しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

東久邇宮稔彦内閣

2021年01月24日 | 昭和20年(戦後)




「岩波講座・日本歴史22」   岩波書店 1977年発行 


皇族内閣の使命

昭和20年8月15日、天皇は東久邇宮稔彦王に組閣を命じた。
この非常時に際して首相たりうるのは天皇の名代として軍と国民に臨みうる人物でなくてはならなかった。
明治天皇の皇女を妃とし、現天皇の長女が配偶者の陸軍大将稔彦王はその最適任者だった。

彼は反東条和平論者であり、近衛文麿と気脈を通じ、かねてこの日のあることを期していた。
8月14日夜の陸軍省一部将校の宮城占拠事件はじめ横浜・水戸・厚木などで不穏な動きがあった。
いずれも占領軍上陸までには鎮静に帰した。
しかし膨大な軍需物資が秘密のうちに緊急処分され、当時の国家財政の1/4にあたる物資が闇に消えた。

「秩序の維持」にも内閣は成功した。
支配層のもっとも恐れた革命運動は気配さえもなかった。

GHQの最大の関心は当面軍事的武装解除にあり、ワシントンからの示達も遅れた。
9月15日と29日、マっカーサーは首相を引見して内閣信任の意思を表示し、27日には天皇の訪問を許した。
天皇がGHQに従属していること、その限りで存在が認められていることを内外に示した。

戦前の政党政治への復帰をもくろむ東久邇宮内閣は,GHQの民主化政策に耐えれずに10月5日総辞職した。
新首相には米英に信用の厚い幣原喜重郎が任命された。







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東久邇宮・幣原内閣の頃

2021年01月11日 | 昭和20年(戦後)
「日本の歴史を見る10」 世界文化社 2006年発行

終戦から現代までの曲折 猪木正道


陸海軍を復員して占領軍を迎えるという困難な課題は、昭和20年8月17日に成立した東久邇宮内閣に課せられた。
皇族内閣という前例のない体制によって軍人の不満を押え、占領下に国体を護持しようとしたのである。

国民生活は平時へ戻っていった。
他方”一億総ザンゲ論”を唱え、戦争責任の追及をポカすとともに、
莫大な額の軍需物資の放出をつづけた。
9月2日アメリカ戦艦ミズーリの艦上で、降伏文書の調印式が行われた。
この日から天皇と政府の権限は、連合国最高司令官マッカーサーの下に置かれたのである。

日本軍の復員と解体が、誰も予想しなかったほど円滑に進み、
約300.000のアメリカ軍が、ほぼ無事故で占領したことは東久邇宮内閣の大きな功績といってよかった。
この内閣はショックを吸収するクッションのような役割を果たした。
しかし旧大日本帝国の権力構造を根底からくつがえすことを目的とした占領軍に、旧支配勢力で固められた東久邇宮内閣の存続には限界があった。







昭和20年10月9日、幣原喜重郎内閣が成立した。
昭和6年若槻内閣が倒れた語14年間、その存在を忘れられていた。
彼が軍部の大陸政策に反対し、軍国主義者から英米派として排撃されていたことが、
いまや彼にとっても、占領下のわが国にとっても大きな資産となった。
吉田茂が外相に就任した。
吉田は戦争末期、憲兵隊によって投獄されたこともある。
こうして米英との戦争に協力しなかった二人の指導下に、占領軍による上からの民主化を迎えることになった。

10月11日マッカーサー元帥は幣原首相に、
1・婦人の解放
2・労働者に団結権
3・教育の自由化主義化
4・専制政治の廃止
5・経済機構の民主化
を指令し、憲法の改正を示唆した。

10月30日、
軍国主義教員の追放

11月2日、
財閥の解体

12月9日、
農地解放
が指令された。

12月6日には近衛文麿・木戸幸一など天皇側近に逮捕命令が出た。
当時天皇に対する国際世論はかなりきびしかった。
天皇までが戦犯として逮捕される恐れがあった。
幣原内閣はこのような事態を避けるためマッカーサー司令部に必死の働きかけを行い、
翌昭和21年1月1日、”人間宣言”が発表された。
昭和21年2月19日から天皇は地方巡幸を開始し、いたるところで国民の歓迎を受けた。



寄生地主制の崩壊

旧大日本帝国の権力構造が、わが国独特の寄生地主制と深く結びついていることは世界中に知れ渡っていた。
農相松村謙三は、戦争中投獄されていた和田博雄を農政局長に起用して、独自の農地改革案を作製させた。

総司令部は拒否した。
日本の共産化を防止するためにも農地改革を徹底する必要がある、
その勧告にもとづいて第二次農地改革案を国会に提出し可決された。

この二次農地改革によって寄生地主制は事実上消滅した。
わが国の農地は原則として耕作者のものとなった。
わが国の農村は共産主義運動の拠点にならないで、逆に保守勢力の地盤として止まった。



公職追放

問題は追放の範囲をどこまで広げるか、どの程度に限定するかに存じていた。
公職追放令はフランス革命やロシア革命において革命勢力が実力で成し遂げたことを占領軍の命令によって行おうとするものであった。
幣原内閣にも閣僚5名の該当者があった。



学校教育改革
機会均等

総司令部の注意は、軍国主義教員の追放に次いで
終身・日本歴史・地理等の教科に集中した。

義務教育の改善
経済的に困窮している当時の日本にとって義務教育を3年間延長することは、あまりに無謀なように見えた。
占領軍の意向は絶対的と考えられていたので、非常な困難を乗り切って昭和22年4月1日から6.3制が発足した。

6.3.3.4制は義務教育を3年間延長した点、
高等教育と大学教育を普及した点において、教育の機会均等を推進したことは間違いない。
しかし反面、教育の質を低下させたことも否定できない。



新憲法制定

幣原内閣は昭和20年10月マッカーサー元帥から改憲の必要を直接示唆された後も、極めて消極的な態度をとりつづけた。
「主権は国家にあり」と規定し、主権在民説を採用しなかった。
総司令部は、この程度の改憲では到底きびしい国際世論の批判に耐えることができないと判断した。
総司令部民政局は大急ぎで改正憲法の草案を書き上げた。

特徴は、
主権在民
議会制民主主義
基本的人権の保障
戦争の放棄
にあった。

このマッカーサー草案が幣原内閣にとってどれほど大きな衝撃であったかは、想像に難くない。
国際世論の風当たりの強さを知らされ、天皇の地位を残すためには憲法改正を進める他はないことをようやく認識した。

 


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終戦直後の指令①金光中学校

2020年12月04日 | 昭和20年(戦後)
「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 





終戦直後の指令・金光中学校

終戦直後は、次から次へと指令が発せられ、また調査報告が要求されて、その事務に忙殺される有様であった。
昭和20年第二学期は、9月3日職員生徒登校、翌4日から授業を開始した。

9月10日、県神祇教学科から指令が届いた。
それは銃器返納を請求してきたのである。
最上級生が各自二挺ずつの銃をもって、あの混乱した輸送事情の中を汽車で岡山へ向かったのである。

11月19日、県が学校当局を招集して、マ司令部の主旨に基づくとして軍事教育を廃止すること、職業軍人の追放、教科書から不適当な箇所の削除、校歌、校訓、額、掛軸等から戦時色を拂拭すること、
その他伊勢神宮大麻奉斎の神棚撤去等の指令があり、
また挙手の敬礼その他軍隊的動作、作法は避ける要ありなど、細部に亘る注意事項の指示があった。

11月23日、文部省主催の教育新方針講習会が三原で開かれ、そこで武道も滑空も共に全面的に停止、
また団体的訓練はマ司令部の喜ばざるところで、今後隊伍を整え、歩調を取っての行進は廃すべきものと指示された。

越えて昭和21年1月7日、修身、歴史、地理の三教科につき、現行教科書使用を即時禁止。指示するまで授業を停止を指令された。
1月9日、戦争に関する書籍一切を提出せしめられた。

1月12日、両陛下の御真影全部を奉還することになって、都窪浅口地方事務所へお移し申し上げた。

2月2日、進駐軍検査官一行が来校した。
一行は書籍の破棄も行き過ぎにならぬようにと注意を与えた。

人心の荒廃は学生界にも大きく響いたが、幸い本校の生徒は、混乱のなかにあっても、安定を得ていたことを心強く感じている。

三代目校長「60年のあゆみ」より

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RAA、生贄にされた七万人の娘たち

2020年09月26日 | 昭和20年(戦後)
東京闇市興亡記」 猪野健治編 双葉社 1999年発行




RAAの発足

RAAの発足は、迅速を極めた。

8月17日、東久邇宮内閣が生まれた。
8月18日、内務省警保局長から、各庁・府県長官あてに「進駐軍特殊慰安施設について」と題する、秘密無電の準備司令が発せられている。
戦災で半壊状態であった妓楼、淫売屋は、国家権力で息を吹き返した。
あまたの”昭和の唐人お吉”が狩り集められようとしていた。

8月28日、皇居前広場では、特殊慰安敷設協会の設立宣誓式が行われた。
「我らは断じて進駐軍に媚びるものに非ず、条約の一端の履行にも貢献し、社会の安寧に寄与し、以って国体維持に挺身せむとするに他ならざることを、重ねて直言し、以って声明となす」



性を知らない娘たちが集まった

【新日本女性に告ぐ】
「国家緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む!
ダンサー及び女事務員募集。年齢18歳以上二十五歳まで。
宿舎・被服・食糧全部支給。
戦災で家を焼かれ、工場を解雇され、今日食べる糧を求めて彷徨っていた若い娘たちにとって、これ以上の殺し文句はなかっただろう。

8月27日までに協会は、1360人を確保した。
化粧らしい化粧をしている者はなく、煤けたモンペ姿で、満足な着物を着たものは一人もなく、十人に九人がハダシという様子であった。
当初、警察は売春の前歴のある商売女を集めることであったが、フタを開けると素人娘がほとんどであった。
玄人女性は「米兵はサイズが巨大で、局部が裂ける」と恐れて敬遠した。
古いモンペを脱いだ娘たちは、東京都特配のメリンス長じゅばん一枚、肌着と腰巻各二枚、伊達巻一本、タオル、洗面器、石鹸、歯ブラシ、歯みがき、浅草紙といったものを支給された。商売道具としてである。

8月27日、慰安婦施設第一号が進駐軍上陸コースにあたる京浜国道に面した、大森小町園が開設され、まず50人の女たちが送り込まれた。


血みどろにされた娘

慰安婦たちが一日に相手とした客・兵隊たちは15人から最高60人にも及んだ。
「40人を相手にすると、局部がジンジンうずくようになり、足腰はしびれ、息も絶えるばかりでした。
終わりころになると、仰向けに寝たままで、次から次へと新規の兵隊を迎えるのですが、疲れ切って足腰を持ち上げる力もない・・・・」
「微熱と痛さが出る。それに食事もノドを通らず、夜も眠れない毎日でした。それに食事と言ってもオシンコとお茶漬けだけ・・・」

肉体サービスの料金はショート10円、オールナイト20円。
これをRAA四分、女性が六分の割合で分けたという。
もっとも、部屋代、食費、衣料代、日用雑貨・化粧品などを差し引かれると、残りはわずかになってしまった。
小遣いの大半は、つまみ食いに消費したともいう。あてがい扶持の食事では、一日に40人もの相手をさせられた身体の消耗には追いつかないのである。

昭和21年2月、都衛生局からGHQにレポートが提出された、
「RAAに属する日本人慰安婦の90%は保菌者で、米海兵隊の一個師団を調べたら70%が保菌者だった」
強制検診もペニシリンも衛生サックも、まったく役に立たなかったのである。

そんな折、アメリカの母親や妻たちから、厳重な抗議の手紙が総司令部に殺到した。
新聞が、写真入りで全米各誌に大々的に報道した。

昭和21年3月2日、総司令部は「日本女性との醜交を自重せよ」と特別命令を発した。
3月10日、米兵の立入を禁止した。

それに先立って、GHQは1月22日、
「日本における公娼制度廃止に関する覚書」を日本政府に手交、24日に公娼制度廃止を命令した。
制度の廃止は単純に、性病の蔓延に頭を悩ませた結果である。


昭和21年3月27日、RAA慰安所は一切封鎖された

わずか7ヶ月の間に身も心もボロボロにされた女たちには、何の補償もなかった。
ビタ一文の”慰労金”すらでなかった。

最盛期には7万人、閉鎖時にも5万5千の慰安婦をかかえていた。

所期の”大目的”「純潔の防波堤」は達成できたのか。
政府がお膳立てを整え、業者の尻をたたいて、もっともらしい声明文まで読み上げさせたのは、この”神州・日本”ただ一つである。
敗戦国日本が、汚れない娘たちを戦勝国兵士のために”性の奴隷”として差し出した、国家売春が存在した過去は消えない。



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岡山県史より

10月12日に進駐軍先遣隊が来岡すると、宿舎である県庁分館(内山下国民学校)内に数人の連絡員と通訳を常駐させた。先遣隊からは自動車の提供、必要物資のあっせんが要求されたが、戦災による市内での物資調達は困難を極めた。
そのうえ予定より3日早く10月21日に本軍が進駐実施の連絡を受けた。

いわゆる特殊接待婦については東・西中島遊郭に90余室の専用応急施設を作り、10月25日に開業した。
また岡山劇場・三井物産岡山主張所・日赤岡山をダンスホールに改造、一般公募のダンサー100人にダンスの講習を行い、阪神方面から移入した100人とともにダンスホールに配置、10月25日開場した。

かつて日本軍が占領区域で示した暴虐行為の記憶が、いまだ経験したことのない外国軍の占領という事態に対する不安感を一層増幅させた。
進駐軍受け入りの心得の中にも「握手は求められた時だけに止めよ。毅然たる態度を保持せよ」等々、婦人に対する注意事項が多かった。
幸いにも進駐部隊と市民との間には、さほど大きなトラブルは起きなかったようである。


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「昭和史9占領下の日本」より

昭和20年、終戦直後にRAAがいち早く設立された。
要するに占領軍兵士に慰安婦を提供する機関である。
このRAAはアメリカ側の要請でなく、日本政府のきもいりでできたもの。
運営は東京都の料理飲食など接待業の団体が当たることになった。
そして「日本の新女性」を求むという広告を出して募集したところ多数の女性が応募し大森の小町園で店開きした。
彼女たちは「特別女子挺身隊員」と呼ばれ、占領軍兵士から一般の婦女子を守る防波堤になった。
ショートタイム100円、泊まりは300円だったが、兵士たちは手に手に100円札を握りしめ開店前から行列を作るありさまだった。
しかし巷にヤミの売春婦があふれ性病が蔓延したことから、米軍司令部は売春行為をするところに出入りすることを禁止し、昭和21年3月RAAはその機能を失った。

RAAの多くは街の女に転落したが、なじみの兵と専属となりオンリーと呼ばれる者もあった。オンリーとはひとつの部屋か家をあたえられ、基地周辺には派手な原色の洗濯物が干された。





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福山海軍航空隊へ連合軍が進駐

2020年09月03日 | 昭和20年(戦後)
「福山市史 下巻」福山市史編纂会 昭和58年発行


福山海軍航空隊跡地

(JFEふくやまフェスタ 2016.5.8)



昭和20年11月2日連合軍米第10軍41師162連隊の歩兵大隊約1.000人が、大津野の旧海軍航空施設に平穏に進駐した。

警察署長はつぎのような心がまえを通達している。
①家屋を解放せず、夜間は戸締りすること。
②婦人は胸を現わさず素足を見せずモンペを着用する。
③外人に笑顔を見せたり、ハンカチを振ったりしない。
④たとえ拳銃を向けられても手を挙げたりせず、物品を持ち出すものには代金を請求する。
⑤女子の貞操に対する危険には生命を賭して抵抗する、
などである。

連合軍兵士が、日本の婦女子に対して乱暴な行為に及ぶのではないかという心配は、一般市民の間に流言飛語となって流れていた。
それに対する対策として9月20日に県下の関係業者を集めて広島県特殊慰安協会が設立され、
福山市でも進駐に備えて、突貫工事で慰安所を設置した。
この施設は、進駐してきた将兵には非常に好評だったといわれているが、20年12月連合軍当局より「特殊慰安所へ軍人の立入禁止」の命令が発せられ、
やがて人権尊重・民主化の一環として公娼制度の廃止が議論されるに及び慰安所も閉鎖された。
市当局は駅前の三菱工場跡に連合軍向けの公設の土産品販売所バザーを開設した。
バザーには羽織・帯・長襦袢・日本人形・きせる・下駄・日傘・かんざし・扇子など日本情緒のあふれた品物がおかれた。
人形・扇子がよく売れた。

大津野に進駐していた米軍は昭和21年3月23日に英連邦軍オーストラリア軍と交代した。
福山地方では、進駐軍と市民の間には、治安上も行政上もほとんど紛争は起こっていないといわれている。




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黒塗り教科書②川口小百年

2020年06月26日 | 昭和20年(戦後)
「川口小学校百年史」川口小学校 正文社 昭和63年発行 より転記



G・H・Q指令

全国で昭和22年12月末に4.340人の教職員が不適格者として追放された。
神道に関しては、神社参拝、祭式、鳥居の教材などすべてが禁止された。
教科書は、
終身・歴史・地理の授業即停止、教科書の廃棄。
更に、国語・算数などの教科書の不適当な箇所を示して、教育現場の各学校に、削除あるいは修正を命じた。
そこで児童は、その示されたヶ所を墨で塗って使用した。
これが所謂「黒塗り教科書」である。

削除修正例
削除 海軍のにいさん・菊の花・神だな・にいさんの入営・金しくんしょう・支那の子ども
修正 センチノニイサン→ニイサン オクニノタメニシッカリ→シッカリ


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黒塗りの教科書①服部百年誌

2020年06月09日 | 昭和20年(戦後)
「服部百年誌」   福山市服部百年誌刊行委員会 2001年 発行より転記。

・・・・・・・・・・・・・

敗戦のすぐ後、秋ごろであっただろうか、教室に来た先生が硯を出して墨をするように指示された。
書道かなと思ったところ、先生は教科書を机の上に出させ、
○○ページの○○行目から○○行目まで墨を塗りなさいと順々に同様なことをすすめられた。

墨を塗った箇所は「天皇のために」とか「大東亜共栄圏」とか、
戦意高揚の言葉のあるところであった。
私は自らを「黒塗り世代」といい、その時の心の傷は今日なおどうしようもなく心の中に潜んでいる。

 黒塗り教科書に続いたのは新聞紙のような教科書である。
物資のないこのころ、教科書は本になった形で配布されたわけではない。
配られたのは新聞紙と同じような印刷物で、
それを縦に折り、横に折りして教科書と同じ大きさになる。
折り曲げたところをナイフで切り、右端を綴ると一ページ二ページと一冊の教科書になるわけである。

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NHK朝ドラ「エール」と『比国決戦の歌』

2020年05月05日 | 昭和20年(戦後)
古賀政男や服部良一と並ぶ作曲家・古関裕而は、
行進曲が得意で、流行歌もテンポよい曲が多い。
となれば、当然のように軍国時代には作るレコードが売れ最大ともいえる軍歌の作曲家となった。
しかし、
終戦となれば、それが仇となり代表作の一つ『比国決戦の歌』では、作詞の西條八十が死刑の推測記事が出た。
作曲した古関裕而も、戦犯逮捕を覚悟したことだろう。

今、NHK連続テレビ教室で、古関裕而の物語「エール」を放送している。
あの時代はどのようにドラマになるのか、少しだけ気になっている。


(NHK・朝ドラ「エール」)


・・・・・・・・・・・・・・・・・
「従軍歌謡慰問団」馬場マコト 白水社2012年発行 より転記
・・・・・・・・・・・・・・・・・
古賀政男は、玉音放送を聞きながら引退を考えたが1946年5月歌謡界に復帰した。
渡辺はま子は、慰問中で天津で捕虜。戦後もヒット曲を生み出した。
東海林太郎は、やくざと兵士ものを多く歌い要注意人物として、レコーディングの機会も阻まれた。
西條八十は、ある日の新聞に、『比島決戦の歌』で進駐軍によって絞首刑にされるだろうと出た。
古関裕而は、 戦後『比島決戦の歌』だけは、放送を許可しなかった。1989年、没後、国民栄誉賞が内定したが、遺族が辞退した。

・・・
『比島決戦の歌』
作詞 西條八十 作曲 古関祐而

決戦輝く亜細亜の曙 
命惜しまぬ若桜 
今咲き競うフィリピン 
いざ来いニミッツマッカーサー 
出て来りゃ地獄へ逆落とし

正義の雷世界を震わせ 
特攻隊の往くところ 
我等一億共に往く 
いざ来いニミッツマッカーサー 
出て来りゃ地獄へ逆落とし
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終戦前後の⑤樺太・千島

2020年04月23日 | 昭和20年(戦後)
「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行


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樺太・千島
樺太・千島は、帝国のなかで最後まで戦闘が続いていた。
「内地」の南端である沖縄は長く語り継がれても、内地北端で起きたソ連軍との戦闘はなぜか語り継がれることはなかった。


南樺太、
日本時代大泊の北方に位置を開発し豊原と名付けた。
1907年樺太庁が建設され豊原に置かれた。
人口比率は日本人95%で、アイヌやロシア人もいた。
1943年官製が改正され「内地」に編入された。
千島は
北海道の行政区域で、当初から「内地」だった。

千島列島の防備
1943年5月にアッツ島が玉砕すると、緊張が高まり、千島列島の日本軍は急速に増強されてゆく。
千島列島の戦略的要地は、
カムチャッカ半島との国境に位置する占守島および幌筵島。
最大の島である択捉島。
とくに択捉島は単冠湾や広大な土地があった。
1944年2月4日夜、幌筵島を米軍が艦砲射撃した。
1944年2月18日、千島・樺太・北海道を担当する第五方面軍(司令部は札幌)と、第27軍(司令部は択捉島)が新たに編成された。
さらに北千島に新設の第91師団(司令部は幌筵島)、南千島に第89師団(司令日は択捉)が配属され、対米防衛態勢が整えられていった。

樺太の防衛
ソ連との国境を接することから対ソ戦のなかに位置付けられていた。
やがて北樺太のソ連軍兵力が上回っていることが判明するが、対米戦で頭がいっぱいだった大本営と第五方面軍は、千島列島を最重要視し、樺太には関心を示さなかった。
1945年2月豊原の旅団は第88師団へ格上げされた。目的は、米軍の上陸を想定したものであって、ソ連を想定したものでなかった。

対米戦重視
戦局は悪化し、現実的になった本土決戦のために、千島防衛から北海道防衛に重点が移っていく。
その結果、千島方面の兵力を北海道へ抽出し第42師団は北海道へ移動、北千島と中千島は事実上放棄された。
第五方面軍司令部は、ソ連参戦の動きを把握しながらも、作戦計画を転換する柔軟性を持ち合わせていなかった。

ソ連侵攻
1945年8月9日朝、北樺太の国境にある国境警察がソ連軍の襲撃を受け2名戦死した。
第88師団はソ連軍の参戦を午前7時ごろ知った。
その2日後の8月11日、ソ連軍は本格的な攻撃を開始した。
第五方面軍は虎の子の第7師団(旭川)を樺太へ急派、北樺太への逆上陸を立案、しかし14日午後6時ごろポツダム宣言受諾が伝えられ、戦闘から停戦へ舵を切った。

国民義勇兵
1945年3月23日の閣議決定により、
本土決戦を控え一億玉砕が叫ばれるなか、一般住民を地域・職域・学校などの単位で編成し、作戦の後方業務・警防補助・災害復旧・物資輸送などに当たらせることを目的として結成された。
15~60才の男子、17~40才の女子を対象として敗戦間際に編成が行われた。
内地で編成された国民義勇兵は戦闘行為に参加することなく終わる、しかし樺太の義勇兵は実際の戦闘支援に従事していた。

玉音放送後も続く戦闘(樺太)
ソ連軍の攻撃は続き、第五方面軍は第88師団に対して自衛戦闘を命じたため、停戦と戦闘という相反する命令によって現場で混乱が生じた。
ソ連軍の攻撃が止まらないなか、第五方面軍も自衛戦闘の方針を変える事ができなかった。

ソ連の北千島への上陸
8月18日未明になり、今度はソ連軍が北千島の占守島に上陸したとの報がもたらされた。
占守島と幌筵島で米軍の上陸を待ち構えていた第91師団は、15日の玉音放送によって緊張感が一気に解けていた。
師団長の堤中将は北千島は米軍の占領になると考え接収準備を始めていた。
さらに17日には第五方面軍から18日午後4時までに戦闘行為の完全停止命令がもたらされ、内地帰還に向けた準備と兵器の処分もはじまっていた。
こしたなかで、ソ連軍の砲撃が開始され翌18日午前2時半ごろ、濃霧のなかソ連軍が占守島に上陸、日本軍との戦闘が始まった。
この報に第五方面軍も驚き、師団に対して即時停戦を命ずると同時に、大本営からも連合国最高司令部に対してソ連軍に停戦を伝えるよう依頼がなされた。
結局、
占守島の戦闘は21日の停戦まで続き、23・24日の両日にわたって武装解除が行われた。
日本軍の損害は死傷者600名といわれているが、ソ連軍の損害はそれをはるかに上回っていた。

北海道の占領要求
8月15日、トルーマンは日本軍降伏の担当区域の原案をソ連に送った。
8月16日、スターリンはソ連軍に対する日本軍の降伏地域に、千島列島全部を含めること、さらに釧路と留萌を結ぶ線の以北の北海道を含めることを要求した。
北海道を含める根拠は、シベリア出兵の代償であると主張した。
ヤルタ協定で千島列島をソ連に引き渡すことを決めている以上、拒絶するのは困難だった。
8月23日、スターリンは各方面軍に極秘電報を発信した。
「極東とシベリアの条件で肉体的に作業ができる日本人を、日本軍捕虜の中から50万人まで選び出すこと」

22日の豊原への空襲
真岡を占領したソ連軍は豊原へ向けて進撃をつづけた。
22日になって停戦協定が成立した、その直後ソ連軍が豊原を爆撃する事件が起きる。
最後の無差別爆撃となった豊原空襲は、22日正午を過ぎた頃、複数のソ連軍機によって行われた。
爆弾投下したうえに機銃掃射を加えた。100人以上が死亡した。
宗谷海峡では疎開者満載の三隻が国籍不明の潜水艦攻撃で撃沈され、1.700人の犠牲者を出した。

在留日本人
ソ連の占領下で生活することになった日本人は、多くがそのまま職場にとどまった。
ソ連は在留日本人の送還には全く興味を示さなかった半面、
ロシア人と同じ労働条件、同じ給与、同じ職場を与え実生活の面では大きな違いはなかった。
学校教育も神社も、日本人の生活習慣に寛容であった。
ロシア人のあいだでは、日本人がソ連国民になると見ていたようで、多民族国家であるソ連にとって、特に日本人を外国人扱いして排除する必要性もなかった。
主食の米は北朝鮮から輸入した。

引揚
米国は、占領地や植民地に在住する日本人を本国へ送還することにこだわっていた。
結局、
満州からの引揚が開始された1946年春以降、樺太と北朝鮮、大連のソ連占領地域からの日本人引揚が米ソ間で協議されるようになった。
1946年12月19日、「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」が締結され、樺太および千島からの日本人引揚が開始、1949年7月までに29万人が引揚げた。

残された民族
南樺太にはロシア人、白系ロシア人、ポーランド人、さらに23.500人の朝鮮人がいた。
ソ連は国交のある北朝鮮への帰国は認めたが、多くは南朝鮮出身者で韓国への帰国を希望した。
そのため1990年の韓ソ国交樹立まで待たなければならなかった。
朝鮮人などと結婚した日本人は残留し、ソ連国民となった。


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終戦前後の④南洋群島

2020年04月23日 | 昭和20年(戦後)
「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行


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南洋群島

南洋群島は帝国の中でも最も早く戦禍に巻き込まれた。
戦後の日本人は最も早く忘却の彼方へ押しやった。
サイパン島で玉砕に巻き込まれた民間人の多くは沖縄県人だった。
それが沖縄戦の前哨戦だったことも、ほとんど知られていない。


委託統治から日本領へ
南洋群島は最初にスペインの植民地となり、のちにドイツの植民地になり、
第一次世界大戦後、日本の委託統治領となった。
国際連盟によって統治が委託されるという形式をとる。
1940年に日本領へ編入された。
統治機関として南洋庁がパラオのコロール島に設置され、六か所に支庁が置かれた。
領域はアメリカの本土並みだが、陸地面積は神奈川県にも満たない。資源も豊富ではなくサトウキビと製糖業が中心であった。
人口は日米開戦時約14万人、うち日本人は84,000人、約5万は島民。日本人の大半は沖縄県人で50.000人を超えており、朝鮮人が約6.000人いた。

サイパン陥落
米軍の反抗が本格化するなか、南洋群島はたちまち軍事的緊張が高まった。
食糧自給率が低い島しょ部で兵員が増加すると起きる食糧問題解決のため、1943年12月一般婦女子と老人の本土への疎開が決定された。
疎開開始は1944年3月からで、約12.000人が引揚げた。
16~60才の男子は現地の戦闘に参加する。
1944年6月15日、米軍はサイパン島に上陸。南雲忠一指揮官以下日本軍は玉砕した。
日本軍死者41.000人。
一般住民の8.000~10.000人が死亡。15.000人が米軍に収容された。
サイパンに続きテニアンに米軍が上陸。
サイパンとテニアンでは多くの住民を巻き込み、集団自決まで起きた。
10ヶ月後に起こる沖縄戦の序章となった。

占領政策の原型
民間人収容所は日本人と朝鮮人を区分した。
兵士による暴行略奪や劣悪な衛生環境はなかった。
伝染病を触介する蠅や虱や蚊は徹底的に駆除された。
収容所内には、
売店、託児所、病院、学校、味噌工場もあり、野外で映画も行われた。
学校では民主主義や英語、自治組織は選挙によっての評議委員会など、民主主義的運営が試行されていた。

南洋庁の崩壊
有人島で,敗戦までに米軍によって占領されたところはサイパン島とテニアン島のみであった。
その他の島嶼は上陸はなかったものの、空爆を受け、住民はジャングルに逃げ込んで自活を強いられた。
住民の引揚は1946年1月から始まり4月までに完了した。
島民の対日感情は良好で混乱もなく引揚げた。

「帝国臣民」意識
その後、南洋群島はミクロネシアとして、米国の信託統治となった。
島民たちは日本時代に日本語教育を受けるなかで「帝国臣民」としての意識を持つようになり、各島別々だった生活文化圏をまとまりとして捉えるようになった。
九つの言語があるといわれた群島内では日本語を通じて一体性を持つようになった。

薄れる記憶
旧南洋群島の米国支配は終わった。
ミクロネシア連邦(ヤップ、トラック、ポナベ)
マーシャル諸島共和国(ヤルート)
パラオ共和国の、三か国が独立し
北マリアナ諸島連邦(サイパン)は、米国の自治領になった。
実質的には米国の影響下に置かれている。
戦後の日本社会で、南洋群島の記憶はもっとも薄れたものになっている。
「南洋の楽園」か「玉砕の島」の相反するイメージが併存する。
島民の被害の実態、さらには労働者として渡ってきた朝鮮人の何人が犠牲となったのかは、不明のままである。

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