しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ゼロの文学

2022年05月07日 | 昭和20年(戦後)
軍国主義におもねれば別だが、
作家にとって表現の自由を奪われたら、その時点で作家は成り立たない。
岡山に疎開していた永井荷風が、
終戦翌日の日記に記した”月佳なり”には新時代への期待や解放間がよく出ている。





ゼロの文学


新聞は戦争記事でうまった。
男は国民服とゲートルをつけ、
女性はモンペをはくことになった。
そんななかで作家たちだけが自由を主張することはできない。

徳田秋声の傑作『縮図』は、芸者に身を売った女の半生を軸とした小説であったが、
時局をわきまえぬものとして新聞に連載中、中絶、作者は昭和18年に死んだ。
谷崎潤一郎の『細雪』は中央公論に発表されたが、ただちに禁止された。
永井荷風の『踊り子』は、発表の可能性のないまま、ひそかに書きつづけられた。

・・・

昭和20年8月15日戦争は終わった。
文学の自由は復権した。
荷風・白鳥・潤一郎らの老大家がまず復活し
執筆不能の状態にあった中野重治・佐多稲子・宮本百合子ら旧プロレタリア文学の流れが動き始め、
野間宏・椎名鱗三・武田泰淳・三島由紀夫の戦後派、
坂口安吾・石川淳・太宰治・織田作之助などの新戯作家といわれる人たちが登場し、文学は何十年かぶりで、その自由をかくとくした。


太平洋戦争下の約5年、そこには「芸術の名においても」また「人間の名においても」文学と呼ばれるものはなかった。
それは「ゼロの文学」だったのである。
「太平洋戦争」 世界文化社 昭和42年発行



・・・・・・・・・・

岡山市に疎開していた荷風の終戦翌日の日記は、これからの日々に自由や希望があふれ出ている。

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「荷風を追って」--1945夏・岡山の80日  三ツ木茂  山陽新聞社 2017年発行

この日、東久邇宮に大命は下った。
荷風は筆をとり、元中央公論社社長の嶋中雄作に手紙を書き、
岡山県勝山町の谷崎潤一郎にも礼状を認めた。
この夜の月がおそらく最も輝いていたであろう。


(昭和20年)
 八月十六日(木)
晴、郵書を奈良県生駒郡法隆寺村に避難せる嶋中雄作に寄す、
また礼状を勝山に送る。月佳なり。



・・・・

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公文書焼却

2022年05月05日 | 昭和20年(戦後)

・・・・・・・

「遊行日記」  立松和平  勉誠出版  2010年発行


部隊が長い貨車で満州の荒野を移動中、敗戦を知った。
天皇が連合軍に敗戦を受けいれたことをラジオの玉音放送で全国民に告げたのだという。
新京駅構内は、行き先を失った軍事列車でいっぱいであった。
軍の機密書類をあわてて焼却する煙があっちからもこっちからも立ち、
兵たちが忙しそうに働いていた。
 
・・・・

小隊のこれまでの軍事行動を克明に記録し、
それをもとに軍隊手帳にガラスペンに墨汁をつけて転記した資料を、
大切に保管して守ってきたのだ。
だがこれを燃やせという命令が発せられた。
もしなくしたら軍法会議行と思って、命に換えて守り通してきたのである。
「副官殿、これを燃やしていいでありますか」
こう聞くと、すぐに命令が返ってきた。
「それは燃やせ」
火の中に、行李を開けて中の書類を放ち捨てると、火の勢いはいよいよ強くなった。
大切に守ってきた軍籍関係の書類は、あっけなく煙となって消えた。


・・・・・

海軍経理部にいた橋田壽賀子の終戦時の体験談。



空襲・終戦・いさぎよく死のう   橋田壽賀子

「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行


とにかくアメリカ兵が進駐してくる前に、重要書類を焼却せよという命令で、
その日から、私たち下っ端職員は、総動員で書類を庭へ運び出し、
三日三晩ほとんど寝ずに燃した。
ギラギラと灼きつくような太陽の下を、重い書類を抱えて庭を往復し、
目は煙で真っ赤に腫れあがった。
頭の中は真空状態で、なにも考えられなかった。
ただ、アメリカ兵がやってきたときは、いさぎよく死のうと覚悟を決めていたから、
肉体的な苦しみにも耐えられたのではないかと思う。




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審判

2022年05月01日 | 昭和20年(戦後)
父は、中支の戦線で「刀で人は斬ったことはないが豚は斬った」と話していたが、
その豚は現地人の家畜を泥棒したのに違いない。


よく言われるように野戦では、最初の殺しは動揺するが、次からはなんとも感じなくなる。
それでも、なんらかの負い目みたいなものを生きている限りは、背負っていたのだと思う。





・・・・



審判 「武田泰淳全集第二巻」 筑摩書房 昭和46年発行 


私は終戦後の上海であった不幸な一青年の物語をしようと思う。
この青年の不幸について考えることは、ひいては私たちすべてが共有している不幸について考えることであるような気がする。


老教師の息子の二郎が現地復員した。
私は老人から息子について何度も聞かされていた。
私自身もその青年がこの家へもどってくるのを待ち望む気持ちになっていた。
老人の自慢の息子はたしかに立派な青年であった。
二郎は政治上の意見ものべず、悲苦の情もあらわさず、本心らしいものを吐露しようとはしなかった。


二郎の恋人の鈴子さんがはじめて訪ねて来た時にはちょっと驚かされたものだ。
パッと人眼を惹く美しい彼女は、湿った暗い気分を解放する新鮮な光にみちていいた。
このような美しい乙女に愛されている二郎をつくづくうらやましいと感じた。


二月になって、私は彼の口から鈴子さんとの婚約をとり止めにしたむねを聴かされた。
理由は別に語らなかった。
説明しにくいことだから、とだけ言った。
二郎の父は、
自分たち二人は次の船で日本に帰国するつもりだと私に告げた。


二郎の手紙
『私はあなたにあててこれを書き残すことにしました。
私はある理由によって帰国しないことにきめました。
裁きがあるものかないものか、私にはまだわかりません。
私は戦地で殺人をしました。


戦争である以上、
戦場で敵を殺すのは別にとりたてていうほどのことでもありますまい。
兵士として当然の行為でしょう。
しかし、私の殺人は、私個人の殺人でした。
住民を侮辱し、殴打し、物を盗み、家を焼き、畠を荒らす。
私には、
住民を殴打したり、女を姦したりすることはできませんでした。
しかし豚や鶏を無断でもってきたりしたことは何度もあります。
無用の殺人の現場も何回となく見ました。


一昨年の四月ごろ、私はA省の田舎町にいました。
二人の農夫らしい男がこちらに歩いて来ました。
日の丸の旗を持っています。
分隊長は差し出す紙片を読みあげました。
それは二人を使っていた日本の部隊長の証明書でした。
善良な農夫であるので、途中の日本部隊は保護せられたい由が記されてありました。
二人が歩き出すと分隊長はニヤリと笑い、小さな声で
「やっちまおう」とささやきました。
「おりしけ!」と彼は命令しました。
兵士たちはあわてて自分勝手に銃をかまえました。
命令の声、銃声、私も発射しました。
一人は棒を倒すように倒れました。
もう一人は片膝ついて倒れましたが、悲鳴をあげ、私たちの方を振り向きましたが、すぐにふせてしまいました。
ぱらぱらと兵士たちはかけて行きました。
一人はまだ手足をピクピク動かしています。
とどめが発射されました。
あとで聴くと四、五名は発射しないか、わざと的をはずしていました。
「俺にはあんなまねはできないよ。イヤだイヤだ」


私には鈴子がありました。
鈴子と私は愛しあっていました。
私が熱を出した時など、
もう奥さんにでもなったようすで
「おとなしく寝ていらっしゃい。
キッスしてあげるからね」
私は一緒に暮らすようになり、二人とも老人に至るまでのことを考えていました。
その時、突然、
私は自分の射殺した老人夫婦のことを想い出しました。
そして私が老夫だけを殺して、老妻を残しておいたことに気づきました。


「君にぜひとも話しておかなきゃならぬことことがある」と私は言いました。
「何なの?」
鈴子は寒そうにちぢめるた肩をよせかけて歩きました。
「僕が人を殺した話なんだ」
私は真面目な話であることを説明してから一気に喋りました。
彼女は途中で一度、
「イヤ、おやめになって」と頼みました。
私はかまわず終わりまで自分の感情の底をさらけだして話しました。


三日目に彼女の方から訪ねてきました。
両方ともに口がうまくきけませんでした。
彼女の声は疲れはてた人のようでした。
私は今や自分が裁かれたのだと悟りました。


一月ばかりして鈴子の父上が見えました。
君の苦しみはよくわかる。
鈴子との婚約を打ち切りたいなら打ち切ってもよい。
それで君は今後どうするつもりか、とたずねられました。
私は、中国にとどまるつもりだと答えました。
私は自分の犯罪の場所にとどまり、私の殺した老人の同胞の顔を見ながら暮らしたい。
こんなことをしたからとて、罪のつぐないになるとは考えていません。
しかし私はそうせずにはいられません。
鈴子の父親は微笑されました。
そして、
「君のような告白を私にした日本人は三人目だ」と言われました。
どんな愚かな、まずいやり方でも、ともかく自分を裁こう。
これを報告できる相手としてあなたを友人として持っていたことを無限に感謝します』



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終戦 (長船町・邑久町・金光町・鴨方町・岡山市)

2021年08月23日 | 昭和20年(戦後)



長船町史」  長船町史編纂委員会 第一法規出版 平成13年発行

昭和20年8月15日、天皇は、この日の正午、ラジオを通じて国民に戦争の終結を告げた。
多くの人は、今まで支えてきた気力が抜け、虚脱状態の中で、戦争終結の安堵感と敗戦による今後の国家や村や自分たちの向かう方向への不安とが入り交じって複雑な気持ちになった。
農村地帯であるこの地は、空襲などの傷あとは表面的にはみあたらなかった。
村内を見ると、男子若者が兵士や都会の軍需工場へ徴用などでかり出されて、見あたらなくなっていた。

敗戦から一か月ほどが経過して、やっと気持ちを取り直してきた9月18日のことである。
前日の17日から枕崎台風が西日本を襲った。
18日午後3時、水位を上げてきた吉井川は200mにわたって決壊した。
濁流は一気に邑久郡中北部一帯を泥海に変えた。
停電が続き夜は真っ暗闇、また赤痢などの発生も心配しなければならなかった。
20日後、低地でも水が引き、被害の跡片付けに手を付け始めた10月8日、
阿久根台風で、吉井川はまた氾濫した。
前回決壊堤防から、そこを通り流れ出した。
二度の氾濫で郡内の自給自足さえ危ぶまれるようになった。



邑久町史」 邑久町役場  昭和47年発行

終戦直後、進駐軍三千数百名が岡山市に駐留し、邑久ではさまざまな憶測がとび、
流言が流れた。
この邑久の人々の不安をさらに深刻なものにしたのは、同年あいついで起こった風水害である。
農村にとって天災はもっとも恐ろしい大敵である。
邑久町の西部全域が水をかぶった。決壊の水は浸水1週間つづき、10月には再び増水した。





金光町史」 金光町 平成15年発行

敗戦に伴う軍隊の解体、満州・朝鮮・台湾など旧植民地の放棄、
占領体制下における天皇制国家の政治体制の解体と民主化への改革の歩みが進められることとなった。
内務省の解体と新しい地方自治体の創出、警察制度における特高警察の廃止と地方自治警察の創設、財閥解体と労働関係三法の成立、農地改革、教育における六・三制への移行、宗教における信仰の自由の体制などがこれである。

戦後改革の手始めは、戦争の指導者たちを各界から除去するという公職追放であり、
また戦後の民主化をなす選挙制度の改革、とりわけ婦人参政権の実現となってあらわれた。




鴨方町史 本編」  鴨方町  平成2年発行

「雑音で聞き取れない重大放送は内容は判らなかったが、何となくおかしいと感じた。
其の日、遂に日本が負けたと知らされたとき、まだ20代前半だった私は、声を放って泣いた。
その翌日から百八十度転回した通報達が来る。
先ず教科書の幾つかのページを墨で塗りつぶす。
昨日までひたすら敵意を駆り立てていた子供たちに、どう説明すればよいか、と私は戸惑った。」
終戦の迎え方は職業や役職・地位などによって相違していたが、敗戦による不安と安堵感は共通していた。




「岡山市百年史下巻」 岡山市 ぎょうせい 平成3年発行

岡山市

敗戦の日の人々の表情を『合同新聞』(昭和20年8月16日)は次のように伝えている。

「其航空機工場」 わたしたちは力の限り戦った、しかも負けた、どうしてでしょう。
涙涙、ただ涙。挺身隊の乙女たちが雄々しく結んだ白鉢巻も今は悲しく手に持たれ、東方を伏し拝み、天皇陛下に力及ばざりしを御詫するのみ。

「県庁」官吏としてすべきことはなした。県民には無理を言ったが、涙ぐましい努力によって完遂してくれた。
このうえは戦後の秩序維持、食糧増産、土木再建等重大使命に全力を傾注しなければならない。

「農村」 戦争には負けたが、国民の食糧問題の成否を担うわれわれ農民は頑張るぞ。

「街頭」焼け残った家の片腹に防空壕を構築していた町内会の人々は、
思ひもかけぬ発表に”畜生ッ”と手に持った鍬を叩きつけ、どっかり大地に腰をおろした。
家を焼かれ子供も焼かれた、しかし聖断を仰ぎ奉った。
街の人々も逞しく起き上がった。

橋本市長と戦災復興
竹内市長は、戦争末期の翼賛市政の中心的指導者であったばかりでなく、軍人市長であった。
昭和20年9月24日の市会で辞意を表明した。
辞任の理由は「将軍市長の使命終われり」というにあったと伝えられる。
倉敷紡績から合同新聞社長になった橋本富三郎氏が市長になった。最後の内務大臣によって専任市長。
10月23日、5.000人の米軍将兵が旧陸軍兵舎に駐屯した。


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「特高警察」とは

2021年08月22日 | 昭和20年(戦後)
敗戦後、まっさきに”公職追放”を受けた「特高警察」とは、どいうゆう存在だったのだろう。



「岡山県県政史」

特高警察官の一斉罷免

「公職追放」は,GHQが計画し、その指令に基づいて、日本政府がこれを実施したものである。
1・応急的追放 特高警察官の一斉罷免(昭和20年10月4日)
2・第一次公職追放 昭和21年4月の衆院選挙を前にして、その規模は大きく政治革命といわれた。
3・第二次公職追放 地方公共団体に極めて大きく影響し、県・市町村およびその議会に多数の該当者があり、地方政界の革命と言われた。
4・公職適否審査委員会
5・追放解除 昭和25年10月から一部解除が始まり、昭和27年平和条約発効とともにすべての公職追放は消滅した。

特高警察官の一斉罷免
本格的公職追放の実施に先だち、昭和20年10月4日、GHQは政治犯の釈放、思想警察の廃止、総動員法による特殊会社団体の解散を指令した。
思想警察の廃止の指令は、特高警察官、憲兵の一斉罷免をもとめたものであった。
このため、本県では県警察部長、特高課長以下の課員および各警察署の特高係巡査に至るまで70余名が全員罷免された。
これとともに県警察部特高課は消滅廃止された。





「岡山県史 第13巻」 岡山県 昭和59年発行

戦争の指導者たちを各界から除去するという、いわゆる公職追放は、
非軍事・民主化のための最も重要な占領政策の一つであった。
アメリカ軍の本土占領がほぼ完了した昭和20年10月4日にGHQは「政治的、公民的宗教的自由に対する制限除去の件」と題する覚書を発した。
これは治安維持法その他の自由抑圧法規の廃止、政治犯の即時釈放、思想警察の廃止、内務大臣をはじめとする特高警察官の罷免などを指令していた。
この特高警察官の罷免、いわゆる特高追放が公職追放の始まりであった。
岡山県では、当時の県警察部長、特高課長以下特高関係警察官69名が罷免された。







「特高警察」 萩野富士夫 岩波新書 2012年発行

高見順は「日記」に、「特高警察の廃止、胸がスーッとした。暗雲が晴れた思い」と記した。
特高警察といえば、その拷問に象徴される暴虐性がやはり想起される。
特高警察は、表向き拷問死を否定するが一方で
「お前も小林多喜二のようにしてやるぞ」と恫喝するのを常とした。
戦前を通じて日本国内では拷問による虐殺80人、
拷問による獄中死114人、病気による獄中死1.503人と数えられている。

「生きている」特高警察
昭和天皇即位の「大礼」時、(1929)や各地への行幸時には、警察による全国一斉の「戸口調査」が実施され、間借り人・下宿人らの徹底調査や貸座敷、料理店、飲食店、旅人宿などに対する「検索」(立ち入り調査)がおこなわれた。
この「戸口調査」は「巡回連絡」として現在も実施されている。
一般警察官が担当し、情報は、戦前は「特高警察」、戦後は「警備公安警察」に集められる。

3・15事件
1928年2月の衆議院議員の最初の普通選挙で、日本共産党は党員の立候補やビラの配布など、
公然とその姿をあらわした。
これに危機感を強めた田中義一内閣は、3月15日未明、1道3府27県で一斉検挙を断行する。
検挙者は約1.600人。田中内閣は「赤化」の恐怖をふりまいた。
「国体」変革を企図する共産党の広がりが為政者層全般に与えた衝撃は大きく、治安体制が拡充整備されていく。

特別な高等警察
警察の機能は一般に犯罪の予防をする「行政警察」と、
犯罪の捜査や容疑者の検挙・取調べを主とする「司法警察」に分かれる。
戦前の警察の特質はの一つは、この「行政警察」の領域が広く、
犯罪予防以外に、衛生・工場・建築・営業などの国民生活と密接に関わり、
支配統治機構の末端の執行機関として機能していた。
もう一つの特質は、「特高警察」に代表される治安維持・社会秩序の維持機能の強化である。


特高の二層構造
特高警察の指揮センターは内部省警保局保安課であった。
高等試験の388人(1941年)、地方の特高警察約10.000人。
各県に「特高課」、各警察署に「特高係」が置かれる。

特高警察の日常
(1938年宮崎県特高関係書類、米軍没収)
発禁出版物一斉取締り
落書き一斉取締り
要視察人名簿整理
防諜座談会開催
不良新聞記者取締り、外国人一斉視察、朝鮮人一斉視察
邪教一斉取締り
小作争議未然防止
さらに、裏作作付けや貯蓄心の「銃後の活動」にもあたる。
宮崎県特高課は10人、各署特高係は合計30人という陣容である。

思想検事と特高警察
平沼騏一郎に代表される司法官僚は大逆事件で主導権を握ったが、
その後、「思想犯罪」の対応は特高警察に後れをとっていた。
地方裁判者検事局に「思想検事」が配置された。
労働・思想と実際に第一線で対峙するのは警察力であった。

思想憲兵
軍部でも思想問題に関心を寄せた。
憲兵は軍隊内の警察機能を有すると同時に、軍隊の外の一般社会において軍に関わって起こった犯罪に対する捜査や検挙などの権限を持った。
反戦や反軍の運動・思想であり、「満州事変」以降、思想憲兵の活動する場が広がった。

それぞれが優位に立とうと、活動に拍車をかけることになり、
その結果として社会運動のえぐり出しや国民生活・思想の監視と抑圧の度合いをさらに強めることになった。





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関行男海軍大尉の碑

2021年08月21日 | 昭和20年(戦後)





「私のかかげる小さな旗」 澤地久枝 講談社 2000年発行

暑さが時間とともにましてくるような7月下旬の一日。
関行男海軍大尉の碑をたずねた。
それは愛媛県西条市にある。
特別攻撃隊としてさいしょの出撃をした5人の慰霊碑が、楢本神社の前庭に建てられていた。

関大尉(戦死後中佐に特進、海兵70期出身)がレイテ作戦の捨石として還ることのない出撃をした日、わたしたちは女学校の2年、満州にいた。
昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊敷島隊出撃。
関大尉が23歳であり、母と新妻を遺していることは、わたしの記憶にはない。

「赫々たる戦果」と、特別出撃の「壮挙」をたたえるラジオを聞きながら、
わたしもまた、この戦争で死ななければあいすまないと思っていた。
碑文によれば、関大尉とともに出撃して還らなかった部下は4人。
19歳が2人、20歳が2人、いずれも若すぎる死である。

1974年、特別出撃で夫を喪った妻に会うべく、わたしは全国を歩いた。
確認できた妻たちを訪ねて一人旅をつづけた。
戦争が終わって29年目の初夏のことである。

関大尉の妻であったM子さんには、結婚から夫の特攻出撃までわずか5ヶ月しかない。
その後専門職をおさめ、再婚していた。
わたしの手紙に対して、
「どうぞ見逃しておいて下さいませ」という胸がえぐられる返事が来た。
誰もさわってはならない現在の境遇、深い心の傷。
痛みに耐えている人にとって、人間の記憶という生理はどんなにきびしいか。
さらにもの書きの業はいかに深いかを感じさせる返事だった。

特攻出撃の死と戦死の死との間に差はない。前者が英雄視され、戦後の一時期「犬死」と言われた。
死んだ人間には釈明の機会は永遠にない。




(撮影日・2012.10.16 西条市)




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大岡昇平の「俘虜記」

2021年08月20日 | 昭和20年(戦後)
人生で一番多感な時に終戦を迎えた作家・吉村昭は、「鬼畜米英」→「ヘイワ日本」と一夜にして簡単に転向した新聞や寄稿者に愕然としている。
大岡将兵の「俘虜記」に救われたと、当時を回顧している。




「その人の想い出」 吉村昭 河出書房新社 2011年発行 

戦争を見る眼

終戦は、私が18歳になった年の夏で、その日を境にはじまった大変化の中で、
私はただ呆然として時を過ごしていた。
終戦前までは、ひたすら戦意昂揚を唱えつづけていた新聞、ラジオをはじめとした報道機関は、一転して終戦前のあらゆる事柄の全否定に終始するようになっていた。
報道機関のみならず有識者と称される人たちも、新聞、雑誌に一斉に戦争批判の文章を発表した。
私は、それらの活字を前に放心状態にあった。
18歳の夏までに見た日本人は、いったいどこへ行ってしまったのだろう、
同じ人間でありながらこのような変貌を遂げてもよいのだろうか、と思った。

或る作家の書いたものに、私は首をひねり、そして激しい憤りをおぼえた。
その作家は、徴兵検査の日、醬油一升を飲み、体に変調を起こして不合格となった。
このように徴兵拒否をすることによって戦争反対を身をもって実行にした・・・と。
冗談ではない。
かれは軍隊に入るのが恐ろしく保身のためにすぎない。戦争反対などとは次元が異なる。

このような文章にばかりふれていた私は、「俘虜記」を読んで感動した。
「俘虜記」の中の一兵士である「私」は、敗北の兵として密林の中をさまよい歩く。
その間に若い米兵の姿を近くに見て、容易に射殺できたが、発砲はしない。
その心理についての氏の叙述は、秀れた思考家であることを示している。
このシーンに、戦争の実体が鮮やかに浮かび出ていた。



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本土決戦 (丸谷)

2021年08月16日 | 昭和20年(戦後)

「星のあひびき」 丸谷才一  集英社  2010年発行

アメリカ軍は九州上陸を「オリンピック作戦」と名づけ、
昭和20年11月1日におこなふことにしてゐた。
関東攻略は「コロネット作戦」で、翌年3月1日開始の予定だった。

45年5月のドイツ降伏後にアメリカ兵にしばらく休養を与えなければならないし、
日本の9月は台風、11月、12月は寒さがある。
そこで志布志湾、吹上浜、宮崎沿岸の三方面から同時といふことになる。

日本軍の指導者たちは知性を軽んじたし、
国民に対しても君主に対しても責任感が乏しかった。
思考が非論理的で、数値になじまなかった。

アメリカ軍は地形が改まるほどの艦砲射撃を一週間つづけ、
上陸地点で日本軍がまったく抵抗できないようにしてから上陸する。
サイパンにおけるこの体験で、同じことを九州でも関東でもされることはわかっていながら、
日本軍の上層部は本土決戦とか一億玉砕とか叫ぶのをやめなかった。

長野県松代の地下に設けた大本営は、
天皇と内閣を巨大な地下壕に幽閉していつまでもこの国を支配したいといふ空想的願望のための装置である。

・・
保阪正康は「本土決戦幻想--オリンピック作戦」で、
8月15日に降伏しなかったら、
日本と日本人はどうなってゐたかといふ、
あり得たかもしれない歴史をつきつけるのだ。

保阪によれば、秋になっても降伏しない日本はもはや国家の体をなしてゐない。
天皇や鈴木内閣の意に従はうとする終戦派に対し、
本土決戦派がクーデターを起こし、後者が勝てば、
天皇および次期内閣が松代に軟禁される。
当然、
ソ連軍は北海道と東北に侵入する。
しかし決戦派は諦めないかもしれぬ。

10月25日(11月1日のマイナス7日)にはアメリカ戦艦軍による艦砲射撃が開始。
10月27日には米軍が、防備の手薄な甑島などに上陸。
11月1日、侵攻部隊が浜辺に近ずくと、特攻機が突っ込む。
艦隊の集結してゐる所へは人間魚雷などで攻撃。
その他の特殊潜航艇や攻撃艇などが特攻作戦をおこなふ。

上陸した米軍との地上戦になると、米軍戦車にくらべて日本軍の戦車および対戦車砲ははるかに劣弱。
火炎瓶、手投爆雷による特攻作戦をおこなふ。
このあとが民間人による戦闘で、
大本営の「国民抗戦必携」は、
刀、槍、竹槍、鎌、ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口を用ゐてアメリカ兵の腹部を突き刺せと教える。

本土決戦となれば敵が近くにゐるから特攻作戦に有利、といふのが軍人たちの理屈だったらしい。
日本軍上層部の、体面を重んじる官僚主義が最も悪質な形で発揮されたとき、
年少者や民衆にこんな形での抵抗戦を強ひる発想が生まれた。


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終戦直後の指令②公文書焼却  文書を焼く煙が幾日となく続く

2021年08月15日 | 昭和20年(戦後)
終戦後、日本の役場が行った最初のことは文書を焼却したことはよく知られている。
以前読んだ何かの本には、終戦後の郡役場の官吏が自転車に乗って、管轄内の町村役場を回って口頭で指示したとあった。
役人は、こっそりと、証拠を残さないように焼いた。

この本の↓、著者は参謀本部の課長や阿南陸相の秘書官を務めた人。
巻頭に書かれている。

「太平洋戦争陸戦慨史」 林三郎  岩波新書  1951年発行

本書では、太平洋戦争間における陸軍統帥部の動きにつき、
「当時はこうであった」ということを、忠実に伝えようと私は務めた。
資料の収集と利用には非常な苦心を要した。
というのは、ほとんど大部分の資料が敗戦とともに焼かれてしまい、
書中の記述については、見る人によってはなお不備な点があるであろう。


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「福山市引野町史」 引野町史編纂会 ぎょうせい 昭和61年発行

引野村

昭和20年11月2日、連合軍歩兵大隊1.000人がノートン隊長に率いられて大津野海軍航空隊に進駐した。
幹部宿舎として戦災を免れた数軒が接収された。
図書・文書・什器類を焼く煙が幾日となく続き、昨日まで祖国の光輝ある歴史を物語るものとされた忠魂碑の類も続々と棄却されていった。

進駐軍を迎えて困ったのは便所であった。
市は市内9ヶ所に進駐軍用便所を造ってこれに供した。
もちろん水洗であったから、占領軍専用の水道管を敷設したりした。

今日になって悔やまれるものの一つにはこの時期における文書類の過度なまでの焼却廃棄で、
戦災による損傷焼失とともに、悔やんでも悔やみきれない文化財の喪失がその中に含まれていた。

昭和21年5月24日、米軍に代わって豪州軍が進駐した。
絶対勝者の進駐にしては総じて紳士的、特に米軍の場合がそうだった。




「特高警察」 萩野富士夫 岩波新書 2012年発行
特高警察
8月15日前後から、多くの特高の関係資料が証拠隠滅のために焼却された。
内務省では各県に奥野誠亮や原文兵衛らを派遣して、文書の焼却などを口頭で連絡している。



「戦争調査会」 井上寿一著 講談社現代新書 2017年発行


戦争原因の追及はむずかしい。
敗戦国は責任回避に走り、証拠の隠滅を図る。

陸軍は早くも8月14日の午後から機密文書の焼却を始めている。
翌日正午の「玉音放送」後、中央官庁街を見渡すと、
外務省・内務省・大蔵省から公文書の焼却による煙が立ち上がっていた。



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(転記先・不明)

焼却文書

証拠隠滅を図る目的で焼却された文書が発掘された


日本陸海軍は敗戦とともに多くの公文書を焼却処分にした。
戦争犯罪追及に直結するからである。
このことは後の実証的な歴史研究に大きな障害となった。
ところが、発掘調査では時としてその焼却された公文書や書籍類の焼け残りが発掘されることがある。

東京都目黒区大橋遺跡等の調査では、陸軍の公文書や書籍類が多量に発掘された。
これらは、ゴミ穴・防空壕・地下壕などから出土したものである。
いずれも昭和20年8月15日の敗戦にともなって、証拠隠滅を図る目的で陸軍によって組織的に焼却されたものであったが、
公文書の綴りは大部なために、また書籍も比較的厚いために、完全燃焼に至らず残ったものである。

出土状況はガラス瓶、炭化した木材と共に検出された。
文書類は一気に投じられたため、多くの文書が焼けたものの一部は原型を留め文字の判読できるものが多々みられた。


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(昭和20年)八月十五日「負けたら殺される」

2021年08月15日 | 昭和20年(戦後)
祖母が亡くなるまで、家には天皇・皇后の写真を掲げてあった。
戦前に購入したご真影だが一時(終戦直後)は、どこかに隠していたそうだ。アメリカ軍に持っているのを見つけられたら、「何をされるかわからん」と心配していたようだ。

父は岡山の軍にいたが、仕事で近くの県庁(当時は天神山)に行くことが多く、
8月になると、県庁の人から「負けるよ」と教えてもらっていて玉音放送の内容は事前に知ってした。

作家・五木寛之さんが書いている、終戦前に政府・軍人の高官が、市民に知らせることなく自分たちだけ逃げたのは日本人として情けない。
満州でも、同じように市民から脱出するマニュアルがあるにも関わらず、現実は「最後に逃げる人」が「最初に逃げた、しかもこっそり」と。
今でも国家のエライ人の言うことを、どこまで信じていいのか、よくわからない。





(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)


「美星町史」 美星町史編集委員会 山陽印刷  昭和51年発行

終戦の時
国民の生活は日増しに苦しくなり、疲労と飢えにあえぎながらも「負けたら一人残らず殺される」という宣伝がされて一段と緊張を増した。
山野で働いているものも田畑を耕作しているものも、戦場のようなすさまじい音を耳にすることがあり、夜は遠くの空が真っ赤に染まり、どこかが焼けていることを感じた。
ついに昭和20年8月15日をむかえた。
丁度その日、私どもの周囲に「降伏せよ」と印刷したビラが飛んできた。
母が「戦争が終わったら電灯が点けられるかなあ」といった。
外へは出せない悲しみの一つ、それは妊婦の苦しみであった。
妊産婦は栄養もとれず、特に動物蛋白源は何一つなく、煮干しさえ一週間に一度、食べるか食べないかの生活、胎児の順調な発育等は望むすべもない。



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「勝央町史」 勝央町  山陽印刷 昭和59年発行

戦後の混乱
やがて進駐してくる外国軍隊についての恐怖心は相当なものであったようだ。
「男子はキンを抜かれる。娘は慰安婦に供出させられる」などというデマが乱れ飛んで、娘たちを田舎に移住させた親もあった。
また「戦争に関係ある書類は焼却せよ」という上からの指令があって関係のない書類まで焼き捨てた役所や学校も多く、これが戦時中の記録をなくした大きな原因になった。



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「奥津町史 下巻」 奥津町 平成17年発行

敗戦

正午の時報に続いて和田信賢放送員がマイクに向かい、
「ただいまより重大なる放送があります。
全国聴取者の皆様、ご起立願います」
続いて下村宏情報局総裁がマイクに向かい
「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこくもおんみずから大詔を宣(の)らせたもうことになりました。
これより、謹みて玉音をお送り申します」。
詔書は次のとおりである。
  朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告グ(以下略)

当時国民学校4年生の少年は、玉音放送の内容は解らなかったが、
大人たちは一様に虚脱状態で「ついに敗れた」と教えてくれた。いち早く母に知らせたら「やれやれ、これで安心できる」と一言つぶやいた。
墨汁で塗りつぶした教科書を用いて5年生になった。


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(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)

「わが人生の歌がたり」  五木寛之  角川書店 平成19年発行

玉音放送を聴く
当時・ピョンヤン一中学校の1年生。

敗戦の直前には、四十を過ぎた父親までが「教育召集」といって、召集されたのにはびっくりしました。
兵隊に行くのは若い人たちばかりだと思っていたら、いい年をした学校教師まで引っ張りだされたのですから。
それでも一般の国民は「神風」を信じていたのです
漠然と信じていたんです。
「神州不滅」と子どものときからたたき込まれていましたから、この国が負けるなんて絶対あり得ないと思っていました。
8月15日に「今日は大事な放送があるから」と、学校の先生に言われて、校庭に集合したときは、
まさか日本が敗れるなどということは想像もしていませんでした。
それが玉音放送だったのです。
校庭に全員集合して、ラジオから流れる雑音の混じった放送を聞きました。
あ、これでもう苦しい作業はしなくていいんだ。
何か長い夏休みが始まるような、開放感のような、空しさのような、ポカンとした空白感がありました。
そしてこの後、何が来るのかまったく予想もつかない不思議な感じでした。
父は「神州不滅」を信じていた教師でしたが、本当に茫然自失で、
どう判断していいのかわからずに立ちすくんでいました。


ところが戦局の情報を把握していた人は事前からうまく対応していたようです。
敗戦の時にはすでに、
軍部の上層部の家族や、財閥、高級官僚の家族は、山のように家財道具を積んで、ピョンヤンから南下していたようです。
上の人たちは、列車が動いている間にソウルへ、内地へ向かっていたのです。

やがて朝鮮人たちの民主組織などが、どんどん活発になってゆき、身の危険を感じるような雰囲気でした。
軍歌がまったく聞かれなくなったのは、やはり驚くべき変化でした。



(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)

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「革新と戦争の時代」  井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行 

15日正午、ラジオから玉音放送が流れた。
次いで、
同夜のラジオと16日の新聞各紙で終戦に関する内閣告論が発表された。

軍人・軍属を中心に終戦に、抗議・絶望、あるいは敗戦責任を負っての自決が相次ぎ、
その数は軍人・軍属だけで600名を超えた。

大本営は16日午後4時、全部隊に対して停戦命令を発した。
停戦は、おおむね滞りなく実施されたが、ソ連軍の侵攻が続いた満州・樺太ではなお一週間も戦闘が続いた。

無条件降伏が正式に布告されたのは9月2日のことである。

8月15日午後、鈴木内閣は敗戦責任をとって総辞職した。
木戸内大臣は平沼と協議の上、皇族、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を後継首班として、近衛文麿に後援を求めることにした。
16日、東久邇宮に天皇の組閣命令が下った。




(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)




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