックに陥り、冷静さを失った世間では、コロナに感染した人たちとその近親者や勤務先、県外から帰省した人たちに対しての偏見や差別、そして誹謗中傷が横行しました。さらには、「感染を広める」要因だと決めつけられた業種(飲食店や映画を含むエンタメ、アミューズメント業など)に従事する人たちや、マスク着用にワクチン接種、「自粛」などといった「コロナ対策」のありように異を唱える人たちもまた、差別や誹謗中傷の対象とされました。
かくして、恐怖と“穢れ”意識が生み出したハンセン病の「負の歴史」は何ら活かされることなく、「コロナ禍」と称される「緊急事態」の中で繰り返されることとなりました。そして、そのことについてまともな検証や総括もなされないまま、いまだマスクと消毒薬から離れられない人たちの群ればかりが残されたのです。

実はこの『砂の器』のつくり手もまた、長い「負の歴史」からくる認識の歪みから自由ではありませんでした。丹波哲郎さん演じる今西がハンセン病療養所を訪れるシーンは、シナリオの段階では今西は予防着を着用していたといいますが、当時はすでに伝染力の弱さから予防着を着ることはなくなっており、誤解されかねない、とのハンセン病患者団体からの要望を受け、映画にあるような背広姿に変更されたのだとか(小学館DVD BOOK『松本清張傑作映画ベスト10 第1巻 砂の器』の作品解説より)。
「映画を上映することで偏見を打破する役割を」(これも前掲書より)という、良心的で高い志のもと、日本映画史上に輝く素晴らしい名作を生み出したつくり手をして、いったん心の底に根づいた恐怖と“穢れ”意識、そしてそこからくる認識の歪みを完全に払拭することがいかに困難なことなのかを、如実に物語っているエピソードといえましょう。

映画『砂の器』が投げかけた、「負の歴史」についての重い問いかけ。それは、コロナパニックに陥って冷静な判断力を失い、「負の歴史」を繰り返してしまった令和日本の世をも、鋭く射抜くものとなっています。


※参考文献
小学館DVD BOOK『松本清張傑作映画ベスト10  第1巻 砂の器』(小学館、2009年)
小林よしのり『ゴーマニズム宣言Special コロナ論02』(扶桑社文庫、2022年)

アミュプラザみやざき「みやざきワイン博覧会2023」で、深まりゆく秋を満喫いたしました。

2023-10-22 20:32:00 | 美味しいお酒と食べもの、そして食文化本のお噂
アミュプラザみやざき前のアミュひろばにて、先週の20日から3日間にわたり開催された「みやざきワイン博覧会」。宮崎県内のワイナリーが一堂に会し、美味しい食べものとともにワインをたっぷり味わえるという、呑み助にはまことに嬉しいイベントであります。最終日であるきょうのお昼、わたくしめも行ってまいりました。
宮崎の美味しいものをフィーチャーするイベントを、積極的に開催しておられるアミュプラザみやざき。8月には、宮崎県下のクラフトビールと美味しいものを満喫する「みやざきクラフトビール博覧会」という、これまた呑み助垂涎のイベントも開催しておりました。・・・もちろんわたくし、そちらのほうにも馳せ参じました。
(下の画像2枚はその「クラフトビール博覧会」のときのものでございます)



「みやざきワイン博覧会」に集まったワイナリーは6ヶ所。そのうち最低でも4ヶ所は味わいたいという目標のもと、午前11時のオープンとともに会場に入りました。
会場内には、参加した6ワイナリーのブースが並び、グラス売りはもちろんボトルでの販売も行っておりました。そして、さまざまな食べものを販売するブースやキッチンカーも。
まずはなにか食べものを・・・ということで、「炭焼串酒場 ばんさん」というお店のブースであらびきソーセージを購入。お店の若いおねえさんたちがなかなか楽しい人たちで、わたしのカオを見ながら「めっちゃ嬉しそうですね〜」などとおっしゃいます。よほど、期待感に満ちあふれた表情になっていたのでありましょう(苦笑)。宮崎市の繁華街にある、わたしがよく通う大衆酒場のすぐそばにあるお店とのことで、一度寄ってみたい気になりましたねえ。
そして1杯目のワインを。まずは、宮崎ワインの代表格といえる「都農ワイン」のブースに立ち寄り、「今年の新酒ですよ」と教えていただいた「マスカットベーリーA」を選びました。

美しいルビー色と、スッキリとした辛口の味わいがまことにみずみずしく、まさに秋を感じる至福の一杯。ソーセージをおともにしつつ、じっくりと堪能いたしました。
お次は、宮崎県北の「五ヶ瀬ワイナリー」から「ナイアガラ」を。

ほのかな甘みがなんともフルーティで、飲み飽きることなく何杯でも飲めそうな逸品。これまた、至福のひとときを与えてくれました。
よーし、これはまだまだいけそうだぞ、ということで3杯目を。綾町の大手酒造メーカー・雲海酒造の「雲海ワイン」から「デラウェア」をチョイス。

甘味と酸味のバランスがいい「デラウェア」は、雲海ワインの中でもお気に入りの銘柄。明るい金色がまた、いい感じなんですよねえ。
ここいらで2つめのおつまみとして、こちらも宮崎市の繁華街にあるバル「Coco Bowls」のブースで、赤身肉のローストビーフ・赤ワインソースを買ってまいりました。

脂っこさがなくて食べやすく、それでいて噛めば旨味がじわじわと口いっぱいに広がってきて、ワインのおともにピッタリであります。
気を良くしつつ4杯目を。雲海ワインと同じく、綾町にある「香月ワインズ」のブースに立ち寄ると、そこにはなんとブドウならぬ日向夏を使ったワインが。これは面白いということで、飲んでみました。

有機栽培された日向夏を使い、無濾過で仕上げたという日向夏ワインは、酸味の中にほろ苦さを感じる、日向夏の果実そのままの爽快なみずみずしさが詰まっていて、なかなかいけました。
綾町にはこういうワイナリーもあったんですねえ、とブースにいた方に話しかけると、「小規模生産でやってるもんで、あまり知られてなくて・・・」とおっしゃいました。大手だけでなく、「香月ワインズ」のような小規模ワイナリーの存在を知ることができるのも、こういうイベントのありがたいところであります。
4杯飲んでだいぶいい気分になってまいりましたが、まだ飲めそうだったので5杯目に移行することに。宮崎県西部の都城市にある「都城ワイナリー」から、「クマソタケル」という名の赤ワインをチョイスいたしました。

神話の舞台である霧島に近い土地柄ということで、神話に登場する神々からネーミングされている「都城ワイナリー」のワイン。この「クマソタケル」は、ブドウの美味しさが濃厚に感じられるどっしりとした飲み口。まさに、神々の恵みを実感できる一杯でありました。
えーい、こうなったら全ワイナリーを飲み干そう!ということで、残り一つのワイナリーである「小林生駒高原葡萄酒工房」の「シャルドネ」を、締めの一杯としていただきました。やはり県の西部にあるこちらも、今回初めて知ったワイナリーであります。

キリッとした辛口でありながら、ほのかな酸味とともにフルーティさも感じられるシャルドネは、締めの一杯にピッタリでありました。
・・・ということで、参加6ワイナリーのすべてを制覇いたしました!これも、出かける前に飲んでおいた「液キャベ」のおかげかもしれませぬ(笑)。
最終日の「ワイン博覧会」の会場はけっこう賑わっておりました。周りのほとんどが、カップルや友人同士のグループという中で、悠々と真っ昼間の「ぼっち飲み」を楽しんだわたくしでありました。

帰宅する前になにか食べていこう、ということで、駅の構内にある「豊吉うどん」に立ち寄り、たぬきうどんを食しました。いりこだしの旨味が効いた、昔ながらの宮崎うどんが、ほろ酔い気分のお腹を心地よく満たしてくれました。


美味しいワインと食べもので、深まりゆく秋をたっぷりと満喫することができた、休日のお昼でありました・・・。

【追記の上で再投稿】『聞いてチョウダイ 根アカ人生』 熊本に育てられた名優・財津一郎さんが語る、80年の泣き笑い人生

2023-10-19 20:58:00 | 本のお噂

『聞いてチョウダイ 根アカ人生』
財津一郎著、熊本日日新聞社(発売=熊日出版)、2015年


テレビ、映画、CMで幅広く活躍し続けている俳優、財津一郎さん。子どもの頃から、そのユニークな存在感に親しんでいる好きな役者さんですが、わが宮崎のおとなりである熊本のご出身で、3年前に自叙伝をお出しになっていたということを、つい最近になって知りました。
さっそく取り寄せて読んでみたその自叙伝『聞いてチョウダイ 根アカ人生』は、出身地熊本のローカル紙、熊本日日新聞の連載を書籍化したものです。熊本での少年時代、芸能界に進むきっかけとなった合唱と演劇との出逢い、喜劇王エノケン=榎本健一の演劇研究所での修業や、吉本新喜劇の劇団員生活を経て、芸能人として大成していくまでの、涙と笑いに彩られた80年近い人生が語られています。

書名には「根アカ人生」とあるものの、財津さんの人生はけっして、明るく順風満帆なだけのものではありませんでした。
太平洋戦争の頃までは地主だった家に生まれた財津さんでしたが、戦後の農地改革でほとんどの土地を手放すことになります。そして父親もシベリアへの抑留で不在だった中、母親は慣れない農作業で苦労しながら、財津さんを含む6人の子どもを育てていたといいます。
にもかかわらず、財津さんはクラスメートから「地主の子」と言われ、いじめられる日々を送っていました。そんな財津さんを救ったのが、高校時代の恩師でした。学校田に財津さんを連れ出し、共に麦踏みをしながら、恩師はこう語りかけます。

「踏まれることでさらに強い麦になりなさい。耐えて強くなった後に、必ず勝負のときが来る。きょうから根アカに生きるとぞ」

その後の人生を変えるきっかけともなった、恩師からのこの言葉の意味について、財津さんはこう語ります。

「根アカというのは、明るいとか華やかとか、そんな簡単な意味じゃないんです。ピンチのときこそ志を持て、ピンチに立たされたときの経験こそ必ず人生の財産になるという意味なんです」

その後、人生のおりおりで苦労しながらも、恩師の言葉を胸にピンチをチャンスへと変えていく財津さん。トレードマークとなった「チョウダイ」というフレーズも、吉本新喜劇の劇団員時代の極貧生活の中から生まれたものだということを、本書で初めて知りました。
妻と生まれて間もない子どもを抱えながらも、ぎりぎりの極貧生活を続けていた財津さんが、吉本新喜劇の舞台で、息子と激しくケンカする父親を演じていたときのこと。家を出て行こうとする息子に向かって、財津さんが思わず放ったセリフが「やめてチョウダイ」でした。
実生活の苦しさを重ね合わせた「心の叫び」。笑わそうとはこれっぽっちも思っていなかったにもかかわらず、会場は爆笑の渦に。ショックを受ける財津さんでしたが、笑うのは馬鹿にしているのではなくて「がんばれや」という応援なのだ、ということを理解し「チョウダイ」というフレーズを売りにすることに。結果として財津さんの知名度は急上昇し、伝説的テレビバラエティ『てなもんや三度笠』(1962〜1968年)で、その人気を不動のものとするに至ったのです。

本書には、80年近い人生の中で出逢った、さまざまな人びとのことも語られております。亡くなる直前、義足に車椅子という不自由な体を押して、舞台の上で気迫のこもった演技指導をした喜劇王エノケン。つっこみだけではない「受けの芝居」を学ばせてくれた名優・藤田まこと。芝居を通して、悪とは何か、人間とは何かといった深いテーマを教えてくれた井上ひさし。少しも偉ぶることなく、庶民的で好感の持てる青年だったという坂本九・・・。それらのエピソードのひとつひとつも、実に印象的です。
そうそう、評判となったあの「タケモトピアノ」や「こてっちゃん」などのCMの製作エピソードにも、しっかりと触れてくれておりますぞ。

財津さんが恩師から教わった、ピンチの経験を人生の財産にするという「根アカ」な生き方は、わたしたちが生きていく上でも、学ぶべきものがありそうです。
人の関係の中で生じるピンチから天変地異による災厄まで、人生にはさまざまなピンチが訪れるものです。そこで膝を屈して終わるのではなく、それらを人生の財産として活かしていくことで出逢いにも恵まれ、強くしなやかな生き方ができるのではないか・・・。財津さんの人生は、そんなことを教えてくれるように思いました。
そんな財津さんの人生を支えた教えも、芸能界に進むきっかけとなる合唱と演劇との出逢いも、いずれも熊本時代にもたらされたものでした。財津さんはまさしく、熊本という土地で育てられ、その基礎をつくった方なのだ、ということも、本書で知ることができました。

財津さんが属している「昭和九年会」。文字通り昭和9(1934)年生まれの芸能人が集まったボランティア団体のメンバーですが、それに属していた方々の多くがこの世を去っています。愛川欽也、坂上二郎、長門裕之、牧伸二、山本文郎、大橋巨泉、藤村俊二・・・。時の流れとはいえ、なんとも寂しいことです。
本書を「遺書だという思いで」語ったという財津さんですが、一方で「でもね、僕は死なないよぉ」といいつつ、こう続けます。

「ゴールはまだ早い。止まりはしないが急ぎはしない。一日一日、生きていることをかみしめ、一歩づつ歩いていくのです」

そう。財津さんにはまだまだ、お元気でいていただきたいと心から願うのです。日本の芸能界の宝ともいえるお方なのですから。


(以上、2018年7月8日アップのオリジナル記事。以下は2023年10月19日に追記)

本書『聞いてチョウダイ 根アカ人生』の中で、「僕は死なないよぉ」と語っておられた財津一郎さんでしたが、2023年10月14日に慢性心不全のため逝去されました。89歳でした。
ショックでした。「まだ死なないって言っておられたじゃないですか!」と物申したい気持ちがいたしました。ですが、最愛の妻を失い(本書には、極貧生活が続いた中で支えとなってくれた、妻への感謝の思いも綴られております)、ご自身も病と闘い続けていたということを知るに及んで、今はただ「とても寂しいのですが、どうかごゆっくりとお休みになってください」と申し上げたいと思います。
このところ、さまざまな分野において長きにわたり親しんできた方々の訃報を多く目にいたします。これを綴っているつい数日前にも、ミュージシャンの谷村新司さんの訃報を目にしたばかり。喪失感で精神的にこたえます。
ですが、こういう時にこそ、財津さんが拠りどころにしてきた「根アカ人生」哲学で喪失感を乗り越え、「一日一日、生きていることをかみしめ、一歩づつ歩いていく」ことが大事なのでしょう。本書をあらためて繰りながら、そんなことを噛み締めております。
財津一郎さん、たくさんの笑いと希望を与えてくださり、本当にありがとうございます!!