NHKスペシャル 終戦70年企画『“あの子”を訪ねて ~長崎・山里小 被爆児童の70年~』
初回放送=8月9日(日)午後9時00分~9時49分
語り=渡邊佐和子
手記朗読=NHK東京児童劇団
製作=NHK長崎放送局・福岡放送局
70年前のきょう。長崎市に投下された原子爆弾により、爆心地から700メートル離れたところに位置する山里小学校(当時は山里国民学校)では、1300人もの子どもと教師の命が奪われました。
その中で、奇跡的に生きのびることができた、当時4~11歳だった37人の子どもたちの被爆体験手記がまとめられ、1949年に出版されました。
『原子雲の下に生きて』と題されたその手記集をまとめたのは、『長崎の鐘』や『この子を残して』といった著書で知られる長崎医科大学の永井隆博士でした。それ以降、37人は “あの子” と呼ばれ、長崎を象徴する存在となりました。
NHKは、35年前の1980年に、37人の子どもたちのその後を取材し、『あの子 原子野に生きた37人』というドキュメンタリーを製作していました。それからさらに35年後の今年、原爆によって人生を大きく変えられてしまった “あの子” たちの足跡を辿ったのが、この番組でした。
手記を寄せた子どもたちの中で最年少だった、当時4歳の女性。両親を原爆で亡くして孤児となったあと親戚に引き取られますが、そこではたびたび暴力を振るわれました。今でも背中には、その時に受けた傷が残っているといいます。
その後親戚の家を出て就職し、自活した彼女でしたが、徐々に弱視がひどくなっていき、そのことで仕事をやめさせられることに。身寄りもなかった彼女は被爆した方々が入所する養護ホームに入り、現在に至るまでずっとそこで暮らしています。ホームに入所してからは外との繋がりも薄れ、結婚することもできませんでした。彼女は語ります。
「わたし、70年も何してたんだろう、って思うことがある。原爆さえ受けてなかったら、きっと結婚していたんだろうな、と」
彼女が発した言葉が、ナレーションにより語られます。「戦争よりも、戦後に受けた傷のほうが大きかった」。
手記集が出版された当時の37人の集合写真で、一人だけ靴を履いていなかった少女が写っていました。当時6歳だったその女性は、住んでいた家が全壊した上に父親が失業。家族7人は食べるものにも事欠くような貧しい生活を強いられます。「靴だけじゃなく、着替えるための服もなかった」と彼女は振り返ります。その後、2人の子どもに恵まれた彼女は、子どもたちには自分が味わったような貧しさを味わわせたくない、と「原爆のことはなるべく考えないように」必死になって2人を育てました。
その2人の子どもの1人である息子さんから、50歳を過ぎた彼女は「一緒に住まないか」と呼ばれます。しかし、その時息子さんはこう言ったといいます。
「お母さん、被爆したことは絶対に言ってはいけないよ」
生まれつき心臓を患っていたという息子さんは、それが原爆と関係があるのではないか、と思っていたというのです。「その時のことが一番辛かった」と彼女は言います。
その息子さんも、11年前に亡くなっていました。「もっとたくさん話したかった」と彼女は語りました。
被爆した体験を語ること自体を、妻から反対されたという男性もいました。妻からは「もう不安だったとしか言えない」と言われたといい、特に初孫が生まれてからは「原爆については絶対に話さないでほしい」とも言われた、と。やはり、なんらかの影響があるのではないかと不安に思っているのでは、と男性は推察します。
男性がつぶやいた言葉が、ナレーションにより語られます。
「つらくはないけど、寂しいね」
語り部として、手記の内容を1万回以上語り続けている女性。彼女を駆り立てているのは、妹の死を無駄にしたくない、との思いでした。被爆後、「ウジがわいて臭い」などといじめられていた妹さんは、被爆から10年後に自ら列車に飛び込んで命を絶ったのです。
しかし、彼女は被爆体験を語ることの難しさを感じていました。「あまり残酷な話をすると、“夜眠れない” という子どももいるし、お母さんからは “そんな話をしないでください” と電話で言われたりもする」と彼女は言います。加えて、病院に通うことも増えた昨今は、語る機会自体も減ってきている、とも。
37人の “あの子” のうち、すでに5人の方が亡くなっています。
35年前のドキュメンタリーで、一人取材を拒否していた男性がいました。その男性は、「どうしても言っておきたいことがあるから」と、今回の番組の取材を受けることになりました。
男性は、足にひどい火傷を負っていました。手術は受けたものの、足にはケロイドが残りました。その経過を調査するという名目で、米軍が設置したABCC(原爆傷害調査委員会)によって、幾度も皆が見ている前で連れ出されるという屈辱を味わいました。
男性は取材を受けるにあたって、ABCCによる調査資料を取り寄せていました。あの時、裸にされて撮られた写真を見せたい、というのです。しかし、資料には写真は1枚も添付されてはいませんでした。
10年前からがんに苦しめられているという彼は、原爆がもたらした苦しみと怒りを綴ったことばを読みあげます。
「早く死なせてくれたらいいな」
「原爆ほど、人の人生をめちゃくちゃにしたものはない」
当時7歳で被爆し、両親を亡くした女性。10代から20代にかけて、仕事を求めて全国各地を彷徨うことになりました。その時のことは絶対に話したくはない、と彼女は言います。
「その時はもうボロボロだった。両親を亡くしたときよりもボロボロだった」
そんな苦しさを打ち明けることができる唯一の存在が、やはり長崎出身の夫でした。夫の勧めで、高校に行けなかった彼女は通信制の高校を卒業することもできました。
その夫も、脳梗塞のあと認知症も進行していて、会話がしにくくなっているといいます。しかし、彼女が高校に行けなかったことを悔しがっていたことを、夫はしっかりと覚えていたのでした。
インタビュー取材が終わったあと、彼女は付け加えるようにこう語りました。
「何の役にも立たないけれど、原爆の話だけは後世に伝えなければならない。苦しむのは自分たちなんだから、伝えてほしいと思います」
被爆した方々がその後に辿った人生について、自分はまだまだ何も知らなかったということを、つくづく思い知らされました。それほど、登場した “あの子” たちの証言の一つ一つに打ちのめされました。
原爆がもたらした惨禍の実状が語り継がれなければいけないことはもちろんのこと、原爆によって大きく変えられてしまった、被爆した方々のその後の人生についても、もっともっと語り継がれなければならないのではないか、という思いがいたしました。
もちろん、あまりにつらい体験と人生であるがゆえに、語りたくないという方も少なくないでしょう。その思いは最大限、尊重されなければなりません。その上で、なぜ語りたくないのかについて、可能な限り想像を及ばせることが、原爆がもたらしたものについて考えることにもなるのではないだろうか、とも思うのです。
重い内容でしたが、大事な問いかけに満ちていた番組でした。
初回放送=8月9日(日)午後9時00分~9時49分
語り=渡邊佐和子
手記朗読=NHK東京児童劇団
製作=NHK長崎放送局・福岡放送局
70年前のきょう。長崎市に投下された原子爆弾により、爆心地から700メートル離れたところに位置する山里小学校(当時は山里国民学校)では、1300人もの子どもと教師の命が奪われました。
その中で、奇跡的に生きのびることができた、当時4~11歳だった37人の子どもたちの被爆体験手記がまとめられ、1949年に出版されました。
『原子雲の下に生きて』と題されたその手記集をまとめたのは、『長崎の鐘』や『この子を残して』といった著書で知られる長崎医科大学の永井隆博士でした。それ以降、37人は “あの子” と呼ばれ、長崎を象徴する存在となりました。
NHKは、35年前の1980年に、37人の子どもたちのその後を取材し、『あの子 原子野に生きた37人』というドキュメンタリーを製作していました。それからさらに35年後の今年、原爆によって人生を大きく変えられてしまった “あの子” たちの足跡を辿ったのが、この番組でした。
手記を寄せた子どもたちの中で最年少だった、当時4歳の女性。両親を原爆で亡くして孤児となったあと親戚に引き取られますが、そこではたびたび暴力を振るわれました。今でも背中には、その時に受けた傷が残っているといいます。
その後親戚の家を出て就職し、自活した彼女でしたが、徐々に弱視がひどくなっていき、そのことで仕事をやめさせられることに。身寄りもなかった彼女は被爆した方々が入所する養護ホームに入り、現在に至るまでずっとそこで暮らしています。ホームに入所してからは外との繋がりも薄れ、結婚することもできませんでした。彼女は語ります。
「わたし、70年も何してたんだろう、って思うことがある。原爆さえ受けてなかったら、きっと結婚していたんだろうな、と」
彼女が発した言葉が、ナレーションにより語られます。「戦争よりも、戦後に受けた傷のほうが大きかった」。
手記集が出版された当時の37人の集合写真で、一人だけ靴を履いていなかった少女が写っていました。当時6歳だったその女性は、住んでいた家が全壊した上に父親が失業。家族7人は食べるものにも事欠くような貧しい生活を強いられます。「靴だけじゃなく、着替えるための服もなかった」と彼女は振り返ります。その後、2人の子どもに恵まれた彼女は、子どもたちには自分が味わったような貧しさを味わわせたくない、と「原爆のことはなるべく考えないように」必死になって2人を育てました。
その2人の子どもの1人である息子さんから、50歳を過ぎた彼女は「一緒に住まないか」と呼ばれます。しかし、その時息子さんはこう言ったといいます。
「お母さん、被爆したことは絶対に言ってはいけないよ」
生まれつき心臓を患っていたという息子さんは、それが原爆と関係があるのではないか、と思っていたというのです。「その時のことが一番辛かった」と彼女は言います。
その息子さんも、11年前に亡くなっていました。「もっとたくさん話したかった」と彼女は語りました。
被爆した体験を語ること自体を、妻から反対されたという男性もいました。妻からは「もう不安だったとしか言えない」と言われたといい、特に初孫が生まれてからは「原爆については絶対に話さないでほしい」とも言われた、と。やはり、なんらかの影響があるのではないかと不安に思っているのでは、と男性は推察します。
男性がつぶやいた言葉が、ナレーションにより語られます。
「つらくはないけど、寂しいね」
語り部として、手記の内容を1万回以上語り続けている女性。彼女を駆り立てているのは、妹の死を無駄にしたくない、との思いでした。被爆後、「ウジがわいて臭い」などといじめられていた妹さんは、被爆から10年後に自ら列車に飛び込んで命を絶ったのです。
しかし、彼女は被爆体験を語ることの難しさを感じていました。「あまり残酷な話をすると、“夜眠れない” という子どももいるし、お母さんからは “そんな話をしないでください” と電話で言われたりもする」と彼女は言います。加えて、病院に通うことも増えた昨今は、語る機会自体も減ってきている、とも。
37人の “あの子” のうち、すでに5人の方が亡くなっています。
35年前のドキュメンタリーで、一人取材を拒否していた男性がいました。その男性は、「どうしても言っておきたいことがあるから」と、今回の番組の取材を受けることになりました。
男性は、足にひどい火傷を負っていました。手術は受けたものの、足にはケロイドが残りました。その経過を調査するという名目で、米軍が設置したABCC(原爆傷害調査委員会)によって、幾度も皆が見ている前で連れ出されるという屈辱を味わいました。
男性は取材を受けるにあたって、ABCCによる調査資料を取り寄せていました。あの時、裸にされて撮られた写真を見せたい、というのです。しかし、資料には写真は1枚も添付されてはいませんでした。
10年前からがんに苦しめられているという彼は、原爆がもたらした苦しみと怒りを綴ったことばを読みあげます。
「早く死なせてくれたらいいな」
「原爆ほど、人の人生をめちゃくちゃにしたものはない」
当時7歳で被爆し、両親を亡くした女性。10代から20代にかけて、仕事を求めて全国各地を彷徨うことになりました。その時のことは絶対に話したくはない、と彼女は言います。
「その時はもうボロボロだった。両親を亡くしたときよりもボロボロだった」
そんな苦しさを打ち明けることができる唯一の存在が、やはり長崎出身の夫でした。夫の勧めで、高校に行けなかった彼女は通信制の高校を卒業することもできました。
その夫も、脳梗塞のあと認知症も進行していて、会話がしにくくなっているといいます。しかし、彼女が高校に行けなかったことを悔しがっていたことを、夫はしっかりと覚えていたのでした。
インタビュー取材が終わったあと、彼女は付け加えるようにこう語りました。
「何の役にも立たないけれど、原爆の話だけは後世に伝えなければならない。苦しむのは自分たちなんだから、伝えてほしいと思います」
被爆した方々がその後に辿った人生について、自分はまだまだ何も知らなかったということを、つくづく思い知らされました。それほど、登場した “あの子” たちの証言の一つ一つに打ちのめされました。
原爆がもたらした惨禍の実状が語り継がれなければいけないことはもちろんのこと、原爆によって大きく変えられてしまった、被爆した方々のその後の人生についても、もっともっと語り継がれなければならないのではないか、という思いがいたしました。
もちろん、あまりにつらい体験と人生であるがゆえに、語りたくないという方も少なくないでしょう。その思いは最大限、尊重されなければなりません。その上で、なぜ語りたくないのかについて、可能な限り想像を及ばせることが、原爆がもたらしたものについて考えることにもなるのではないだろうか、とも思うのです。
重い内容でしたが、大事な問いかけに満ちていた番組でした。
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