『夜露死苦現代詩』
都築響一著、筑摩書房(ちくま文庫)、2010年
(親本は2006年に新潮社より刊行)
刊行されてからだいぶ経っている書物を読み、「こんな面白い本をなんでいままで見過ごしていたのか!」と、激しく後悔してしまうことがよくあります。今回取り上げる都築響一さんの『夜露死苦現代詩』も、まさにそのような一冊でした。
アートやデザイン関連をメインとした編集・執筆活動を続けておられる都築響一さんは、マスメディアやアカデミズムが無視、黙殺しているモノやヒトにスポットをあて、その面白さと価値を掘り起こす仕事で知られています。
オシャレさや小ぎれいさとはほど遠いけれど、どこか快適で楽しそうに感じられる、小さくてごちゃごちゃした都市の生活空間を切りとった『TOKYO STYLE』(京都書院→ちくま文庫)や『賃貸宇宙 UNIVERSE for RENT』(筑摩書房→ちくま文庫)。奇妙で俗悪だけども愛すべき、日本全国の珍スポットを発掘することで、地方の面白さと価値を再認識させてくれた木村伊兵衛賞受賞作にして、わたしのお気に入りの一冊でもある『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト→ちくま文庫)。まともな「アート」として扱われることのない、ラブホテルやデコトラ、大人のおもちゃなどといった対象を、れっきとした「アート」として正面から取り上げたシリーズ『STREET DESIGN FILE』(全20巻、アスペクト)・・・などなど。
そして、この『夜露死苦現代詩』では、「現代詩」はもちろん「文学」とも見做されないような表現を、「現代詩」として正面から取り上げています。取り上げられている表現の一部を挙げますと・・・「老人病院の寝たきり老人たちのつぶやき」「点取り占いに記されたことば」「獄中の死刑囚が詠んだ俳句」「暴走族の特攻服に刺繍されたフレーズ」「エミネムや渋谷のラッパーによるヒップホップのリリック」「エロ風俗サイトのキャッチコピー」「ワープロの誤変換」「見世物小屋の口上」「相田みつをの詩作品」などなど。
一見すると、気を衒ったかのようなラインナップにも思えますが、それらの表現が持つ妙味やリアルさを論じていく語り口は、とても面白くてスリリング。文庫版で400ページ近いボリュームながら、一気に読まされました。
無性に楽しかったのが、駄菓子屋の店先で売られていた「点取り占い」を取り上げた章。細く折り畳まれた小さな紙片に詞書(都築さんはこれを「詩句」と称しています)と点数、ヘタウマな挿画などが印刷されている、いかにも「昭和レトロ」感たっぷりの「点取り占い」が、豊富な図版とともに紹介されています。
油虫におっかけられてにげました 2点
君はもつとえんりょしなければいけません 6点
雨の降る日は天気が悪いとは知らなかった 1点
一寸(ちっと)もおもしろくない 1点
うちのおやぢは一番えらい 10点
なんともいえない唐突感あふれる「詩句」と、それにつながりがあるんだかないんだかわからない「点数」との組み合わせが味わい深い「点取り占い」。そのルーツはなんと昭和10年に遡るそうで、その後の戦災で資料や版をすべて焼失し、ゼロから作り直されたものが、その後も長く販売され続けた「点取り占い」であるとのこと。そこに記されている「詩句」はすべて、製造会社の社長さんがひとりで生み出したものだそうで、「寝ながら、ふと思いついたこと」を「意味など考えずにどんどんメモしていった」といいます。なるほど、ウケを狙って考え出したものではないからこそ、「点取り占い」の唐突でシュールな味わいが生まれたんだなあ、と妙に納得させられました。
その「点取り占い」も、本書刊行後の2017年に生産が終了してしまったとのこと。まことに残念なことですが、この飄逸でシュールな「点取り占い」の楽しさが、なんらかの形で受け継がれていくといいなあ・・・と思うばかりであります。
ちなみに、本書の図版で紹介されている「点取り占い」で、わたしが一番お気に入りなのが、コレ。
おみこしをかついだ事がありますか 6点
「点取り占い」の紙を開いて唐突に「おみこしをかついだ事がありますか」って訊かれても、どうにも反応に困るわけで。そもそもコレがなんで「6点」なのかがよくわからない(笑)。そしてもう一つ、コチラも捨てがたいものが。
お前は三角野郎だ 5点
いきなり「三角野郎」といわれても、これまた反応に困りまする。で、コレに添えられているのが、頭部が黒い三角形になっているヒトを描いたそのまんまな挿絵。シュールすぎる(笑)。
ワープロの誤変換を取り上げた章もまた、意図せぬところから生まれるシュールな可笑しさにあふれていて愉快でありました。「今年から貝が胃に棲み始めました」(今年から海外に住み始めました)などの誤変換の中で、とりわけ傑作だったのがコチラ。
今年十二枚雑巾を発掘したいと思う(今年中に埋蔵金を発掘したいと思う)
パソコンで小説を書いていたときに生まれた誤変換とのことですが、埋蔵金発掘を描いた小説よりも、十二枚の雑巾を発掘すべく悪戦苦闘する小説のほうが、はるかに面白そうな気がするな(笑)。
これらとは対照的に、ある種の「技巧」を凝らすことによって生まれる面白さに満ちていたのが、インターネット上のエロ風俗サイトのキャッチコピーを取り上げた章。語呂合わせや韻を踏んだフレーズの連呼などを駆使して、スケベなオトコどもを惹きつけるべく編み出されたコピーには妙な高揚感があって、なかなか侮れんものがあるなあと感心させられました。・・・ここでは、それらのコピーの実例を引用することは控えておきますが(笑)。
その一方で、ある種の極限状況の中から搾り出された言葉が持つ凄みには、強い衝撃を受けました。そのひとつが、1996年に東京池袋のアパートの一室で、41歳の息子とともに餓死していた77歳の母親が、ノートに綴っていた日記の文章です。
「昨日、サバイバルという文句を、教えて頂きましたが、今の私共の異常事態の中で生き残るには、どんな方法を、したらよいのか、ぜん、ぜん、分かりません、明日までで、食べ物は、何一つ無い状態になります、(中略)
後は、お茶丈で、毎日すごさねばならぬ状態でそのお茶も、後、何日分と、すべて口に、する物は、きれいに、無くなります、・・・・・・
なぜ、私共は、こんなにひどい苦しみを、何十年と、しなければ出来ないのでせうか、・・・・・・」
夫に先立たれ、脳に障害を持っていた息子の看病に追われた挙句に、空腹と寒さ、そして自らの持病に苛まれる日々を細かく書き綴った、読点の多い日記。苦しみに満ちながらも、「諦観めいた、自分たちの人生を突き放して眺める目線」も感じられるその文章に、都築さんは母親の「深い闇」を見ます。
死刑囚たちが詠んだ俳句を取り上げた章もまた、極限状況から生み出された表現の凄みを感じさせられました。
綱
よごすまじく首拭く
寒の水
自らの死を目前にする中で生まれてきた、かくも静謐にして凄絶な言葉を前にすると、世の「文学」と称されるものの多くが、なんとも無力で薄っぺらいものに感じられてならなくなりました。
個人的に感慨深かったのは、かつて『ロッテ歌のアルバム』などの歌謡番組で名司会者として鳴らした、玉置宏さんの曲紹介ナレーションを取り上げている章です。
旅に出たのは、何故だと尋(き)かれ
ひとりぼっちは 何故だと尋かれ
涙がひとつ 答えてる
遠く煌めく 灯台だけが
私の恋を 知っている
旅に疲れた 女がひとり
「津軽海峡冬景色」
石川さゆりさんです
イントロが流れるわずか20〜30秒のあいだに語られる、歌の世界観を凝縮した情感あふれる名調子。都築さんは、生前の玉置さん本人へのインタビューをもとに、その真髄と妙味に迫ります。
事前に用意された台本に基づいてなされていると思われていたナレーションは、実はすべて玉置さん自作のフレーズだったということに、まず驚かされました。さらに、実際に演奏されるイントロの長さに合わせられるように、「1曲につき、短いもの、真ん中くらいのもの、長いもの」と3パターンのコメントを作ったり、「同じ曲でも、その曲が置かれる場所、あるいは唄われる時代によって紹介は変わります」と、同じ曲紹介は二度としなかったということに、より一層驚かされました。そんな玉置さんの「話芸」は、古典落語や活弁、俳句や川柳の勉強によって磨かれたものだったということも、本書で初めて知りました。
名司会者として鳴らした玉置さんでしたが、その晩年はとても不遇だったようです。ここでそのことに触れることはいたしませんが、都築さんが「日本と日本語が誇るべきMCのオールドスクール」「生半可なポエトリー・リーディングなど足元に及ばない話術の至芸」と賛辞を贈った玉置さんの「話芸」の素晴らしさは、今もなおいささかも、その輝きを失っていないように思いました。
誰からもまともな「詩」や「文学」とは見做されず、詩壇文壇アカデミズム、そしてメディアからも軽視・黙殺されてしまう表現の数々。しかし、そういった表現によって支えられている人たちが少なからず存在していることを、本書は教えてくれます。
そのいい例が、暴走族が着用する「特攻服」に刺繍で入れられた「詩句」でしょう。おそらくはまともに学校で勉強もしていないであろう彼らが、仲間や敵対するグループのフレーズを研究するなどして、彼らなりに言葉のセンスを磨いていく中で生み出された「詩句」。それらは死を覚悟した上で謳いあげられる、対抗するグループや警察権力との闘いのメッセージであり、仲間たちとの絆の証でもあります。
でも、それらは暴走族ということだけで軽蔑され、嫌悪の対象とされてしまいます。それについて、「好きなものじゃなくて、いちばん嫌いなものの中にこそ、リアリティは隠れてる」とした上で述べられる結びの文章に、ハッと胸を突かれました。
「交通ルールを無視し、他人に迷惑をかけ、シンナーや覚せい剤でからだを壊し、ヤクザの使いっ走りになり、挙句の果ては事故って命を落とし・・・・・・。暴走族って、なんて下らない人生なんだろう。だけど、もっとも崇高なことに懸命になって、そこに生まれるのはせいぜい宗教だろうが、もっとも下らないことに、もっとも懸命になる、そこに芸術が生まれたりするのだ」
都築さんは本書の「はじめに」でも、このように述べます。
「すべての芸術はまず落ちこぼれに救いの手をさしのべる、貴重な命綱だったはずだ。頭いい人たちのオモチャである前に。(中略)
頭いい人たちが、学校から給料もらいながら「現代詩は死んだか」なんて議論して時間潰してるあいだに、もっと、はるかに切実にリアルな言葉を必要としている人々がたくさんいる。その人々に向かって書く人がいる」
「崇高なこと」ばかりを持て囃し、お利口でお行儀のいい「頭いい人たちのオモチャ」というポジションに収まっていては、文学はもちろんのこと文化・芸術全般が味気なくつまらないものとなり、衰弱していくのは目に見えています。本書は、そのような状況に対する異議申し立ての書であり、「落ちこぼれ」の貴重な命綱としての役割を忘れた書き手や作り手、そして「学者」「専門家」と呼ばれるアカデミズムへの強い問題提起でもあります。
そのことを踏まえると、暴走族の刺繍による「詩句」の一節が、気持ちに響いてまいりました。
人生夢見て歩むべし
それが選んだ道ならば
俺がつらぬき通すだけ
世間は馬鹿と呼ぶけれど
なって見やがれ この馬鹿に・・・
どうですか、この心意気。世間からなんと言われようとも、「馬鹿」になりきる精神こそ、文学を含めた文化・芸術全般に必要なことなのではないかと、思うのであります。いつまでもコロナごときにビビって萎縮してる場合じゃありませんぞ。
文壇やアカデミズム、そしてメディアといった、お利口でお行儀がいい「頭いい人たち」が持て囃す「文学」にはない、本当にリアルな表現の面白さと妙味を伝えてくれる快著でありました。